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垣谷美雨著「姑の遺品整理は、迷惑です」 [映画]

ようやく春めいてきているようです。
陽も長くなってきましたが、厄介なことに花粉も飛び始めました。
私は花粉症対策として三年間シダキュアの服用をし、備えてきましたが、どうやら効果はかなりあるように実感しています。

先日、連れ合いの姉と妹が拙宅を訪ねてくれました。
4年前の連れ合いの葬儀のあと、遺骨を前に一人残される私が心配だと、その晩は拙宅に二人で泊まってくれて、私は本当に助かったものです。
その後、COVID19蔓延などの影響もあり、なかなか会うことができなかったので、今回の訪問はとっても嬉しく、三人で深夜まで語り明かし私も大いに力づけられました。
昨年末にも、連れ合いの従妹夫婦に招かれ楽しく歓談したところで、身内のありがたさと、連れ合いがつないでくれている絆に感謝の念を禁じえません。
本当にありがたいことです。

さて、義姉は映画や本が大好きで、その意味では私と話題が共通するところが多く、以前このブログでも取り上げた、又吉直樹の「火花」も、その義姉が貸してくれたものです。

今回も是非にと貸してくれたのが表題に挙げた本。
垣谷美雨著「姑の遺品整理は、迷惑です」です。


垣谷美雨さんのことは、映画「老後の資金がありません!」で存じておりましたが、この作品も大変印象に残りました。


これは、「老後の資金がありません!」にも言えることだと思いますが、読み始めて最初のうちは、なんでこんな羽目に陥ったのだろう、という主人公の無念さと葛藤とやるせなさに胸を突かれ、なかなかページが進みません。
しかし、中盤を過ぎるころから俄然テンポ感がよくなり、最後は一気に読み終えてしまう。
それも、大団円とはこういうものをいうのだろう、という爽快感いっぱいに包まれます。

はじめのころに数々張り巡らされた伏線が、最後に一つ残らず回収されていく。
その鮮やかな筆力にも瞠目させられます。

「老後の資金がありません!」では典型ですが、この作品でもお金についての考察が非常に具体的で説得力があります。
壮年から老年に移りゆくに従い、生活費も含めたお金の問題は看過することのできない深刻さが増してきます。
老後の貯蓄2000万円問題の提起もあって、高齢者には殊に避けて通りえない課題となりました。

生活に不安のない老後を送るために、ある程度の貯蓄は必要と思いますし、生活そのもののダウンサイジングも考えなければならない。
それは厳然たる事実ですが、果たしてお金さえあればそれでいいのか。

QOL(Quality of life)という言葉があり、これはがんなどの疾病に罹患した患者の予後などで使われることが多いようですが、読んで字のごとく生活の質です。
これを高く保つことが、ある意味で真に幸せな生き方ともいえるように感じます。
そしてそれは、畢竟コミュニケーションのあり方ではないかと、この作品を読んで改めて思いました。

お金というものにはある種の魔力があり、一定程度のお金が手元にたまってくると、それを使うことよりもさらに貯めて増やすことに注力しがちになるのではないか。
どけちとか業突く張りとか、いわゆるお金持ち(小金持ち)が、己の資産を一文たりとも減らすことなく汲々としている様は、はたから眺めると実に見苦しく映ります。
これはポイントなどにも言えることかもしれませんが、一定程度たまってくると、貯めることが目的となり、それを減らすことを恐れるようになります。
つまり、貯めることが目的化するわけで、どう考えても本末転倒ですね。
自身がいよいよ身罷ろうというときに、使いきれないほどのお金を残して後悔する、などということもあり得ましょう。
なに、財産は子供や孫に残せばいい、という考え方もあるのかもしれませんが、「児孫(じそん)のために美田(びでん)を買(か)わず」という西郷隆盛の言葉にもあるように、これも考え物かもしれません。

この本では、姑の、それこそ見事な生き方が最後の方で明らかになり、正しく価値のあるお金の使い方が描かれていきます。
内容に触れてしまうことになるので細かくは触れませんが、主人公が悪態をついた(処分に困窮するので)姑の遺品も、実はそうした姑の生き方ゆえにもたらされた品々でもありました。

