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ルーブル美術館展(愛を描く) [日記]

現在、国立新美術館で開催中の「ルーブル美術館展(愛を描く)」を観てきました。
「すみっコぐらし」とのコラボということで、若い女性やカップルもたくさん訪れていて、会場は相当な賑わいでした。

それでも、この頃の美術館では事前に観覧日時を指定しての前売りという形態が定着しているようで、人数の割には比較的混雑の度合いは小さかったような気がします。
ただ、照明が暗かったことと、絵の解説文の文字が小さかったこともあって、老人特有の弱視(白内障の疑いあり)の身には、その点が大変もどかしかった。

今回の企画展は。「LOVRE」の中から「LOVE」を強調するという、なかなか面白い試みです。

プロローグと第4室は写真撮影も許されていて、第4室では私も何枚かスマホで撮影しました。
今どきのデジカメは、スマホのものも含めて、ストロボなどをたかなくても光量的には問題なく撮影できますから、展示作品が痛む可能性というよりも、写真撮影に伴う渋滞や混雑を避ける、という意味合いでそれを制限しているのかもしれませんね。
というのも、本場のルーブル美術館では、目玉の「モナ・リザ」を含めて撮影は自由(ただし、確かストロボは禁止だったと記憶していますが)だったので。

私がルーブル美術館を初めて訪れたのはもう30年近く前になります。
ラファエロ、ドラクロワ、フェルメールなど、大好きだった画家の絵画はもちろん、ニケ像、ミロのビーナス、モナ・リザなど、観たくて憧れていたものが数限りなくあり、時間のたつのも忘れるほどでした。
今回の企画展で展示されている所蔵品は、その意味では現地でそれほど熱を入れて観たものではなく、そういえばその絵もあったな、程度の、作品に対して大変失礼な印象を持っていたような、少し申し訳ない気がして、今回はしっかりと「拝見」しました。

とはいえ、例えばアリ・シェフェールの「パオロとフランチェスカ」などは、その初めてのルーブル体験でも胸をうたれ、じっくりと見入った記憶が鮮明に残っています。
この二人の悲劇に関し、私は別のブログで次ような記事を書いたことがあります。

パオロとフランチェスカ

ダンテの神曲はさすがに稀代の名著で、何度読み返しても新たな発見がありますが、その中でもこの「パオロとフランチェスカ」と「ウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ」を取り上げた下りは涙を禁じえません。

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この絵では、パオロとフランチェスカの右横に、ダンテとウェルギリウスが描かれており、神曲における地獄の第二環で永遠に黒い風に吹き流され漂い続ける二人に出会い言葉を交わす場面を彷彿とさせます。
改めてじっくりと観ましたが、悲しいほどに繊細で美しい作品ですね。
この二人の悲劇に触発され、絵画は勿論、音楽(チャイコフスキーの幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」)、戯曲、ザンドナーイなどによるオペラなど、数多くの派生的芸術作品が生み出されているのは皆さまご存じのことと思います。

さて、先にも書きましたように、今回の企画展ではフラゴナールとドラクロワくらいが、私のように絵画にあまり明るくない人間でも作品と紐づけで知っている画家でした。
しかし、展示されている作品は、さすがにルーブル所蔵だけあり、どれも大変見ごたえのあるものばかりです。
写真を撮れたものだけ、以下に紹介します。

「アモルとプシュケ」フランソワ・ジェラール
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「アポロンとキュパリッソス」クロード=マリー・デュビュッフ
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「エンデュミオンの眠り」アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン
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「ヘロとレアンドロス」テオドール・シャセリオー
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「友情の杯を交わすヒュメナイオスとアモル」ジャン=バティスト・ルニョー
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画像が不鮮明なのは何卒ご容赦のほどを。

ところで、この企画展の入場料は2100円でした。
このところ都心の美術館に出向くことがほとんどなかったので、相場がどのくらいになっているのか知らなかったのですが、意外に高いな、というのが実感です。
フランスからの運搬や保管、それに関する各種の保険料などを鑑みれば、やはりこのくらいの価格になるのはやむを得ないのでしょうか。

