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小松菜の再生栽培 [日記]

先日、大根葉の再生栽培のことに触れましたが、先日、小松菜の値段がようやく落ち着いたので購入し、こちらもさっそく再生栽培をしています。
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水を替えるのが一日一回で済むのは大根葉と同じで、この時期だからこそですね。
栽培を始めてまだ一週間も経っていませんが、どうやら順調に生育しているようです。
植物の生命力というものは誠に驚嘆すべきものだと、改めて感じ入っています。

ところで、在宅ワークが続くと、どうしても運動不足になってしまいます。
殊に、COVID-19の感染拡大が要因となっている現在の状況からすれば、なるべく初対面の人との接触は避けるべきであり、外出の頻度も時間も限られたものにならざるを得ません。
勤務地が都心であったこともあり、以前は通勤だけで一日の歩数が一万歩を超えていました。
それが現在では、積極的にウォーキングなどに取り組まなければ達成はおぼつかない状況です。
以前にも記事でご紹介しましたが、キノコなども採れる里山がいい塩梅の距離にあるので、ここへの散歩で何とか埋め合わせをしています。
ただ、あくまでも「在宅」の勤務体系ですから、昼休みを利用した限られた時間内での対処となってしまいます。

そんなわけで、在宅でもできる運動として、ラジオ体操第一・第二、それから、NHKで紹介されている「みんなで筋肉体操」がかなりのおすすめかな、と思います。

https://www.nhk.or.jp/d-garage-mov/movie/82-14.html

私は昨年末に64歳となり、本年はとうとう「前期高齢者」になってしまいます。
その年で、このサーキットは、当初かなり厳しいものでした。
しかし、継続は力なりというのでしょうか、毎日取り組んでいるうちに少しずつできるようになり、時折インターバルでズルをしたりしますが、何とかなってきたりします。

年をとっても筋肉を鍛えることはできる。
「ほんとかな?」などと、以前は疑っていましたが、どうやら人間の体はそんなにやわなものではないようですね。

それから、お天気が悪かったり冷え込みが厳しかったりして外に出られなかった場合の対策として、踏み台昇降がかなりいい運動になります。
15cmから20cmくらいの踏み台で一時間程度上り下りを繰り返すと、歩数計で5~6000歩くらいは稼げます。
冬場でもじんわりと汗をかくことができますし、腕をきちんと振るとかなり良い全身運動になるようです。

連れ合いと父を立て続けに亡くして気落ちしていたことと、COVID-19感染拡大の影響もあって、このところ全く山登りからは遠ざかっておりましたが、今年は少しずつでも前向きに取り組んでいきたいなと考えています。

そのためにも、体力づくり・身体づくりは大切ですね。
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ゲルト・シャラーによるブルックナー「交響曲第9番(シャラー校訂完全版・改訂稿)」 [音楽]

独り身になって、家のことを全部ひとりでしなければならなくなったとき、一番気が重かったのは掃除でした。
私は一応家事のほとんどは対応可能なのですが、好き嫌いということでいえば掃除は嫌いな部類です。
「埃なんかでは死なないよ」みたいなことを嘯き、連れ合いにはその都度叱られて尻を叩かれていました。
もちろん、単身赴任もしていましたし、掃除も片付けもせずに部屋の中が汚れ放題で平気、などということではありません。
その折でも、きちんと定期的に掃除はしていました。
でも、嫌いなものは嫌い、だったわけです。しなくてすむのならしたくない。

そんな私のことを熟知していたからでしょうか、
連れ合いが最期を覚悟した2018年の年末、それまで契約していたダスキンのワックスがけモップの契約を解除しました。
残された私に、あまり負担をかけたくないと思ったのでしょう。
必要なら近所のドラッグストアで床のワックスがけ用のシートを買ってくればいいから、と言いました。
その、自分に残された時間を測るような言い方は私に強い悲しみを与えましたが、結局私はそれを受け入れたわけです。

そんないきさつはありましたが、一人になると、やはり掃除は大切なものだなという感を強くしました。
不思議なもので、部屋の隅や桟などにたまった埃にも我慢がならなくなり、気が付くと掃除をしています。
テレワークになっていることもあって、布団を干すと、気分転換も兼ね掃除をするようになりました。
台所も、今まではせいぜいレンジフードの掃除くらいしたしなかったのですが、シンクなどの洗い場から三角コーナー、排水口、洗面台など、ちょっと汚れに気づくと洗い、まな板や三角コーナーなどは折に触れて日光消毒をしています。
風呂掃除はもともと私の役目でしたし、手洗いは汚れに気づいたほうが洗うということにしていましたが、換気扇の掃除は私の気の回るところではありませんでした。
ここに結構な埃がたまり、それが部屋の空気の循環などに影響を与えることも、一人になってから実感した次第です。
嫌だ嫌だ、といいつつ、今ではなんだか習慣化して、しないわけにはいかなくなった、という感じでしょうか。

