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山の手空襲 [映画]

5月25日、77年前のこの日、太平洋戦争における最後の都心空襲となった山の手空襲がありました。

4000人余犠牲の山の手空襲から77年 小学生も参加し追悼の集い

広津和郎さんの著作「年月のあしおと」にもそれに関する記述があり、当時広津さんがお住まいになっていた世田谷四丁目までは来なかったものの、三軒茶屋は火の海になったそうです。

3月10日の東京大空襲(死者10万人以上)に比べれば少ない数かもしれませんが、焼夷弾によって焼き尽くされる恐怖は、想像するだに身の震える思いが致します。

空を悠々と飛行しながら焼夷弾を落とすB29の姿、そのうちのいくつかが高射砲などによって撃墜されることがあったそうですが、きりもみなどということはなく、大きく旋回しながら落ちていき、この世の物とは思えない印象があったとのことでした。

米軍による無差別爆撃のことを想うたびに、私は「メンフィスベル」というアメリカ映画を想起せざるを得ません。



これは、ウィリアム・ワイラー監督による同名の記録映画を劇映画化したものですが、敵地の上空を飛びながら爆弾を落とす爆撃機の恐怖と緊迫感をサスペンスフルに描いた映画です。

この映画の中で、ドイツ軍の戦闘機工場を爆撃する目的で旋回しつつ、爆撃による煙などで視界不良となっていることから、工場の付近にある病院や小学校などを爆撃しないように注意を払う、という場面があります。
病院や学校を攻撃したくはない、という、実に人道的な行動で、そのために爆撃機は危機に陥ってしまう、という筋書き。

なんというご都合主義的かつ偽善的な描き方か、と、私はこの映画を観たときに憤りを禁じえませんでした。

いうまでもなく、米軍によって行われた絨緞爆撃は、その下に病院があろうが学校があろうが全く関係なく、むしろそうした場所には多くの人々が集まっているとばかりに集中的な攻撃をしてきたのではないか。
B29による絨緞爆撃のほか、P51などによる機銃掃射によって、「動くものはすべて標的」といった攻撃にさらされた当時の日本の庶民。
私の父母もそのときの恐怖を、常々語っておりました。

私は、毎年、三月くらいから、東京大空襲、沖縄の地上戦、日本各地に広がった空襲、広島・長崎への原爆投下、などへの想いを新たにしています。

こうした悲劇を招いた原因がどこにあるのか、そして、それでも(米国は)ここまでする必要があったのか、また、どさくさに紛れたこそ泥のような行為(ソ連による北方領土侵攻など)はどうなのか、考えてみても、なかなか納得はいきません。
ただ、忘れずにいたいなと、思うばかりです。

また、もう一つ忘れてはいけないことは、この 無差別爆撃の端緒を開いたのは日本軍による重慶爆撃であったということ。
大変嫌な言い方ですが「因果応報」という冷笑を浴びる虞もなしとしません。

このブログでは、こういうことを書かないように気を付けてきましたが、山の手空襲の記事を読み、つい愚痴をこぼしてしまいました。
いけませんね。
ちょっと反省しつつアップします。
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BS松竹東急 [映画]

今年のGWはお天気に恵まれ、新型コロナウィルス感染防止のための行動制限も解除されたことから、行楽地を中心に大変な人出となりました。
ニュースなどでは各地の高速道路の連日の大渋滞を繰り返し伝えておりました。

恥ずかしいことですがちょっと転倒して怪我をしたこともあって、連休は大人しく家で養生中です。
怪我をしたのが2日の晩でしたので、三連休中は病院にも行けず、6日に診察してもらったところ、残念なことに肋骨骨折との診断。
現役で山登りをしていた時には、結構この手の怪我はしていたので、恐らくやっちゃったんだろうなと思ってはいましたが、やはり無念でした。

尤も、私はこの三月末で、それまで勤務していた会社の雇用契約が終了し、現在ハロワに通う失業者となっておりますから、そもそも連休など何の関係もなかったのですが。

三月末に、衛星放送で「BS松竹東急」が開局されました。
松竹映画の名作などが放映され、私のようなオールド映画ファンにとっては大変うれしいチャンネルです。
このところテレビではほとんど放映されなくなった、野村芳太郎監督の「張込み」や山田洋二監督の「霧の旗」などが立て続けにラインナップされ、久しぶりに胸をときめかせながら観ました。



今年が没後三十年ということもあってか松本清張特集も組まれており、「張込み」や「霧の旗」に引き続き「わるいやつら」や「疑惑」も放映。
面白く観たところです。

「わるいやつら」は、片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)・藤田まこと・緒形拳・佐分利信といった実力派俳優を綺羅星のごとく集めた映画ですが、細部が詰め切れておらず散漫な印象が強く残る、野村芳太郎監督としては凡作の一つなのではないかとの感想をあらがえません。