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句読点の考え方 [日記]

9月も半ばを過ぎ、だいぶ陽が短くなってまいりました。
先日も、帰宅時に職場を出る際、既に陽が落ちていることに気づき俄かに寂しさを感じたところです。

月みれば ちぢに物こそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど

私は大江千里のこの歌が大好きで、秋を感ずるときに常に頭をよぎります。
この歌は、いうまでもなく白居易の「燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長」によったもので、のちに鴨長明がこれを本歌として「ながむればちぢに物思ふ月にまたわが身ひとつの峰の松風」と詠んだように、秋の月に同じような想いを馳せる人は数多くいたのでしょうね。

ちょっと恥ずかしい経験ですが、15年ほど前にピアノ伴奏つきソプラノ・バリトンの二重唱で「秋の月」という曲を作ったことがあります(後に混声合唱に編曲)。
もちろん稚拙極まりない曲ではありますが私自身としては気に入っている曲の一つで、作曲した動機の一つにこの大江千里の一首があったことはいうまでもありません。

秋は食べ物もおいしく気候も過ごしやすくなりますから良い季節なのですが、やはり寂寞感は如何ともしがたく「千々に物悲しさ」を感じさせるようですね。

ところで先日このような記事を読み、考えさせられました。

中高年は知らない…若者がLINEで句読点がついた文を心底嫌悪する本当の理由

この話はかなり以前から話題になっていたので、真偽のほども含めて興味を持っていました。
一読後、なるほどなあ、というのが実感です。

LINEは、トークによる文字のやり取りのほか、画像その他ファイルの添付、音声会話・ビデオ会話もでき、ケータイのみならずPCなどでもやり取りが可能な、かなり優れたコミュニケーション・ツールであり、私も重宝に利用しております。
なんといっても、メールなどに比べてレスポンスが格段に速く、友だち毎に履歴も追えるので業務上の連絡にも使えたりします。
つまり、どこかしら、使い勝手の良いビジネスチャットツールのような扱いもしているわけです。
若者からすれば、句読点は「大人(中高年)」が自分たちに向ける“文書”に用いられているものであり、往々にしてその内容は目的志向的で、なにより批判的なニュアンスが含まれていることが多い。だからこそ、LINEなどのメッセージアプリ上で句読点がある“文書”を目にすると、そこに自分の責任を追及されているような、いうなれば「詰問」に近いニュアンスを感じてしまい、嫌なのである。

なぜかといえば、
すなわち、若者たちにとってそれは「会話の一形態」であるのに対して、年長者たちは「簡易版メール」のような感覚を持っていて、つまり手紙やメールの延長上にある「文書送信の一形態」なのである。

という、LINEに対する彼我の位置づけの夥しい乖離にその原因があるとのこと。

うーむ、というところが私の正直な感想ですね。

子供のころから本を読んできた私などにとっては、たとえそれが電子媒体であっても、文字によってあらわされたものは「文章」だという認識が強くあります。
LINEなどのタイムラインに流れてきたものであってもその根本的な感覚は変わりません。
従って、文章であれば当然のこととして句読点は必要、と考えるわけです。

しかし、これを「会話」としてとらえることになれば、(通常、会話の場合、句読点は意識しませんから)空間を行きかう話し言葉のやり取りと同じようにその都度費消されていくのでしょう。

思えば、日本語における句読点が、現在のような形でそれなりに用いられ始めたのは、明治時代から大正・昭和にかけて口語体が確立されてきたことと軌を一にしています。
それ以前の時代で公用文や実用文を書く場合は文語文すなわち漢文をもとにした候文(●●相勤可申御坐候のような)を用いていましたし、庶民の文のやり取りでは短い言葉を段落に分けて表現していましたから、いずれにしても句読点は必要なかったものと思われます。
明治時代に入り、国民の教育ことに識字率の上昇が進んだことから、より多くの読者を確保したい小説家などが中心となって新たな筆記方式となる口語文の確立が試みられます。
樋口一葉や幸田露伴、森鴎外の初期の作品などにみられるように、基本的に明治初期の小説は文語文で書かれていたわけですけれども、夏目漱石などによって新しい文体(口語体)が生み出され彫琢されて、それが現在まで連綿と続いている。