先日ふと気づいたのですが、私はどちらかというと、やるときには徹底してやってしまう傾向が強く、つまり、掃除などに関しても、やり始めたらきちんときれいするまではやめられない、そんな思いが強く出るのかなと。
だから、連れ合いがいるときには、面倒くさいからみないようにしていた、ということかもしれません。
まことに厄介な性分です。

閑話休題

ゲルト・シャラーは1965年に、ドイツバイエルン州のバンベルグで生まれ、ヴュルツブルク音楽大学で音楽を学ぶ傍らフリードリヒ=アレクサンダー大学エアランゲン・ニュルンベルクで医学も納めました。
1993年、ハノーファー州立歌劇場でデビュー以来、ドイツ各地のオペラハウスなどで研鑽を重ねています。
その一方、1990年にフランコニアにあるエーブラハ大修道院附属教会でのサマーミュージックフェスティバルを立ち上げ、その芸術監督として「フィルハーモニー・フェスティヴァ」を指揮、ブルックナーの音楽を主体とした演奏に取り組んできました。

中でも、2018年7月に行われた「交響曲第9番(シャラー校訂完全版・改訂稿)のライブは出色の演奏であり、世の注目を集めたものです。


ライブ録音ゆえにもちろんいくつかの箇所での傷はありますが、エーブラハ大修道院附属教会の響きを最大限に生かした演奏は実に感動的です。
問題の第4楽章、シャラーの長年にわたる調査・研究と際立った熱意により2016年に校訂され2018年の改訂を以て完成しました。
シャラーは2010年のキャラガン校正版を使用した演奏も行っていますが、自身の改訂はさらに徹底していて、この曲に関するブルックナーの最も初期のスケッチなども取り入れ、欠落した部分の連続性を徹底的に埋めようと努力しています。
恐るべき執念であり、深い感動を禁じえません。
最終的には736小節の楽章となり、演奏時間は25分17秒。
もちろんこれまでの第4楽章補筆改訂版中、最大規模です。

これまで幾種類かの、この曲の補筆改訂版の演奏を聴いてきましたが、それぞれのピースが何となく不自然に配置され流れを阻害しているかのように感ずることを否めませんでした。
この演奏では、それが極めて自然に流れていきます。
シャラー改訂版の肝ともいうべきフーガは充実した緊張感の中で響き、最後のコーダになだれ込む感じです。
第1楽章の冒頭をはじめ、これまでのブルックナーの音楽からの引用も随所に見られ、私としては大いに楽しめました。
聴けば聴くほど新たな発見があります。

それから、このシャラー完全版では、特に中声部の厚みが増しているという印象を強く持ちます。
これまでの補筆版では、第3楽章までの和声の厚みとの差がかなり著しく出ている感があって、その点では不満を持っていたのですが、この演奏ではその点で非常に満足させられるものがあります。
ブルックナーは、年を重ねるごとに和声における大胆な試みに挑んでおり、それまでのセオリーを打ち破る冒険的な響きを作り出してきました。
その流れの中にこの第4楽章もあるように私には思えます。

「いくらなんでもやりすぎ」「これはブルックナーではない」という感想を持たれる方もきっと多かろうと思われます。
しかし、私はこのシャラーの試みの中に、彼の限りないブルックナーへの愛情が感ぜられてなりません。
彼が決して荒唐無稽なことをしようとしたわけではないことは、この演奏の第3楽章までを聴いてみれば明らかです。
ブルックナーの手のよって残された第3楽章までの未完成版でも、これまでのこの曲の数多くの演奏に決して引けを取るものではありません。
この、第3楽章までを聴くだけでも十分価値があると思うのです。
ブルックナーを愛するがゆえに、彼が完成させることのできなかった世界を何とか再現してみたい、という衝動を抑えることができなかった。それゆえに、全力を尽くして捧げた、ということではないのか。
私にはそのように思えてなりません。

さて、未完に終わった第9番。
後年の人々が、何とか完全な形で再現しようと試みていること。
そのことについて当のブルックナーご本人はどのように感じておられるのでしょうか。
以前にも何度か書きましたが、私個人としては、第9番の第3楽章のあの恐るべき深淵を受け止めることのできるフィナーレを、ブルックナーとしては完成することができなかったのではないか、と思っております。
そのことに関しては、シューベルトが未完成交響曲を第2楽章までしか書けなかったことと同じなのではないか、と。
たくさんのスケッチを描いたものの、あの第3楽章に匹敵するようなフィナーレまでもっていくことができなかった。
その意味では、そういう未完のピースをしまっておいた箱を、後年の研究者や識者が無造作に開け放ち、白日の下にさらしてしまったことに、ブルックナー本人は、あられもない姿をさらされたと思い恥ずかしさの極みにいるのかもしれません。
「テ・デウムをフィナーレの代わりに」と言い残したというブルックナーの想いは、いったい奈辺にあったのか、そのことも併せて感慨深く思います。

