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鬼滅の刃 [映画]

三寒四温という、この時期の形容がしっくりくるようなお天気が続きます。
初夏に近いような陽気の時もあれば、冬に逆戻りの冷え込みもあり、年寄りには応えますね。

そんな中、沈丁花の花が咲き、あの爽やかな香りを届けてくれています。
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週刊少年ジャンプで2016年11号から2020年24号まで連載されていた「鬼滅の刃」、昨年の秋に「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」が公開され、日本歴代興行収入第1位を獲得しました。
海外においても公開されて人気を博しているようで、今年の2月にはアメリカのマイアミでも公開されたようです(これはアカデミー賞候補としてノミネートされるための条件満たすためだった模様)。
因みに6月16日にはBlu-rayで発売が予定されています。

記憶があまり定かではないのですが、一昨年の終わり頃に実家に帰省した折、テレビで再放送されていて、その第1話をたまたま観て一気に引き込まれるものを感じました。
アニメ化当初は深夜枠での放送だったのでタイムリーには観ておらず、いつか続編を観たいものだと思っていました。
昨年の10月に、前述した劇場版の宣伝のため、フジテレビで「兄妹の絆」「那田蜘蛛山編」「柱合会議・蝶屋敷編」が立て続けに放送され、少年漫画とは思えぬ深い世界観の一端を垣間見た気がします。

前述した劇場版も観ようと思っていたのですが、折からのCOVID-19感染拡大で尻込みをし、結局、現在も未見です。
しかし、テレビ放映後の展開がどうにも気にかかり、なんと全巻をそろえてしまいました。




コミックで全巻をそろえたのは、20代の頃に横山光輝さんの「三国志」と「水滸伝」そして手塚治虫さんの「火の鳥」くらいです(前・後編を買ったなどというのはそのほかにもいくつかありますが)。
尤も、23巻を全部本でそろえたのでは、それでなくても満杯になっている本箱には到底収まり切れませんので、電子ブックにしてしまいましたが(;^_^A

それはともかくそこまで魅かれた一番大きな要因は、なんといっても作者である吾峠呼世晴さんの世界観のものすごさとストーリーテリングの見事さに尽きます。
吾峠さんは文章(言葉)に非常な思い入れがあるように思われ、設定が大正時代ということもあってか、漢字などにもかなりのこだわりが見て取れます。
それぞれの呼吸の型を示す数字に「壱」「弐」「参」「肆」などのように旧字体(本字)を使っていたり、鬼殺隊隊員の階級には十干(甲から癸)が割りあてられていたりと、なかなかに凝っています。

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」では、炎柱・煉獄杏寿郎の壮絶なる討ち死にが中心ですが、もちろん、物語としてはそれ以降が本番です。
上弦の鬼との闘いが始まり、炭治郎・善逸・伊之助などの中心的なキャラクターの成長とともに、鬼殺隊当主・産屋敷耀哉の爆死を嚆矢として残る柱たちも大半が討死してしまいます。
上弦の鬼も全て倒し、鬼舞辻無惨も最期を迎えるのですが、知恵と力と技そして「想い」が込められた鬼殺隊による総力戦は、正に息をも継がせぬ展開を繰り広げます。

と、この調子で書いていくと際限もなくなりネタバレ街道まっしぐらとなりそうなのでこのあたりでやめますが、、ご興味をお持ちになられた方はコミックをお読みになるか、粗々の筋だけでも知りたいと思われる向きはネットをググれば大方の情報は得られることでしょう。

その中でも一点だけ触れさせてもらえるのであれば、「永遠」についての彼我の考察です。

鬼の始祖である鬼舞辻無惨が鬼を増やす目的の一つは、己の唯一の弱点である日光を克服するため、日光に耐性を持つ鬼を作り、それを自らの体に取り込むこと。
それを果たすことが叶えば、滅びることのない体を手に入れ最強者として永久に君臨できる、というものです。