物語の終盤で、主人公の実母と姑の日記が明らかにされます。
この対蹠的な二人。
主人公は、実母の凛とした自らに厳しい生きざま(そして見事な亡くなり方)を賛美し、姑の自由奔放な生き方(そして思いがけない急逝)に呪詛の念を浴びせかけます。
私の父もそうでしたが、つい先日まで元気でいた人が突然逝ってしまうと、残された者たちは本当に途方にくれます。何もかもが「そのまま」の状態なのですから。
主人公の実母は、がんを告知された後、手術を拒んで緩和ケアを受けつつ数年の後に亡くなりました。
その間、まるで自分の生きてきた軌跡を消し去るがごとく就活を進め、娘(主人公)と息子の嫁に(指輪のサイズまで考慮したうえでの)貴金属類の形見分けを遺言します。
処分に困りそうなもの、あまり価値がないと思しきものは、自身の存命中にすべて片付けてしまう。
その潔さに主人公は感激し、返す刀で姑の、貯めこまれた(主人公にしてみれば無価値無意味な)遺品などを罵倒するわけです。
そんな実母を尊敬するあまり、義妹(弟の嫁)はきっと幸せだったことだろうと想いを馳せる。

そして、そうした主人公の思い込みは、義妹から聞いた話や実家の整理のこともあり、物語に終盤に入って大きく揺らいでゆきます。
先に述べた、実母と姑の日記。
それは、この二人の生き方や性格の違いを鮮やかに描き出し、物語を重層的に膨らませてくれました。
市長の妻ということもあり、自分を厳しく律し、目立つことを避け、他者との交流も必要最小限にとどめてきた実母。
周囲の人たちを大切に思い、時にはおせっかいともなりかねない容喙を働きかけ、自分のできることは何でもやろうとした姑。
日記の記述でその違いを明らかに浮かび上がらせるところも、さすがに素晴らしいと感じました。

なによりも読後感が大変さわやかです。
これは「老後の資金がありません!」にも言えることですが、垣谷さんは、本を読んだ人に幸せになってもらおうと考えて書かれたのかもしれません。
確か、山本周五郎氏の言葉ではなかったかと曖昧に記憶しているのですが、小説は、それを読んだ人が充実感を覚え幸せな気持ちになれることを目指すべきだ、ということ。
この本は、文句なしにさわやかな幸福感を味わえる佳作ではないかと感じております。
人が信じられなくなったり、将来に不安感が過った折などに読まれることを強くお勧めする所以です。、
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シンエヴァンゲリヲン劇場版:|| [映画]

立春が過ぎました。
今シーズンの一月は、ことのほか寒さが厳しかったような感覚がありますが、陽も長くなりようやく春の兆しが見えてきそうな陽気です。

連れ合いが旅立ってから4年が過ぎました。
tyoume2023.jpg
連れ合いが生前かわいがっていた長寿梅の花が咲き始め、今年はたくさんの花が咲きそうです。
昨年、私の不注意から鉢を割ってしまい、少し大きめの鉢に植え替えざるを得なくなったのですが、どうやらそれが功を奏したようで、これまでになくたくさんの花を咲かせ、なんと実まで生りました。
今年はどうだろうと、今から楽しみです。

こちらは水仙の花。
suisen2023.jpg
今はもう盛りを過ぎておりますが、この写真を撮った一月の初め\頃は、たくさんの花を付けてくれました。
以前、このブログでも書きましたが、これも連れ合いが大切にしていたもので、連れ合いの生前には花を付けなかったのに、一昨年の12月に初めて花を咲かせ、今年はさらに多くの花を付けてくれています。

これはシクラメンです。
syakunage2023.jpg
三年前、弔事のお返しに頂いたものですが、この三年間、毎年きちんと花を咲かせてくれています。

花が大好きだった連れ合いは、ベランダの植木鉢やプランターをこまめに手入れしていたもので、私はミニトマトとかバジルのような、食せる植物ばかりに関心がいっていて花の類は完全に任せきりでした。
連れ合いが亡くなってから、花の世話もするようになったのですが、こうして元気に花をつけてくれると、やはり嬉しいものですね。

