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赤ちゃん本部長 [日記]

週末になると春の嵐が吹き荒れる中でも、まだ頑張って花をつけている桜の木もありました。
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テレビ番組を話題するのもどうかなと思いましたが、ちょっと感動してしまったのでご紹介いたします。

赤ちゃん本部長

日曜日の晩(3月29日24時40分)、何とはなしにテレビをつけていたら、このアニメが始まりました。
一話5分ずつで、トータル40分の番組です。

寝る前にちょっとだけ、と思っていたのですが、ついつい引き込まれてみてしまいました。
おそらくどこかのタイミングで再放送されるとは思いますが、NHKプラスで視聴できるので、ご興味がおありの方はぜひともとおすすめします。

このアニメの原作は、竹内佐千子さんのコミックです。
47歳の武田本部長が、ある日突然赤ちゃん(生後8ヶ月くらい)になってしまう、という一見荒唐無稽なお話ですが、中身がおじさんの赤ちゃん目線で世の中のありようをみる、という面白い設定です。

この物語の一つの肝は、赤ちゃんになってしまった本部長を職場の人たちがきちんと受け入れサポートする、というところ。
しかも、本部長のお世話(ベビー用品の調達、食事の世話、おむつなど排せつの世話、外回りや会議などのサポートなどなど)を、職場の男性の部下が自発的に(困惑しつつも愛情を持ち面白がって)行っている。
おそらく、女性社員がこれらを担当したとすれば、なんだかありきたりのジェンダー決めつけ的絵面になってしまったことでしょう。
赤ちゃんの世話は女性(母親など)がするもの、という決めつけを軽々と超えているのは、天野課長や西浦君のように、そもそもそうした決めつけからフリーであるパーソナリティの存在もさることながら、「中身が本部長」という設定によるところも大きいのかもしれません。
武田本部長は部下思いで愛社精神にも満ち、人間的にも優れているという設定です。
そうした前提があったので、少なくとも私にはまったく違和感がなく、自然に受け入れられました。

短いながらもそれぞれの回に唸らせるテーマがあって、いわゆる一般常識的なものが果たして本当に常識なのか、と考えさせられます。
「結婚しなくてさみしくないですか?」と西浦に問われた天野課長が「結婚も恋愛も無理にする方が何倍もさみしい。自分の生き方を模索しているうちにこういう形になった。それをお前にさみしい形だと思われていることの方がさみしい」と返し、自身が同性のパートナーとともに暮らしていて女の子(1歳半)を育ている西浦は、ハッと胸を突かれて謝るシーン、などは私も心を打たれました。

また、旧態依然とした価値観にとらわれている橘部長(55歳)をめぐる回なども非常に興味深いものがありました。
西浦君が同性愛者であり、しかもパートナーと一緒に女の子を育てていることに対して、「悪いことだ」「そんな家庭に育った子は不幸だ」「子供は父親と母親がいてその中で育つのが一番幸せなんだ」と橘部長は赤ちゃん本部長に訴えかけますが、それに対して本部長は「もしもその子たちの家庭が幸せになれないとしたら、橘さんのような考え方の人がいるせいでしょうね」と答えます。
橘部長は絶句。
しかし実は、橘部長は息子から「ゲイだ」と告白され途方に暮れていたのでした。自分の価値観を押し付けていたのではないかと。
そこから橘部長は変わろうと努力を始めます。

こんな感じで、さりげなく世の中の不自由な部分に光を当てて考えさせてくれる。
こういう良質なコミックやアニメもあるのだなと、またまた瞠目させられました。

私などもそうした部分が残っているのではないかと反省させられるのですが、一昔前は常識だと思われていたものが覆されていくとき(例えば、五輪招致委員会の森前会長に関する顛末とか、同じく五輪開会式演出を任されていた佐々木氏の顛末など)生きづらい世の中になった、などとため息をつくおやじの姿を時折見かけます。
しかしそれは、そうしたおやじたちの思い込みの中で、声を上げることができずにそれこそ生きづらい思いをしていた人たちの言葉や主張にようやく光が当たり始めた、ということでもあるのでしょう。
少なくともこうして点に関しては、世の中は良い方向に進んでいるのではないかと私は思います。
そんな「気づき」も味わわせてくれたアニメでした。

エンディングテーマであるヒャダインの「また明日逢いましょう」も非常に良い曲で、「生きているだけでいいじゃないの また明日逢いましょう」という最後のフレーズには心が躍りました。