つまり、私たちが使っている現在の口語文は、たかだか百年くらいの歴史しかないわけです。

そんな文章作法の中でも、句読点、とりわけ読点は厄介です。打ち方によって文意さえも異なってしまう。
因みに、古文、中でもかな書きを中心にした文章(源氏物語や伊勢物語や竹取物語や平家物語などなど数多)に漢字が付け加えられたり句読点が打たれているのは、後年における学者や研究者などの親切心や老婆心によるもので、原本にそのような措置は施されておりません。

それでも口語文の普及は、「達意」という実用文の最重要使命を果たすために大きく寄与しているものと思います。
私たちが文章を書く上で最も大切に考えなければならないのは、この達意ということ。
それゆえにこそ、句読点とりわけ読点の使い方には細心の注意を払わなければならないのだろうと愚考する次第です。

このようなことをつらつら考えてみると、いわゆるZ世代と称される若年層(読書からも遠ざかっている人が多いようです)が、面倒くさい実用文記述のしきたりにとらわれることを忌避して、より会話に近いやりとりをSNSなどで使う理由もわかる気がします。

尤も大人になって実社会に出れば、それだけでは済まなくなるわけですから、いつかはそうしたしきたりに従わざるを得なくなるとは思いますけれども。

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猪肉 [日記]

相変わらず寒い日が続いています。
オミクロン株の影響もあり、すっかり巣ごもり状態となってしまいました。
先月の初めに顧客のところに出向いて以来、基本的に在宅ワークで、周辺のスーパーなどへの買い出しや散歩くらいしか、外出をしていません。
それでも、ありがたいことに、Web会議やメールや電話などである程度の打ち合わせや意思の疎通が図れますので助かっています。
こうなると、エッセンシャルワーカーなど、私たちの生活や健康維持のために現場で働く人たちへの感染リスクを極力避けるためにも、在宅ワークが可能な職種は率先してそれに取り組む姿勢が必要になろうかと思います。

いつのころからか、「ジビエ」などという言葉とともに、野生の動物の肉などを料理して食べることの話題を頻繁に見聞きするようになりました。

私たちのような山村で育った人間は、いわゆる山のケモノの肉にはそれなりのなじみを持っておりますので、「ジビエ」などというハイカラな名前を聞くとちょっと居心地の悪い思いをしてしまいます。
子供のころ、わなを仕掛けて野ウサギを捕ろうとしたりしたこともありました(なかなか成功しませんでしたが)し、狐を崖に追い込んで捕ってきたこともありました。
狐の肉は臭くてとても食べられないので、毛皮をはいで座布団かなんかにしてもらった記憶があります。
家ウサギを飼うのも子供の役割でしたが、これは毛皮をとるためと食料のためであり、ペットなどという扱いではありません。
今はウサギのペットも流行っているそうですが、なんか違うな、というのが実感です。

そんな私の、以前の職場での一年後輩が、定年後に鳥取の山間部に移り住み、現在は猪とか鹿など、農作物や植林などに被害を及ぼす野生動物の駆除に当たっています。
専ら空気銃を使うそうですが、これが結構な殺傷能力があるそうで、50mくらいの距離があっても眉間を狙えば一発で仕留められるとのこと。

その後輩が、猪肉を送ってきてくれました。
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これはもも肉で、ほかにロースとランプです。
キッチンペーパーに包んで丁寧に血をふき取ります。

早速焼いて食べました。
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塩・胡椒を擦り込んで、タレはポン酢にニンニクを混ぜたもの。
抜群の美味さです。