こうした鉢植えやプランターあるいは生け花などは別として、大地に生育する植物は、自身の根を取り巻く無数の植物性微生物・細菌などによって地球全域にわたる相互の巨大なネットワークで補完されている、という説があるそうです。
つまり、自分の家の庭や畑にある草や樹木は、地球の裏側など隔絶されていると思われる場所に生育する植物たちとつながっているということ。
あまりに壮大な話でちょっと眩暈もしますが、私は非常に納得してしまいました。
いわば植物は、地球という大きな存在(ある種の生命体)を形作る神経系や血管のようなものなのかもしれません。
植物には、私たち動物とは違った形での感情がある、という説もあります。
水を上げたり肥料を上げたりすると喜び、火を近づけたり傷つけたりすると嫌がるのだそうです。
音楽を聴かせるとご機嫌なものもいる、などと聞くと、愛着がわきかわいくなりますね。

このブログに記事を書くのにずいぶん時間が経ってしまいました。

要因の一つに、生家のリフォームの実施があります。

母が高齢のため、以前から生家のバリアフリーや耐寒対策を施す必要を感じており、私もようやく重い腰を上げたというところです。
昨年の8月から着工して、先月の終わりにようやく完了しました。
私も近い将来、そちらに居を移すつもりもあり、そうしたことを念頭に置いてレイアウトなどを調整したりしたことから、予想以上の手間がかかった次第です。
書きたい題材はたくさんあったのですが、とても文章にまとめる気力もなく、そのまま荏苒と時が過ぎてしまいました。

今回も、本音を言うときちんとまとめられるかどうか非常に心もとないのですが、冒頭に書きました花たちに感動してしまい、このことは書いておきたいと思いましたので、アップ致します。

さて、生家のリフォームにも関連するのですが、いくつかの家具を購入しなければならなくなり、ネットですとAMAZONでしか入手できないものがありました。
そこでAMAZON経由で注文したわけですが、そのついでにAMAZONプライムにお試しで加入。
二年ほど前にも一度お試し加入をしており、改めて、ということです。

理由の一つに、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観たかった、というものがあります。
この映画は、どうやら来月の初めにようやくDVD・BD化されるようですが、せっかくなのでこの機会に、と考えました。

それまでの序破Qは、NHKBSでも既に放送されていましたから、私としては是非とも完結編を観たい!という気持ちがあったわけです。

新世紀エヴァンゲリオンは、1995年から96年にかけて放送されたアニメで、熱狂的なファンを生み出しましたが、テレビアニメの最終回では、それまでの展開とはかけ離れた精神的葛藤が中心となり具体的な完結には程遠く、それを補完する意味で制作された「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」で、そうした観客の不満にこたえるための一応の結末が描かれました。
しかし、稀有壮大なまでに拡大された多くの伏線は、きちんとした回収がなされたとは言えず、これを観た観客を路頭に迷わせる結果となります。
登場人物のほとんどが死ぬか廃人化してしまうという凄惨な作品でもありますから、そもそもそれを通常のアニメ作品的な大団円に持ち込むのは無理があったのかもしれません。

庵野監督ご自身も、恐らく相当苦しんだことと思われ、どうしてもこの作品の決着をつけたいという決意を新たにしたのでしょうか。
新劇場版、序破Qそしてシン・エヴァンゲリオンは、庵野監督のそのような想いが結実した作品といえるのかもしれません。

さて、先に述べたような経緯で、今回シンエヴァンゲリヲンリピートを観たのですが、これを観たことによって、序破Qの中で感じていた疑問や戸惑いが解消された感がありました。
序破Qを再度観たのですが、なるほどそういうことだったのか、とかなりの部分納得させられたのです。

ただし、この物語の一番の肝である「人類補完計画」に関していえば、やはり私には謎が残ります。
ゼーレも冬月や碇ゲンドウも、知恵の実を食べて己の欲望のみに突っ走る不完全なリリン(第18の使途=人間)をすべて清算し、完全なる人類として再生させるという点では同じなのでしょうが、ゼーレはそれを神の子として考え、ゲンドウは神と同一のもの(つまりゲンドウがそれになる)として昇華させる、という違いがあるのでしょう。
いずれにしても、それらはセカンドインパクトやサードインパクトという地球の強制浄化の果てのものであり、人間のみならず地球上のすべての生命体が巻き添えを食って消滅するというもの。
シンジは、その人類補完計画発動のトリガーとされていたものの、最終的は他者の存在と共生を願い、ゼーレの思惑はもちろんゲンドウの願いも打ち砕きます。