タグ:赤ちゃん
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映画「新聞記者」 [映画]

桜の季節となりました。
このところ週末になると春の嵐が吹き荒れ、先週開花した桜の花もどうかな、と心配しておりましたが、さすがに咲き始めの桜の花は強いものがあり、大丈夫でしたね。
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連れ合いが亡くなって三回目の春を迎えますが、やはりなかなか花見をしよう、などという気持ちにはなりません。
近所の公園の桜は結構見事な花をつけるため、それが気に入って連れ合いはここに住もうと提案してくれました。
それから毎年、この時期になると花見に出かけていたので、どうしてもそうしたことを思い出してしまいます。
毎日出社していた時にはさほど感じておりませんでしたが、在宅ワークが主体となると、そんなことが頭をよぎってしまいます。
緊急事態宣言は解除されたものの、花見の宴会などは自粛してほしいという要請もあるようで、今の私としてはそのほうがありがたいように感じてしまいます。

と、なんだか湿っぽい話になってしまいました。妄言多謝。

先日、第44回日本アカデミー賞の授賞式の模様が放映されました。
今回のプレゼンターは、松坂桃李さんとシム・ウンギョンさんで、ちょっと胸に迫るものがありました。
いうまでもなく、昨年の日本アカデミー賞で、それぞれ、主演男優賞・主演女優賞の最優秀賞を受賞されたお二人だったからです。
その作品であった「新聞記者」は、そのほかに最優秀作品賞・優秀監督賞・優秀脚本賞・優秀編集賞をしており、毎日映画コンクールにおいても日本映画優秀賞と女優主演賞を受賞しています。
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この映画が公開された頃、私は連れ合いを亡くして間もない時でもありましたから、映画館に出かけようという前向きな気持ちにはなかなかなれませんでした。
しかし、この映画が製作された過程や、それに携わった人たちの苦難・葛藤を知り、また、この映画自体の持つ力に惹かれ、重い腰を上げました。
2時間足らずの上映時間の間、まさに身じろぎもせずに見入ったことを思い出します。
以前であればおそらくそのまま立て続けに三回は連続して観たと思いますが、現在の映画館では上映ごとに入れ替えとなっているので、さすがにそれはできませんでした。
というのも、この映画は、繰り返し観たくなる魅力を備えていたからです。

そんなわけで、DVDの発売を待って速攻で買い求めました。
以来何度も観ていますが、その都度新しい発見があります。そういう面白さを持った稀有の作品なのではないでしょうか。

モリカケ疑惑とそれにかかわる近畿財務局の赤木俊夫さんの自殺、前川喜平文科次官の更迭と出会い系バー問題、伊藤詩織さんへのレイプ事件と刑事告訴の不起訴処分など、ほぼ同時代に勃発していた当時のアベ政権下での出来事を、微妙に設定を変えつつも再現し、それらの裏側で内閣情報調査室が暗躍していた、ということを東都新聞社会部の若手女性記者・吉岡エリカが調査と取材を重ねて記事にしていくという展開。
対象となったアベ政権下では、首相の意向を第一とする官邸が様々な政策を主導し、その一環として人事権を握られていた霞が関の官僚は唯々諾々として官邸の方針に従う。
流行語にもなった「忖度政治」ですね。
さらに内調は、ネットや官邸の息のかかった報道機関にフェイク情報を意図的に流し、世論を捻じ曲げていく。
公文書偽造の責任を取らされ自殺に追い込まれた先輩は、畢竟そうした「内調」の犠牲者だったのではないかと義憤にかられた外務省から内調に出向している杉原が、その吉岡とタッグを組む形で事実の公表に力を貸そうとします。

などなど、またまた書きすぎてしまう虞がありますので、ここまでにいたしますが、こうしたストーリー展開から想像されるような、いわゆるコテコテの社会派映画ではなく、この映画はあくまでも優れたエンターテインメント作品であるところが多くの観客を引き付けた所以でしょう。

先に書いたような、官邸や内閣情報調査室の動きは、おそらくほとんどの人たちが気付いていること。
しかし、それをあくまでもフィクションとして扱い、一流の娯楽作品に仕上げた藤井監督の手腕には脱帽せざるを得ません。