実は、長火鉢があるので炭で焼こうと思ったのですが、厚さが3mmと薄いこともあり、これは断念して、セラミック混合の金網を用いガスレンジ焼きました。
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盛大に炎が上がりましたが、うまく焼けました。

猪肉は、なんといっても脂が美味しく、その歯ごたえといい甘さといい、とても豚肉の及ぶところではありません。
まだ食べないでとってあるロースはその脂肪がたっぷりと乗っていますので、こらからの楽しみにしようと思います。
熊本に単身赴任していた折、猟師もしていた山仲間が分厚く切った猪肉を持ち込み、これを炭火で焼きながら焼酎を飲んだことがあります。
それまでは味噌ベースの猪肉鍋くらいしか経験しておりませんでしたから、その圧倒的な美味さにはうなりました。

鳥取在住の後輩は、また送りますと言ってくれているので、次を楽しみに待ちましょう。

因みに、鹿肉も大変美味しく、特に私は刺身で食べた時の味が忘れられません。

猪も鹿も、「害獣」とか言われて駆除されるのはひどい話だなと思いますが、農業や林業に携わっている人たちからすればこれはやむを得ないことと考えます。
せめてこうやって(感謝しながら)ちゃんと頂くことで、彼らの命を全うさせて上げられれば、などとちょっとご都合主義的なことも考えてしまいました。
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2022年になりました [日記]

新年あけましておめでとうございます。
遅ればせながらではありますが、2022年の年頭に当たり、改めまして新年のご挨拶をさせていただきます。
今年もどうぞ相変わらずのご愛顧のほど、お願い申し上げます。

今シーズンの冬は、とりわけ冷え込みが厳しい印象があります。
年末年始は実家のある八ヶ岳山麓の町に帰省しておりましたが、連日、最低気温が氷点下10度を下回るありさまで、真冬日が続きました。

八ヶ岳もこんな感じです。
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緊急事態宣言も明けたことから、八ヶ岳にはかなりの入山者があった模様ですが、年末年始はかなり荒れていたと思われます。
事故などが起きていなければ良いのですが。

新型コロナの影響もあって、なかなか帰省も叶いません。
昨年は今回も含めて4回にとどまりました。
高齢の母は、頭はしっかりしているのですが手足の動きがかなり厳しくなっております。
それゆえ、帰省した時は家事全般私がしております。
もちろんこの時期ですからおせち料理の用意もしていきました。
尤も、自分で作ったのは煮卵と昆布巻きくらいで、あとはスーパーで購入したものですが、重箱などに盛り付け、それなりの体裁を整えたところです。
母とはいえ、自分以外の人のために料理や掃除や様々な介添えなどをしていると、多少ながらも「人の役に立っている」という気持ちになり、気持ちが楽になるようです(ただ、母がしきりに申し訳ながることには閉口しますが)。

食事の支度などは、自分一人でいると、朝晩はそれなりにきちんとしたものを作ろうと思いますが、昼食などは結構いい加減になってしまいます。
母にきちんと食べさせなければならないと思うとさすがに三食とも手抜きはできませんので、その意味でもこれまでのいい加減な対応を自省する気持ちが涌いてきました。

さて、初日の出ではありませんが、自宅に戻ってきてからの朝日です。
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実家では、あまりの寒さに、外に出て写真を撮ることも厭いました。
何しろ、私の寝ていた部屋に干しておいたタオルが凍ってしまうくらいの冷え込みでしたので。
子供の頃の冬の寒さを久しぶりに思い起こしました。

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冷え込んでいます [日記]

昨日から冷え込みが厳しくなっています。
北日本や日本海側だけでなく、近畿や東海地方でもかなりの降雪があって各地で車の立ち往生が発生したそうです。
日中は陽射しがあるのでなんとかなりますが、陽が落ちると途端に寒さが迫ってきますね。

そんなわけで昨日から火鉢を出しています。
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ヤカンをかけておくと湯気のおかげで乾燥を防ぐことができますし、寝床に入れる湯たんぽのお湯も確保できます。
何よりも遠赤外線効果で暖かさも格別です。