それはともかく、片岡孝夫演ずる戸谷信一の情婦・寺島トヨの役を宮下順子が演じており、ちょっと時代を感じました。
宮下順子と云えば、私たちにとってはロマンポルノの女王としてゆるぎない地位を築いた類まれなる女優の一人です。
団地妻シリーズが有名ですが、私は、神代辰巳監督の「赫い髪の女」と田中登監督の「実録阿部定」がお気に入り。
何れも、ロマンポルノの枠組みを軽々と超越した名作だと思っています。
ご興味のある向きは是非とも一度ご鑑賞ください。



さて、医院を経営する戸谷信一は次から次へと女を誑し込んで金を巻き上げる悪徳医師であり、それ故にそうした女性たちとの情交のシーンが数多く出てきます。
その医院の看護師長であり情婦でもある寺島トヨとの間でももちろんそうした濃厚なシーンが展開されます。
そうした濡れ場のシーンで、宮下順子の裸の胸部がぼかされていました。
それ以前の、ナイトクラブのシーンで裸で踊る外人女性の胸部も同じくぼかされていましたので、あれ?と思ったのですが、私が映画館でこの映画を観た時にはそのような処置はされていなかったと記憶します。

なるほど、これは「BS松竹東急」の見識なのでしょう。
放送時間帯が20時前から、ということを鑑みれば、子供たちが観ることも当然ありうることですから。

この映画作品の性格上、情交シーンは不可欠なのでしょうが、そうしたシーンで女性の裸の胸部をさらけ出さなければならない必然性は果たしてあるのか。
先に取り上げたドライブ・マイ・カーでは、妻がニンフォマニアであるのかもしれないという疑いを視覚的に表す必要もあってそうしたシーンも登場しますが、裸体ではありつつも非常に抑制的だったと私は感じています。
ロマンポルノのように、それが基本的かつ重要な制作条件で一つの売り物となっている場合はいざ知らず、それが主たる目的ではない映画で、徒に女性が裸の胸部などあられもない姿を画面にさらす必要が果たしてあるのか。

溝口健二の「祇園囃子」という映画があります。
木暮実千代演ずる芸妓の美代春が、若尾文子演ずる舞妓の栄子(美代栄)を救うために、贔屓先企業の事業認可担当である役所の神崎課長に(それまで拒み続けてきた)身をゆだねるシーン。
神崎の寝ている寝室の隣部屋で着物を脱ぎ襦袢姿となった美代春は、そっと足袋を脱ぎます。
それだけのしぐさで全てを表した溝口監督の演出力に感嘆したことをふと思い返しました。
たまたま手元にその映画があったので改めて見返しましたが、今観ても切なさと哀れさのほかになんとも云えない艶を感じたものです。
意に沿わない相手の男に抱かれる理不尽さは、想像するに余りありますね。

そう、別に即物的な映像を見せつけられなくても、観客は流れの中でそうした行為も感じ取るものなのでしょう。

もちろん、女性にしても男性にしても、一糸まとわぬ姿にならなければ表現の核心に迫れない作品もあることは私も認めます。

しかし、そうした必然的な理由がないのであれば、表現者はもう少し観客の想像力を信ずるべきだとも思います。

因みに、「わるいやつら」の中での宮下順子以外の女優さんは、情交シーンでも彼女ほど「サービス(?)」はしておりません。
女優さんと監督の判断の問題なのでしょうが、そのあたりの差異を論ずるのは、これまたなかなかやっかいなものがありそうですね。

映画というものは一種のエンターテインメントですから、観客の興味を引くためにエロ・グロ・バイオレンスをふんだんに盛り込むという行き方も当然にあります。
ハリウッドなどでもそういう映画はたくさんありますし、もちろん邦画でも。
従って、最初からそれを当て込んだ映画製作も当然あってしかるべきでしょうし、そういう映画が大好きだという観客が存在する以上、商業映画としてはそれを無視するわけにはいきません。

ただ、映画というものを一つの表現芸術だと考えた場合、そうしたある意味あからさまな表現を用いることの必然性、そのことによって表現したいもっと奥深いものを観客に訴えかけるという目的、そうした表現者としての確固たる視点も求められるように思います(先にあげたロマンポルノの作品には、そうした視点がありました)。
「観客もそういうシーンを求めているから」というところに安直に寄りかかって映画作りをする、そういう姿勢がもしもあるとするのであれば、それは表現者として一種の限界に至っているのではないか。
私はそのように考えてしまいます。

もちろんこれは私の大いなる偏見ではありますが。
妄言多謝。
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