そのようなわけで、やはりブルックナーの交響曲第9番は、現在残されている第3楽章までの演奏で十分なのではないか。
それから先を見てみたいと思っている私たちは、所詮、興味本位ののぞき見趣味的な聴衆なのかもしれないと、時折振り返ってしまいます。
もちろん、シャラーをはじめとする、真摯な求道者の姿を敬意を以て眺めているのですが。



この全集は、交響曲の全曲のみならず、第4番「村の祭り」版やミサ曲ヘ短調、詩篇146のほか、現存するオルガン曲まで収録したものです。
このような全集が発売されることすら、ちょっと想像がつきませんでした。
これは実に貴重な記録だと思います。
因みに、当代一のオルガンの名手とうたわれ、反目しあっていたブラームス(これはどうも異論があって、反目していたのは当人たちではなく周辺の人間だったようですが)でさえ、その腕前について大変高い評価を与えていたブルックナーがなにゆえに、その最も得意としたオルガンのための曲をあまり残さなかったのか。
その理由の一つとして次のような文章があります。
彼は彼の教え子たちに次のように言ったと伝えられている。「もう私はバッハにあまりかまけたりしないつもりだ。そんなことは想像力のない人にまかせる。私は題による自由な即興演奏をやる。」これはオルガン演奏に対するブルックナー自身の態度を明瞭に示していて、オルガンの名手である彼がなぜ語るに足るオルガン曲を書き残さなかったか、その理由を明らかにしている。(H・シェンツェラー著「ブルックナー」より引用)

これは、ブルックナーが、オルガン演奏に対してどれほどの自信と誇りを持っていたかを示す言葉ではないかと思いますね。
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テレワークの中での生活 [音楽]

今日も暖かなお天気となりました。
明日は大雨になる予報ですので、朝起きて早速お洗濯をしました。
昨日は布団を干して、その間にお掃除。

一人暮らしとなってから家事全般自分でやらなければならなくなりましたが、結婚するまでの15年間は一人暮らしでしたし、結婚してからも二度の単身赴任がありましたので、そうしたことはそれほど苦にはなりません。

特に料理は、もともと嫌いではなかったこともあり、在宅ワークが主になる前の弁当作りも含めて、ほぼ完全な自炊です。
弁当を作っていたときは朝6時には起きていたのですが、在宅ワークによってその必要がなくなると、なんだかんだと7時過ぎまで寝床にいます。
出社の必要がある際には弁当を作らなければなりませんが、前日の夕ご飯の支度の折に一緒に作り、冷蔵庫に入れておくことが習慣になると、もはや朝早く起きて弁当を作る気力は失せてしまいました。
朝と昼は、どうしても似たようなメニューになってしまいがちですが、夕ご飯はそれなりにヴァリエーションをつけようと考えています。
冬の間は、大根が安いのでおでんなどを作ったりすると、一週間くらいはそれを使えますから便利ですね。
大根を買ってきて、根元の部分を切り取り、水栽培すると大根葉が収穫できます。
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これは大根に限らず、小松菜とか分葱でもでき、思いのほかの収穫があって、味噌汁の身とか炒め物に使えるので非常に重宝します。
夏の間は日に二回くらい水を変える必要がありますが、冬場は一回で大丈夫。
自炊をしていると献立がどうしても偏りがちになりますから、特に野菜の摂取は積極的に行い、魚と肉を交互に使うなど、なるべく同じものが続かないように気を付けています。

こういう生活が続くと、外食をしようという気にはなかなかなりませんから、緊急事態宣言の中で外食産業が厳しい状態に追い込まれているのも宜なるかな。
また、世の中には「自炊警察」みたいなやっかいなお節介焼きが出現しているようで、これも非常に鬱陶しい。
私は独り身ですし料理が苦手というわけでもないので毎日の自炊も苦にはなりませんが、小さな子供などの家族がいて仕事に出かけなければならないご家庭では、外食やお惣菜に頼らざるを得ない場合も多かろうと思います。
要は合理的な選択をして、このCOVID-19感染拡大を乗り切ることが大切で、それは各家庭がそれぞれに合った方法で取り組めばいいのではないでしょうか。