ただ問題があって、私の居室の密閉性がかなり高いため、一酸化炭素などが溜まりやすくなりガス警報機が作動してしまうこと。
窓を開け放って喚起すればいいのですが、せっかくの暖気も当然逃げてしまうので、その辺りはちょっと悩ましいところですね。

私は比較的、一酸化炭素中毒などにはなりにくい体質ですが、人によっては頭痛を引き起こしたりすることがあると思います。
その点については注意が必要ですね。
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ベランダの水仙の花 [日記]

今日も比較的暖かな日になりました。
明日からは猛烈な寒波がやってくるそうです。
この時期、新型コロナはもちろんですが、インフルエンザや流感にも感染しやすい季節となります。
特に体の冷えは大敵ですから用心したいものですね。

ベランダの水仙の花が咲きました。
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かなり以前に連れ合いが球根を植えたのですが、これまで花が咲かず残念な思いをしておりました。

それが、なんと、連れ合いが亡くなって三年目になろうかという今シーズンになって初めて花をつけたのです!

これにはさすがに歓喜しました。
連れ合いがあちらの世界から届けてくれたのかと思いました。

連れ合いの姉に写真を送って連絡したところ、「〇〇ちゃん(連れ合いの名前)からのクリスマスプレゼントだね」と返信があり、そうか、クリスマスなんだと、さらに胸がジーンとしてしまいました。

三年前のちょうどこの日(クリスマスイブ)、一時的に病院から退院していた連れ合いが、嫌がる私にこれからのこと(自分が旅立った後のこと)やこれまでのこと、自分の貯金や持ち物のことを語りました。
「そんな話は聞きたくない」と駄々をこねる私に、子供をあやすがごとく優しく言い聞かせていた姿が、今も眼交に浮かびます。

あれからもう三年。

今でも時折夢の中に出てきてくれ、いつも優しい笑顔を浮かべて私を見守ってくれております。
水仙の花は、もしかするとその想いの化身なのかもしれません。
末期のがんの痛みで、相当つらかったはずなのに、連れ合いは、(自分がいなくなってしまった後の)私のことをしきりに心配していました。
そばにいて支えてあげられなくて申し訳ない、と。

でも、夢の中で逢うことができたり、こうして水仙の花に身をゆだねて私の前に現れてくれたり、連れ合いはずっと私のそばにいてくれる。
そう思うことで、独り身の悲しさも癒される気がします。

一人で迎える三回目のクリスマスイブ。
「一人ではないよ」と、連れ合いがささやいてくれている気がしました。

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膝の痛みなど [日記]

12月も中旬となり、かなり冷え込んできました。
お天気がいいので、放射冷却の影響も強いのかもしれません。

この時期になると、スーパーなどでシイタケが安く出回るようになります。
先日も、行きつけのスーパーでひとふくろ138円などという値段がついていたので、衝動的に買ってしまいました。
単身ですから一気に食べてしまうなどということにはならず、煮物や炒め物で使った残りを干すことにしました。
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傍らに布団が写っているのは少々恥ずかしいところですが、こうして干しておくと、日光をたくさん浴びて程よく乾燥してくれます。
乾燥させたシイタケは良い出汁も出ますし、煮物にも最適となります。

また、季節柄、小松菜も安く出回りますので、こちらも使い残しを瓶などで再生栽培しています。
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冬は小松菜も良く育ちますし、根腐れなどもないので、毎日水を変えながら楽しんでいるところです。

さて、悩まされている膝痛ですが、リハビリなどを根気強く続けていることもあって、ようやくウォーキングができる程度までには快復してきました。
ただ、肘の痛みや肩の痛みなども出てきて、油断をすると腰に違和感が走ったりするので、動きには細心の注意を払っているところです。