それともう一つ、いくらフィクションであるとはいえ、官邸やそれに同調するマスコミに対して挑戦状をたたきつけるようなこの映画に出演した俳優の皆さんの意気にも感じ入ってしまいました。
主演を務めたお二人の覚悟は次のようなものであったそうです。

シム・ウンギョン&松坂桃李、衝撃作『新聞記者』に挑む覚悟

お二人がなみなみならぬ想いでこの撮影に臨んでおられたことがひしひしと伝わってきますね。
吉岡役は、当初日本人女優を考えていたのだそうですが、引き受け手がなくシム・ウンギョンさんになったとのこと。
なんだかなあ、と思いましたが、結果的にはシム・ウンギョンさんで大正解だったと思います。
私自身、この作品を観てから彼女のファンになってしまい、先日までテレビ東京で放映されていたドラマ「アノニマス」にも出演されていたので、毎週欠かさず観てしまいました。
そういう状況の中で杉原役を引き受けた松坂桃李さんにも、天晴と満腔の拍手を送りたいと思います。

それから音楽が大変すばらしかった。
岩代太郎さんはこれまでにも数々の映画音楽を担当されましたが、この映画の、抑制された中にも緊迫感を盛り上げる表現の仕方は目を見張るものを感じました。
必要なシーンに必要な音を入れる。
当たり前のことのようですが、「音楽」を書きすぎている映画が一層目立つこの頃、このようなつけ方は大変好もしく思われました。

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鬼滅の刃 [映画]

三寒四温という、この時期の形容がしっくりくるようなお天気が続きます。
初夏に近いような陽気の時もあれば、冬に逆戻りの冷え込みもあり、年寄りには応えますね。

そんな中、沈丁花の花が咲き、あの爽やかな香りを届けてくれています。
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週刊少年ジャンプで2016年11号から2020年24号まで連載されていた「鬼滅の刃」、昨年の秋に「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」が公開され、日本歴代興行収入第1位を獲得しました。
海外においても公開されて人気を博しているようで、今年の2月にはアメリカのマイアミでも公開されたようです(これはアカデミー賞候補としてノミネートされるための条件満たすためだった模様)。
因みに6月16日にはBlu-rayで発売が予定されています。

記憶があまり定かではないのですが、一昨年の終わり頃に実家に帰省した折、テレビで再放送されていて、その第1話をたまたま観て一気に引き込まれるものを感じました。
アニメ化当初は深夜枠での放送だったのでタイムリーには観ておらず、いつか続編を観たいものだと思っていました。
昨年の10月に、前述した劇場版の宣伝のため、フジテレビで「兄妹の絆」「那田蜘蛛山編」「柱合会議・蝶屋敷編」が立て続けに放送され、少年漫画とは思えぬ深い世界観の一端を垣間見た気がします。

前述した劇場版も観ようと思っていたのですが、折からのCOVID-19感染拡大で尻込みをし、結局、現在も未見です。
しかし、テレビ放映後の展開がどうにも気にかかり、なんと全巻をそろえてしまいました。




コミックで全巻をそろえたのは、20代の頃に横山光輝さんの「三国志」と「水滸伝」そして手塚治虫さんの「火の鳥」くらいです(前・後編を買ったなどというのはそのほかにもいくつかありますが)。
尤も、23巻を全部本でそろえたのでは、それでなくても満杯になっている本箱には到底収まり切れませんので、電子ブックにしてしまいましたが(;^_^A

それはともかくそこまで魅かれた一番大きな要因は、なんといっても作者である吾峠呼世晴さんの世界観のものすごさとストーリーテリングの見事さに尽きます。
吾峠さんは文章(言葉)に非常な思い入れがあるように思われ、設定が大正時代ということもあってか、漢字などにもかなりのこだわりが見て取れます。
それぞれの呼吸の型を示す数字に「壱」「弐」「参」「肆」などのように旧字体(本字)を使っていたり、鬼殺隊隊員の階級には十干(甲から癸)が割りあてられていたりと、なかなかに凝っています。

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」では、炎柱・煉獄杏寿郎の壮絶なる討ち死にが中心ですが、もちろん、物語としてはそれ以降が本番です。
上弦の鬼との闘いが始まり、炭治郎・善逸・伊之助などの中心的なキャラクターの成長とともに、鬼殺隊当主・産屋敷耀哉の爆死を嚆矢として残る柱たちも大半が討死してしまいます。
上弦の鬼も全て倒し、鬼舞辻無惨も最期を迎えるのですが、知恵と力と技そして「想い」が込められた鬼殺隊による総力戦は、正に息をも継がせぬ展開を繰り広げます。