自分を殺しに来たそんな無惨の心中を、耀哉は次のように言い当てます。

「君は永遠を夢見ている 不滅を夢見ている」

無惨はそれを宜い、(日光を克服した)竈門禰豆子を手に入れればそれが叶う、と言い放つ。
それに対して耀哉は、

「君は思い違いをしている」
「永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」

といい、さらに続けて、無惨を次のように断じます。

「この 人の想いとつながりが 君には理解できないだろうね 無惨」
「なぜなら君は 君たちは 君が死ねば全ての鬼が滅ぶんだろう?」

無惨は、千年以上生きてきた己の存在のみを不滅のものとすることが「永遠」であると考え、耀哉は、人の想いが想いを同じくする人を介しながら連綿と続いていくことこそ「永遠」であり「不滅」であると考える。

このブログの記事の中でも何度か触れてきましたが、この世の中に存在するものである限り時間の支配下に置かれ、必ず滅んでいくこと。
つまり、「永遠」と「存在」は二律背反、存在した瞬間に永遠ではなくなるのです。
どのようなものでも、この世に存在する限り時間の支配からは逃れられない。

しかし、その時間に屹立するものもあります。

芸術などはその典型でしょう。
それを生み出した作者は死んでも、残された文章や絵画や音楽などは、それを後世に伝える多くの「想いを同じうする人々」によって連綿と伝えられていき、その内容によっては、この世にそうした人が存在する限り永久に伝えられ続けるのではないでしょうか。

「永遠」というものは一個人の矮小な存在を以て成し遂げられるものでは断じてない、耀哉はそうした理の中で「永遠」という人の願いと望みを繋げていくことこそが、今を生きる人間に与えられた道であると言おうとしているかのようです。
そして無惨も、最期になってその耀哉の言葉を受け入れざるを得なくなる(かなり捻じ曲げられてですが)。

「儂の利益のために身を犠牲にする者がいるのは当然だ」「儂にはそれだけの価値があるのだ」と考える人間は確かに一定程度存在したりします。
無惨は、そういう連中の象徴として具現化されたもの、ともいえましょうか。
しかし、そういう連中でも、人間である限り寿命などによって死が訪れ肉体は滅んでいく。それゆえにそうした己の行いの報いを現世で受けずに済む者もいることでしょう。
無惨は、千年以上にわたり、そうした理に冷笑を浴びせつつ殺戮を繰り返した。
そして最後にその報いを受けることになるのです。

この作品には様々な伏線が張られていますが、それらのほとんどすべてが最終的に回収されます。
作者である吾峠さんの構成力は見事なもので、驚嘆しました。
というのも、小説や劇作においても張り巡らされた伏線が放置されたままになっている例をしばしば見かけるからであり、そこに作者の誠実さを見出すからです。

それらの中で一番重要なものは、竈門兄妹が、この非常に困難で先の見通せない戦いに赴くことになるいきさつでしょう。
炭治郎が一人で里に炭を売りに行っている間、自宅に残っていた母を含めて家族を鬼に殺され、唯一生き残った禰豆子は、無惨によって鬼にされてしまいます。
炭治郎は、禰豆子を人間に戻すため、その道程として鬼殺隊に入り鬼と戦う道を選び突き進む。
炭治郎の家に代々継承されている日輪の耳飾り、これは400年ほど前に無惨をあと一歩のところまで追いつめた継国縁壱(日の呼吸の使い手)から託されたものでした。
鬼にされた禰豆子でしたが、人を喰うことはなく、炭治郎たちととともに鬼と戦い、やがて日光を克服します。

この二人に深くかかわる育手の鱗滝左近次は、鬼との最終決戦の中で次のように独白します。

「この長い戦いが今夜終わるかもしれない まさかそこに自分が生きて立ちあおうとは」
「炭治郎 思えばお前が鬼になった妹を連れてきた時から 何か大きな歯車が回り始めたような気がする」
「今までの戦いで築造されたものが巨大な装置だとしたならば お前と禰豆子という二つの小さな歯車が嵌ったことにより 停滞していた状況が一気に動き出した」