結局、膝痛が一番ひどいとは言うものの、体全体のバランスが崩れているためにところどころで故障が発生するわけで、寒さが厳しくなってくるとそれがてきめんにでるということでしょう。
人間の体というものはかなり精巧な作りになっているのだなと、改めて思い返しました。
リハビリを担当してくださっている理学療法士の方によれば、膝痛の原因は次のような事ではないかとのこと。
あなたは自分が心配するほど筋力が衰えているわけでもないのに、恐々と動いていることもあって、膝に過度の負担がかかっているようです。
恐らくこれまでも安易に膝の動きでコントロールしてきたのでしょう。膝はずっとそれに耐えてきたわけですが、さすがに「ほかにサボっている奴もいるじゃないか!オレばっかり酷使するのはいい加減にしろ!」と怒っているのですよ。

これにはなるほどと頷きました。
つまりは一種のパワハラであり、使い勝手のいい膝にほとんどの動きを押し付けていた、ということなのでしょう。
これは多くの人に心当たりがあるのではないかと思うのですが、仕事をするうえで、事務処理能力の高い優秀な人間により多くの業務が集中してしまうきらいがかなり多く見受けられます。
というよりも、部下に仕事を担当させる際に、「能力を見極めている」といえば聞こえはいいのですが、デキるやつに任せてしまう、という安直な判断をしがちだということです。
そういう理不尽な扱いを跳ね返して能力を発揮できる人間はそれなりに伸びて要職についていくわけですが、往々にしてオーバーワークとなり潰れてしまうとか反抗するなどということにもなりがちでしょう。
また、それらを乗り越えて出世した人も、下手をすると同じようなことを自分の部下に強いてしまうこともあるわけで、組織全体のことを考えれば決してプラスにはなりません。

そういうことが今私の膝でも起こっていて、膝は怒り心頭に発し反旗を翻している、ということでしょうか?と理学療法士の方に感想を述べたところ、「それは分かりやすい表現ですね。その通りと思います」とのこと。

安直な業務運営は組織の為にもなりませんが、自分の体も同じことなんだなと、改めて来し方を振り返り大いに反省させられました。

皆様の中にも部分的な関節の痛みなどで悩まれておられる方もいらっしゃると思いますが、バランスよく働かせるというマネジメントの原点に立ち返ることも、もしかすると有益な対処法なのではないかと、老婆心ながら申し述べさせていただく次第です。
ご用心ご用心、ですね。
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新型コロナについて [日記]

新型コロナウィルス新規感染者が、幾何級数的に激増しています。
検査件数がかなり増加していることも要因の一つかもしれませんが、やはりデルタ株への置き換わりが急速に進んだことによるところが大きいのでしょう。
報道などによれば、一人の感染者から移る人数が、以前は一人だったのが8~9人くらいに拡大されているとのこと。
数字的な真偽は検証できませんが、感染力の強さはかなりのものがあるようです。
東京都では重症者も増えているということですから、医療スタッフの方々のご労苦いかばかりかと危惧しております。
たとえ無症状や軽症であっても、陽性となれば隔離をしなくてはならないわけですから、感染者が爆発的に拡大し、緊急事態宣言の対象となっている都府県での医療崩壊は正に目睫に迫っていることでしょう。

因みに、私の知人にも感染を経験した者がおりますが、軽症者は高熱と怠さに苛まれ味覚障害が出ました。中等症レベルの感染者は肺炎を発症したため酸素吸入を施され、本人曰く「死ぬのではないか」というほど苦しかったそうです。
元プロ野球選手の長嶋一茂さんのお友達で、やはり中等症レベルに至った方は、入院できずに自宅で酸素吸入をし、重症化すれば死ぬかもしれない、そのときには意識はなくなるだろうと「遺書」を書いたそうです。

若い人たちの中には、仮に新型コロナウィルスに感染しても大したことはないと高を括って感染リスクの高い行動を続けている人もいるようですが、舐めてかかるのは非常に剣呑と思います。