と、この調子で書いていくと際限もなくなりネタバレ街道まっしぐらとなりそうなのでこのあたりでやめますが、、ご興味をお持ちになられた方はコミックをお読みになるか、粗々の筋だけでも知りたいと思われる向きはネットをググれば大方の情報は得られることでしょう。

その中でも一点だけ触れさせてもらえるのであれば、「永遠」についての彼我の考察です。

鬼の始祖である鬼舞辻無惨が鬼を増やす目的の一つは、己の唯一の弱点である日光を克服するため、日光に耐性を持つ鬼を作り、それを自らの体に取り込むこと。
それを果たすことが叶えば、滅びることのない体を手に入れ最強者として永久に君臨できる、というものです。

自分を殺しに来たそんな無惨の心中を、耀哉は次のように言い当てます。

「君は永遠を夢見ている 不滅を夢見ている」

無惨はそれを宜い、(日光を克服した)竈門禰豆子を手に入れればそれが叶う、と言い放つ。
それに対して耀哉は、

「君は思い違いをしている」
「永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」

といい、さらに続けて、無惨を次のように断じます。

「この 人の想いとつながりが 君には理解できないだろうね 無惨」
「なぜなら君は 君たちは 君が死ねば全ての鬼が滅ぶんだろう?」

無惨は、千年以上生きてきた己の存在のみを不滅のものとすることが「永遠」であると考え、耀哉は、人の想いが想いを同じくする人を介しながら連綿と続いていくことこそ「永遠」であり「不滅」であると考える。

このブログの記事の中でも何度か触れてきましたが、この世の中に存在するものである限り時間の支配下に置かれ、必ず滅んでいくこと。
つまり、「永遠」と「存在」は二律背反、存在した瞬間に永遠ではなくなるのです。
どのようなものでも、この世に存在する限り時間の支配からは逃れられない。

しかし、その時間に屹立するものもあります。

芸術などはその典型でしょう。
それを生み出した作者は死んでも、残された文章や絵画や音楽などは、それを後世に伝える多くの「想いを同じうする人々」によって連綿と伝えられていき、その内容によっては、この世にそうした人が存在する限り永久に伝えられ続けるのではないでしょうか。

「永遠」というものは一個人の矮小な存在を以て成し遂げられるものでは断じてない、耀哉はそうした理の中で「永遠」という人の願いと望みを繋げていくことこそが、今を生きる人間に与えられた道であると言おうとしているかのようです。
そして無惨も、最期になってその耀哉の言葉を受け入れざるを得なくなる(かなり捻じ曲げられてですが)。

「儂の利益のために身を犠牲にする者がいるのは当然だ」「儂にはそれだけの価値があるのだ」と考える人間は確かに一定程度存在したりします。
無惨は、そういう連中の象徴として具現化されたもの、ともいえましょうか。
しかし、そういう連中でも、人間である限り寿命などによって死が訪れ肉体は滅んでいく。それゆえにそうした己の行いの報いを現世で受けずに済む者もいることでしょう。
無惨は、千年以上にわたり、そうした理に冷笑を浴びせつつ殺戮を繰り返した。
そして最後にその報いを受けることになるのです。

この作品には様々な伏線が張られていますが、それらのほとんどすべてが最終的に回収されます。
作者である吾峠さんの構成力は見事なもので、驚嘆しました。
というのも、小説や劇作においても張り巡らされた伏線が放置されたままになっている例をしばしば見かけるからであり、そこに作者の誠実さを見出すからです。

それらの中で一番重要なものは、竈門兄妹が、この非常に困難で先の見通せない戦いに赴くことになるいきさつでしょう。
炭治郎が一人で里に炭を売りに行っている間、自宅に残っていた母を含めて家族を鬼に殺され、唯一生き残った禰豆子は、無惨によって鬼にされてしまいます。
炭治郎は、禰豆子を人間に戻すため、その道程として鬼殺隊に入り鬼と戦う道を選び突き進む。
炭治郎の家に代々継承されている日輪の耳飾り、これは400年ほど前に無惨をあと一歩のところまで追いつめた継国縁壱(日の呼吸の使い手)から託されたものでした。
鬼にされた禰豆子でしたが、人を喰うことはなく、炭治郎たちととともに鬼と戦い、やがて日光を克服します。