そのシンジの背中を押すことで、自らを犠牲にしてしまう葛城ミサト。
旧劇場版「Air/まごころを、君に」における最期も切ないものでしたが、シンエヴァのそれはさらに壮絶かつ痛切なものでした。
このミサトの最期ののシーンから、きっと多くの人は宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を思い起こすことでしょう。
赤城リツコをはじめとするヴンダーの乗組員全員を艦から退避させ、ヴンダーもろとも一人でマイナス宇宙のイマジナリー(巨大なレイ=リリスの瞳)に特攻をかけ、命を賭してガイウスの槍をシンジに渡します。
そして、シンジの乗る初号機のコア(魂)であるユイ(ゲンドウの妻、シンジの母)はシンジを初号機から離脱させ、背後から抱きすくめる13号機(ゲンドウが搭乗している)は初号機もろともガイウスの槍で串刺しにされます。
ガイウスの槍は、その後次々に残されたエヴァンゲリオンを串刺しにしていく。
それによってゲンドウの人類補完計画は潰え、ゲンドウの野望は頓挫したかに見えますが、ゲンドウの真の目的は愛する妻のユイと一体化することだったので、図らずもそれは成就した、ということでしょう。

さて、結構謎の存在であった真希波・マリ・イラストリアスについても、シンで(明確には描かれていませんが)かなりの存在感を以て描かれています。
冬月が持っていた写真(これは、Qで冬月からシンジに示されています)から、ゲンドウやユイとともに冬月の教え子だった関係性が見て取れ、冬月先生、ゲンドウ君、ユイさんと呼んでいた背景もわかりました。
写真には生まれたばかりのシンジも映っており、マリがシンジを何くれとなくサポートする根拠もわかります。
冬月が、彼女のことを「イスカリオテのマリア」と呼んだことも象徴的です。
イスカリオテといえば、恐らく誰しもがユダを思い起こすものと思われ、冬月・ゲンドウ・ユイがもくろんだ「神殺し」の人類補完計画を、シンジに与することで阻止したことから、つまり「裏切り者」であり、またイエスの最期と復活を見守るマグダラのマリアでもあった。
最終的に人間をはじめ多くの生命を復活させる役割を担ったシンジを、彼女が最後まで見守り「必ず迎えに行くから待っていて」と力強い言葉をかける背景もこのあたりにあるのでしょうか(ラストシーンも象徴的)。

などと、書けば書くほど散発的でまとまりを欠いてしまいそうですので、このあたりでやめておきます。

この作品を観て、一番心に響いたのは、庵野監督の誠実さでした。
先にも触れた通り、旧劇場版で一応の決着を描いたものの、庵野監督はそれを良しとは決してしなかった。
庵野監督はシンエヴァの脚本を2009年から書き始めていた、と聞きます。
序の公開が2007年で、破は2009年ですから、そのころから結末に向けて具体的な構想を練ってきたのでしょう。
シンジの口癖である「逃げちゃだめだ」や、最後にミサトに告げる「これは僕が落とし前をつける」という決意の言葉は、きっと庵野監督の想いを具体化してものなのだろうと感じます。

単なるロボットアニメや兵器物の枠を超え、哲学的・宗教的な世界まで内包し、稀有壮大な物語に膨張してしまった新世紀エヴァンゲリオン。
その複雑かつ拡散してしまった(かに見える)厖大な伏線を、庵野監督はでき得る限り回収しようとした。
その誠実な姿勢には満腔の賛意と尊敬の念を抱きます。

そして、それでもなお、この作品は様々な解釈の余地を残した。
観客一人一人が、様々に違った解釈をし、独自の世界観を広げることを許してくれる、アニメとしては非常に珍しい作品なのではないでしょうか。




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