ところでワクチンの接種、私は7月の初旬までに二回目も終えました。
幸い翌日の筋肉痛程度の副反応ですみました。

ワクチンは、基本的にメッセンジャーRNA(mRNA)型であり、開発期間も非常に短かったことから、現在は、全世界的な「治験」の段階にあるものと思われます。
その意味では、効果がどの程度のものか、また接種による人体への中長期的な影響はどうなのか、そのあたりは全く分かっておりません。
あくまでも「希望者」への接種ですから、現在いわれている副反応や将来的な懸念などを危惧し、「受けない」という選択肢は当然に保障されるべきでしょう。

なお、新型コロナワクチンの効果は次のようなものとされています。

日本で接種が進められている新型コロナワクチンにはどのような効果(発症予防、持続期間)がありますか。

これによると、厚生労働省の公式見解は以下のもののようです。
日本で接種が行われている新型コロナワクチンは、いずれも、新型コロナウイルス感染症の発症を予防する高い効果があり、また、重症化を予防する効果が期待されています。効果の持続期間や、感染を予防する効果についても、時間の経過や接種者数の増加に伴い、研究が進んでいます。

感染はしにくくなり重症化を予防する効果も期待されるとのこと。

接種をすることによって一定の安心感は得られるようですね。

しかし、感染を100%防ぐことはできない。
この場合、感染しても重症化しにくいということは、感染後無症状でいることも当然にありうるわけです。
とすれば、感染に気付かない人もいることになり、状況によってはサイレントキャリアとなってしまう危険性もなしとしません。

私事で恐縮ですが、前回東京オリンピックが開催された1964年の10月、正に開催期間中に私は通っていた小学校で発生した集団赤痢に罹患し、クラスの仲間たちと一緒に二週間ほど山の中の施設に隔離されました。
楽しみにしていた聖火ランナーを見ることはできず、もちろん競技を生で見ることもできませんでした。
当時、小学二年生だったこともあり、子供心にも残念に思った記憶があります。
それはともかく、それから一年間、私たち罹患者は「健康保菌者」とされ、定期的な検便、消毒や手洗いの徹底など、日常生活においても様々な制約を受けたものです。

新型コロナの恐ろしさは、肺炎への進行の確率が高いことでしょう。

巷では、「インフルエンザ程度」などと嘯き軽視する人を見かけるようですが、インフルエンザから肺炎に進行し死に至る人はごく少数と聞きます。
単純な致死率の比較でも、新型コロナはインフルエンザとは桁違いに高いことを忘れてはいけないと思います。

私は、連れ合いを肺がんで、父を肺炎で、立て続けに亡くしました。
肺に起因する疾病の苛烈さを間近で見ていますので、新型コロナウィルスの恐ろしさをとても軽視できません。

先に新型コロナワクチンを二回接種済みと書きましたが、人混みに出ることを極力避ける、やむを得ずそうした場所に出かけなければならない場合は必ずマスクを着用する、手洗いやうがいなどを励行する、飲食店への出入りは極限までに控える、帰省や旅行もしばらくあきらめる、などの対策は継続中です。
自分が罹患することよりも、万が一サイレントキャリアとなってほかの人に移すようなことがあってはならないと考えている部分が強く、それは小学生の頃のつらい体験がもとになっているのでしょう。

机上の空論ではありますが、すべての人々が他人との接触を100%抑えれば、一週間程度で感染は収束するのだろうと私は考えます。

もちろんそんなことはできようはずもありませんが、新型コロナの感染はそういう性格のものだとの認識を持ち、一人一人が感染のリスク(感染させるリスクも含めて)をきちんと分かったうえで慎重な行動をとることが必要なのではないかと、老婆心ながら思う次第です。

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ユニットバスのバスタブの汚れ落とし [日記]