炭治郎と禰豆子が加わっていなかったとしたら、無惨との戦いは終わりのない絶望的な消耗戦を延々と続けることとなり、産屋敷家の呪いが解けることはなく多くの人たちが鬼の犠牲となったものと思われます。
そして、家族が無惨に襲われた晩に、炭治郎は三郎じいさんに引き留められて難を逃れるわけで、その意味では三郎じいさんも、「この長い戦い」を終わらせるための大きな役割を果たしたともいえます。
炭治郎と禰豆子たちが、凄絶な鬼との戦いを終えた後に自宅に帰った折、三郎じいさんとの邂逅を果たして、この大きな伏線は感動的に回収されました。

さて、この物語の一番のキーワードは、なんといっても「鬼」でしょう。
それも、いわゆる「人喰い鬼」。

鬼はもともと「隠(おぬ)」が語源とされ、得体の知れないものを指す、というのが、どうやら定説です。天変地異や火事、それから疫病などもこの範疇でした(因みに、鬼殺隊の中で、救護や輜重などの後方を担当する部隊を「隠(カクシ)」と呼んでいますが、おそらくはこれを語源としたのでしょう)。
「鬼」という字は、器と同じ系列で、魂の入れ物という用いられ方がなされたようです。

鬼は、今昔物語や宇治拾遺物語にも登場してきますが、最も顕著なのは能における表現ではないかと思います。
「鉄輪」「葵上」「黒塚」「紅葉狩」「道成寺」などなど、鬼が登場する能はそれこそ枚挙のいとまがないくらいです。
登場する鬼のほとんどは、嫉妬・恨み・懊悩・怒りなどに身を焦がし異形のものとなって人を襲います。
「黒塚」は人喰い鬼の典型的な例ではありますが、これも奉公先の姫君を助けるために、その妙薬といわれた胎児の肝を得ようと、安達ケ原で出会った妊婦を我が娘とは知らずその腹を裂き胎児の肝を抜き取るという悲惨な蛮行のもとに気が狂いそのような仕儀となったわけですから、最初から人喰い鬼であったわけではありません。
しかし、いずれにしても、鬼が今日のような形態となったのは能によるものが大きいと思われます。

鬼滅の刃の舞台は大正時代であり、鬼の始祖は千年以上生きているとされています。
平安時代がその始まり(無惨の誕生)と設定されているのは、六条御息所を嚆矢と考えたからでしょうか。

「人喰い」という意味でいけば、人が人を食うこと自体、もちろん古くからあったこと。
動物には「共食い」があったりするわけですから、人間も動物の一種と考えれば別に珍しくもありません。
事実、天明や天保の飢饉の頃には、殺して塩漬けにした人肉を備蓄する甕が農村部のそこかしこにあったといいます。
太平洋戦争中も、南方戦線などで飢餓に苦しみ人肉を食った話が、「野火」を始め小説などにも描かれています。「軍旗はためく下に」や「ゆきゆきて神軍」という映画もありました。
また、大正時代はもちろん、昭和初期でも、自分の子供を売ったりすることはありましたし、世界に目を向ければ、いまだにそういう行為はそこかしこで散見されます。
日本においても、昭和のころまでは、子供は親の所有物という認識が一般的だったように感じます。

鬼は、結局のところ人間そのものではないのか。
鬼滅の刃を読んでいて、そういうところにまで想いが至ってしまいました。
私のような老人でも夢中になって読んでしまう要因の一つには、そうした背景や世界観も存在するからなのかなと思います。

ところで、アニメの方では、私は次の歌に大変感動しました。


竈門炭治郎のうた
https://www.youtube.com/watch?v=KRKkULldM1w

作詞はこのアニメの制作元である ufotableで、このアニメ制作会社がどれほどこの作品にラポールしているかを如実に示していると思います。
近々、「吉原遊郭編」も放映されるとのこと。
大変楽しみですね。

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