この二人に深くかかわる育手の鱗滝左近次は、鬼との最終決戦の中で次のように独白します。

「この長い戦いが今夜終わるかもしれない まさかそこに自分が生きて立ちあおうとは」
「炭治郎 思えばお前が鬼になった妹を連れてきた時から 何か大きな歯車が回り始めたような気がする」
「今までの戦いで築造されたものが巨大な装置だとしたならば お前と禰豆子という二つの小さな歯車が嵌ったことにより 停滞していた状況が一気に動き出した」

炭治郎と禰豆子が加わっていなかったとしたら、無惨との戦いは終わりのない絶望的な消耗戦を延々と続けることとなり、産屋敷家の呪いが解けることはなく多くの人たちが鬼の犠牲となったものと思われます。
そして、家族が無惨に襲われた晩に、炭治郎は三郎じいさんに引き留められて難を逃れるわけで、その意味では三郎じいさんも、「この長い戦い」を終わらせるための大きな役割を果たしたともいえます。
炭治郎と禰豆子たちが、凄絶な鬼との戦いを終えた後に自宅に帰った折、三郎じいさんとの邂逅を果たして、この大きな伏線は感動的に回収されました。

さて、この物語の一番のキーワードは、なんといっても「鬼」でしょう。
それも、いわゆる「人喰い鬼」。

鬼はもともと「隠(おぬ)」が語源とされ、得体の知れないものを指す、というのが、どうやら定説です。天変地異や火事、それから疫病などもこの範疇でした(因みに、鬼殺隊の中で、救護や輜重などの後方を担当する部隊を「隠(カクシ)」と呼んでいますが、おそらくはこれを語源としたのでしょう)。
「鬼」という字は、器と同じ系列で、魂の入れ物という用いられ方がなされたようです。

鬼は、今昔物語や宇治拾遺物語にも登場してきますが、最も顕著なのは能における表現ではないかと思います。
「鉄輪」「葵上」「黒塚」「紅葉狩」「道成寺」などなど、鬼が登場する能はそれこそ枚挙のいとまがないくらいです。
登場する鬼のほとんどは、嫉妬・恨み・懊悩・怒りなどに身を焦がし異形のものとなって人を襲います。
「黒塚」は人喰い鬼の典型的な例ではありますが、これも奉公先の姫君を助けるために、その妙薬といわれた胎児の肝を得ようと、安達ケ原で出会った妊婦を我が娘とは知らずその腹を裂き胎児の肝を抜き取るという悲惨な蛮行のもとに気が狂いそのような仕儀となったわけですから、最初から人喰い鬼であったわけではありません。
しかし、いずれにしても、鬼が今日のような形態となったのは能によるものが大きいと思われます。

鬼滅の刃の舞台は大正時代であり、鬼の始祖は千年以上生きているとされています。
平安時代がその始まり(無惨の誕生)と設定されているのは、六条御息所を嚆矢と考えたからでしょうか。

「人喰い」という意味でいけば、人が人を食うこと自体、もちろん古くからあったこと。
動物には「共食い」があったりするわけですから、人間も動物の一種と考えれば別に珍しくもありません。
事実、天明や天保の飢饉の頃には、殺して塩漬けにした人肉を備蓄する甕が農村部のそこかしこにあったといいます。
太平洋戦争中も、南方戦線などで飢餓に苦しみ人肉を食った話が、「野火」を始め小説などにも描かれています。「軍記はためく下に」や「ゆきゆきて神軍」という映画もありました。
また、大正時代はもちろん、昭和初期でも、自分の子供を売ったりすることはありましたし、世界に目を向ければ、いまだにそういう行為はそこかしこで散見されます。
日本においても、昭和のころまでは、子供は親の所有物という認識が一般的だったように感じます。

鬼は、結局のところ人間そのものではないのか。
鬼滅の刃を読んでいて、そういうところにまで想いが至ってしまいました。
私のような老人でも夢中になって読んでしまう要因の一つには、そうした背景や世界観も存在するからなのかなと思います。

ところで、アニメの方では、私は次の歌に大変感動しました。


竈門炭治郎のうた
https://utaten.com/lyric/sa19112890/

作詞はこのアニメの制作元である ufotableで、このアニメ制作会社がどれほどこの作品にラポールしているかを如実に示していると思います。
近々、「吉原遊郭編」も放映されるとのこと。
大変楽しみですね。

