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句読点の考え方 [日記]

9月も半ばを過ぎ、だいぶ陽が短くなってまいりました。
先日も、帰宅時に職場を出る際、既に陽が落ちていることに気づき俄かに寂しさを感じたところです。

月みれば ちぢに物こそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど

私は大江千里のこの歌が大好きで、秋を感ずるときに常に頭をよぎります。
この歌は、いうまでもなく白居易の「燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長」によったもので、のちに鴨長明がこれを本歌として「ながむればちぢに物思ふ月にまたわが身ひとつの峰の松風」と詠んだように、秋の月に同じような想いを馳せる人は数多くいたのでしょうね。

ちょっと恥ずかしい経験ですが、15年ほど前にピアノ伴奏つきソプラノ・バリトンの二重唱で「秋の月」という曲を作ったことがあります(後に混声合唱に編曲)。
もちろん稚拙極まりない曲ではありますが私自身としては気に入っている曲の一つで、作曲した動機の一つにこの大江千里の一首があったことはいうまでもありません。

秋は食べ物もおいしく気候も過ごしやすくなりますから良い季節なのですが、やはり寂寞感は如何ともしがたく「千々に物悲しさ」を感じさせるようですね。

ところで先日このような記事を読み、考えさせられました。

中高年は知らない…若者がLINEで句読点がついた文を心底嫌悪する本当の理由

この話はかなり以前から話題になっていたので、真偽のほども含めて興味を持っていました。
一読後、なるほどなあ、というのが実感です。

LINEは、トークによる文字のやり取りのほか、画像その他ファイルの添付、音声会話・ビデオ会話もでき、ケータイのみならずPCなどでもやり取りが可能な、かなり優れたコミュニケーション・ツールであり、私も重宝に利用しております。
なんといっても、メールなどに比べてレスポンスが格段に速く、友だち毎に履歴も追えるので業務上の連絡にも使えたりします。
つまり、どこかしら、使い勝手の良いビジネスチャットツールのような扱いもしているわけです。
若者からすれば、句読点は「大人(中高年)」が自分たちに向ける“文書”に用いられているものであり、往々にしてその内容は目的志向的で、なにより批判的なニュアンスが含まれていることが多い。だからこそ、LINEなどのメッセージアプリ上で句読点がある“文書”を目にすると、そこに自分の責任を追及されているような、いうなれば「詰問」に近いニュアンスを感じてしまい、嫌なのである。

なぜかといえば、
すなわち、若者たちにとってそれは「会話の一形態」であるのに対して、年長者たちは「簡易版メール」のような感覚を持っていて、つまり手紙やメールの延長上にある「文書送信の一形態」なのである。

という、LINEに対する彼我の位置づけの夥しい乖離にその原因があるとのこと。

うーむ、というところが私の正直な感想ですね。

子供のころから本を読んできた私などにとっては、たとえそれが電子媒体であっても、文字によってあらわされたものは「文章」だという認識が強くあります。
LINEなどのタイムラインに流れてきたものであってもその根本的な感覚は変わりません。
従って、文章であれば当然のこととして句読点は必要、と考えるわけです。

しかし、これを「会話」としてとらえることになれば、(通常、会話の場合、句読点は意識しませんから)空間を行きかう話し言葉のやり取りと同じようにその都度費消されていくのでしょう。

思えば、日本語における句読点が、現在のような形でそれなりに用いられ始めたのは、明治時代から大正・昭和にかけて口語体が確立されてきたことと軌を一にしています。
それ以前の時代で公用文や実用文を書く場合は文語文すなわち漢文をもとにした候文(●●相勤可申御坐候のような)を用いていましたし、庶民の文のやり取りでは短い言葉を段落に分けて表現していましたから、いずれにしても句読点は必要なかったものと思われます。
明治時代に入り、国民の教育ことに識字率の上昇が進んだことから、より多くの読者を確保したい小説家などが中心となって新たな筆記方式となる口語文の確立が試みられます。
樋口一葉や幸田露伴、森鴎外の初期の作品などにみられるように、基本的に明治初期の小説は文語文で書かれていたわけですけれども、夏目漱石などによって新しい文体(口語体)が生み出され彫琢されて、それが現在まで連綿と続いている。

つまり、私たちが使っている現在の口語文は、たかだか百年くらいの歴史しかないわけです。

そんな文章作法の中でも、句読点、とりわけ読点は厄介です。打ち方によって文意さえも異なってしまう。
因みに、古文、中でもかな書きを中心にした文章(源氏物語や伊勢物語や竹取物語や平家物語などなど数多)に漢字が付け加えられたり句読点が打たれているのは、後年における学者や研究者などの親切心や老婆心によるもので、原本にそのような措置は施されておりません。

それでも口語文の普及は、「達意」という実用文の最重要使命を果たすために大きく寄与しているものと思います。
私たちが文章を書く上で最も大切に考えなければならないのは、この達意ということ。
それゆえにこそ、句読点とりわけ読点の使い方には細心の注意を払わなければならないのだろうと愚考する次第です。

このようなことをつらつら考えてみると、いわゆるZ世代と称される若年層(読書からも遠ざかっている人が多いようです)が、面倒くさい実用文記述のしきたりにとらわれることを忌避して、より会話に近いやりとりをSNSなどで使う理由もわかる気がします。

尤も大人になって実社会に出れば、それだけでは済まなくなるわけですから、いつかはそうしたしきたりに従わざるを得なくなるとは思いますけれども。

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