不安定なお天気が続きます。
朝のうち晴れていても、急に黒雲が張り出してきて雷雨が襲来。
洗濯はもちろん布団干しも油断ならない状況です。

とはいえ、線状降水帯の影響で大きな被害が出ている各地のことを思えば、こんな能天気なことを言っている場合ではありませんね。
下手に山を弄ると、それまで保たれてきたバランスが崩れ土砂災害発生の誘因になります。
そのことはこれまでにもずいぶん言われてきたと思うのですが、行政の対応はいつも後手に回っているような気がして仕方がありません。
予算や定員に限りがあることはわかるのですが、住民本位の行政を執行してもらいたいと強く感じます。

ところで先日、バスタブの汚れを車用のコンパウンドで落としてみる、ということを試行してみたと書きましたが、とりあえず一段落となりましたので結果を追記します。

これが汚れていたときのバスタブの縁。
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これが試行後です。
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汚れはかなり頑固で、場所によってはコンパウンドでは歯が立ちませんでした。

そこで、これはかなり乱暴なやり方だとは思うのですが、目の細かい紙やすりを水に湿らせて撫でるように汚れを削り、その後、コンパウンドで磨いたところです。

ある意味では荒療治になってしまったので、今後どのような影響が出るのかわかりませんが、しばらく様子を見て大丈夫そうであれば、そのほかの気になる箇所もやってみようと思います。

ただ、これはかなりの体力勝負で、今のような蒸し暑い季節に行うと、(風呂はある意味密室ですから)汗だくになってしまいます。
そこまでするのか?、というところが分かれ道かもしれませんね。
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ミニトマトが色づき始めました。 [日記]

連日の雨で、鬱陶しいばかりでなく、土砂崩れなどによる大きな災害が出ております。
このところ、梅雨の時期に大量の雨が降る傾向が強く、これに台風の影響まで来た日には、正に踏んだり蹴ったりという感じです。
自然災害ゆえにどうしようもない、という考え方もありましょうが、やはり気候変動による影響も大きそうな気がしてなりません。
もしも、産業革命以降の人間の営みがそれを加速しているとするのであれば、人間も自然の一部であることを顧みて、これからの生き方を考えてみるべきではないでしょうか。

ベランダのミニトマトが予想以上に大きく育ち、ようやく色づき始めました。
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花や実もかなりの数がついているので、今年の夏は楽しみが増えそうです。
なお、この初物は、鳥や虫などに食べられてしまっては残念ですので、さっそく収穫しました。

私が現在の住居(マンション)に移ってから、もうすぐ21年となります。
幸い管理組合がしっかりしているため、長い年月が経っている割には大きな不具合もありません。
ただ、経年劣化の影響を受けるところももちろん多くあり、私の自宅でも、ガスコンロや給湯システムなどは入れ替えておりますし、網戸などももう二回張り替えています。

そんな中、ユニットバスのバスタブの手すりなどの汚れが目立ってきました。
ひび割れなどといった深刻な不具合はないのですが、おそらくカビ由来なのでしょう、角になっている部分が黒く薄汚れ、いつしか洗剤などでは落ちなくなっていました。
業者に頼むと、全体を削って再塗装するという作業となるため、かなりの金額がかかりますし、何よりもその間、風呂に入れなくなるのがつらいところです。
ネットで検索すると、自分で溶剤や塗料などを購入し、研磨して補修する方法なども載っていましたが、私の場合は手すりの一部なのであり、それほど大掛かりな対応が必要なのか、やはり疑問も残ります。

どうせ風呂に入るのは私一人なのだし、まあ我慢すればいいだけかな、と思っておりました。

そんな折、考えてみればバスタブもFRPであるわけで、もしかすると車用の研磨・ワックス剤で対応できるのではないかと、物は試しでやってみることに。

ということで、風呂を洗った際にこれを実行してみたところ、かなりの磨きこみなどで頑張らなくてはなりませんでしたが、それなりに効果が期待できそうです。
汚れを落とした後、時間の経過とともに何かの不具合が出るかもしれませんので、今回は一部分とし、様子を見ることにしました。

一週間ほど経って特に大きな問題がなければ、もう少し頑張ってみるつもりです。
うまくいきましたら、またこのブログでご報告させていただきます。

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