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セルジュ・チェリビダッケ DVDボックス&ブック [音楽]

三月に入って荒れたお天気が続きました。
台風並みの強風が吹き荒れ、東横線では、線路わきで建設中のビルの足場が線路に崩れて運行がストップ。
夜の22時過ぎの発生ということもあり、仕事帰りの乗客を中心に大きな影響があったとのことです。
運転再開は3日の昼過ぎでした。
この週末はまたお天気が荒れる予報ですので、注意が必要ですね。

連れ合いを亡くして以来、どうもふさぎ込むことが多くなり、一昨年は衝動的に様々なCDや音楽DVDを買い込んでしまいました。
購入しながらも、すぐに聴くということは少なく、何と言いましょうか、買うことでストレスを発散していたきらいもあったのでしょう。
今はだいぶ落ち着いていて、新たにこうしたものを購入することはほとんどありません。

そうこうするうちにCOVID-19の感染拡大という事態が出来し、在宅ワークが中心となりました。
そんな環境の中、これらは貴重な心の安らぎのもととなり、こうした音楽を聴きながら黙々と一人で作業をする生活にも慣れてきたように思います。

また、以前にも書きましたが、座りっぱなしとなることを避けるため、適度な運動をしています。
在宅ワークという関係上、平日に長時間の外出は不可能ですし、お天気が芳しくなければなおさらこもらざるを得ません。
そんな折、DVDを観ながら(聴きながら)踏み台昇降をしたりしています。

先日も、一昨年に購入した「セルジュ・チェリビダッケ DVDボックス」を再生しながら体を動かしました。
録音嫌いで知られるチェリビダッケですが、晩年はいくつかの映像録画を行っており、貴重な記録となっております。
これは、13枚に及ぶDVDボックスであり、中には、1950年のベルリン・フィルとの「エグモント」や1965年のシュトゥットガルトとの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」、1969年のトリノRAIとのブルックナー9番、といった貴重な記録もあります。


中でも、1992年、38年ぶりにベルリン・フィルを振ったブルックナーの交響曲第7番の映像は、きわめて感慨深いものでした。
世界一プライドが高い、ともいわれたベルリン・フィルに対して、まだ駆け出しともいうべきチェリビダッケが執拗なまでのリハーサルを要求し、楽団員を辟易させたのは有名な話ですが、決定的な軋轢を生じさせて関係を断ってしまったのは1954年11月の「ドイツ・レクイエム」の演奏をめぐってのことだったといいます。

この演奏は、そんなチェリビダッケが、時の大統領ヴァイツゼッカーに請われて最初で最後の復帰を果たした記念碑的なものです。

お互いの確執は、恐らく埋められることはなく、その微妙な緊張感がビデオ映像からもうかがえます。
終始悲しげな表情をしていたチェリビダッケが、時折、笑みを浮かべている姿を見ると、何とはなしに安心感を覚えたりしました。

恐らく、チェリビダッケの演奏としては、ミュンヘン・フィルのほうがより完成されたものなのだろうと思います。
それでも、やはり世界有数のオーケストラであるベルリン・フィルの響きは凄まじいものがありました。
この演奏では、第1・第2楽章だけで1時間くらいかかります。
その間、私は踏み台昇降をしながら聴いていたのですが、どれくらいの時間をそれに費やしたのか全くわからないほど集中してしまいました。

私は、中学・高校の頃に吹奏楽部に所属しており、ホルンやトロンボーンを吹いておりましたが、ワグナーチューバに一種の偏愛に近い感情を抱いています。
この曲は特にこの楽器が大活躍をし、ことに第二楽章のコーダの185小節目からの「ワグナー葬送の音楽」での響きは格別です。
フィナーレの最後でもワグナーテューバは活躍をし、分厚く充実した最後のホ音が鳴り響いた後、万雷の拍手が沸き起こりました。

その響きの幸せな余韻に浸りながらDVDの再生を終えると、テレビ番組に入れ替わりました。

たまたまそのときのチャンネルはNHK総合で、何と、乃木坂46の歌と映像!
そのあまりの音の響きの薄さと軽薄さに愕然とし、即刻テレビの電源をオフにしたのですが、それまで浸りきっていた至福の時間、特にあの最後のホ音が耳の中に残っていたこともあって、何というかやり場のない悲しみを感じてしまったところです。

もちろん、自分が迂闊だったわけなので、大変身勝手なことなのですが。


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