ちょっと余計なことを書いてしまいましたが、昨年、次のようなCDが立て続けに発売されました。





トスカニーニの演奏が、ステレオで聴ける。
これはさすがに驚いてしまい、速攻で買い求めたところです。

特に、1954年のトスカニーニ&NBCによるラストコンサート「ワーグナープログラム」は、当時87歳だったトスカニーニのまさに白鳥の歌ともいうべき録音です。
この時すでに重度の記憶障害に陥っていたトスカニーニは、本来は「ドイツレクイエム」の予定であったプログラムを自家薬籠中の物としていたワグナーに替えて臨んだのですが、それでも破綻寸前であったそうです。
手兵であったNBCだからこそ、それをぎりぎりのところで押しとどめ、カーネギーホールを埋め尽くした聴衆に感動を与えたとのこと。
詳しくは、このCDに添えられたライナーノートをご覧いただければと思います。
そうしたぎりぎりのライブ録音ではありましたが、ステレオであることによって、トスカニーニがNBCからどのような響きを引き出そうとしたのかなどが音の広がりを以て感得できるのではないでしょうか。
恐らく、全盛期の頃のような水も漏らさぬ厳しいバトン・コントロールを尺度にすれば不満は残ることでしょう。
しかし、私はやはり、あのトスカニーニがステレオ音源で演奏を残してくれていたことに感謝の意をささげたいと思います。

一方のヴェルディの「レクイエム」ですが、これは事情が異なります。
1951年の演奏は、現在でもトスカニーニによるこの曲の代表的なものとしてCD化もなされておりますが、ライブ演奏の際に生じた傷をリハーサルの部分などを用いて差し替えることにより、しぶしぶトスカニーニが認めた録音です。
私もそのCDを所有していますが、ほかの凡百の演奏など足元にも及ばぬ苛烈極まりない名演で、殊に「Dies irae」における皮を極度に緊張させた太鼓の連打には身も打ち震える迫力でした。
その「傷物」とされたライブ録音テープがコレクターの間で流通し、さらにこれとは別の位置から録音されたテープまで残されていたとのこと。
今回の疑似ステレオCDは、つまりそれらを合体して作られてものです。
従ってこれは、トスカニーニが拒絶した録音に基づくものであることを認識して聴く必要があります。
しかし、これは後からの修正のない、まぎれもない当時のライブの記録でもあります。
不自然な部分は当然ありますが、84歳という高齢のトスカニーニが、この大曲を最後まで振り抜いた記録として考えれば、やはり万感の思いを禁じえません。



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テレワークの中で [音楽]

二月も半ばとなりました。

COVID-19の感染、もしかすると峠を越えたのかもしれない、と思わせるような風潮が出始めています。
しかし、医療機関の逼迫は依然として続いておりますから、緊急事態宣言の継続はやむを得ないところでしょう。
我慢を強いられる生活はつらいものですが、来週からワクチン接種も開始されるとのことで、もう少しの辛抱かなと思っております。

このブログに記事をアップするのもだいぶ久しいものとなりました。
先月の中旬に亡父の一年祭を執り行い、ようやくブログへの投稿などの気力を取り戻しつつあります。
これまでは、記事のアップはおろか、自分のブログであるのにも関わらず、閲覧すらも忌避しておりました。
浅はかな態度ですが、連れ合いや父の最期のことを書いてしまったので、ここに来ることでそうしたことのいきさつなどを思い返してしまい、どうにも耐えられなかったのです。

父の一年祭が終わって、以前にも書きましたが奇しくも連れ合いと父が同じ誕生日であったことから、先日、ささやかに誕生日のお祝いをしました。
母と妹はその日に二人のお墓参りをしてくれたようで、外出自粛の私としては望外の喜びを感じたところです。

さて、昨年の4月から、月の大半はテレワークとなり、業務の必要性から6月と7月は出社する日が多かったものの、9月以降はほとんど自宅で仕事をしております。
会社としても通勤手当支払いの必要がなくなったので、それはそれで多少の経費削減にはつながっていると思います。
もともと私どもの業界(IT、ソフトウェア関連)では、Web会議などでの打ち合わせも常態化しておりましたから、自宅で仮想デスクトップに接続し、メールや電話のやり取りを組み合わせることでたいていの用務はこなせますので。

ただし、仮想デスクトップで運用するにあたり、自宅のPC固有の各種デバイス(外部記憶装置やプリンタ、スキャナなど)との接続は厳重に遮断しなければなりません。
従って、プリントアウトなどを直接行うことはできませんから、量の多い資料などを印刷して読む、という、私などの古いタイプの人間の仕事のやり方では結構な不都合が生じます。
実をいうと、月のうちの何度かは、そういう必要もあって出社したりもします(もちろん、対面での営業や打ち合わせが主な目的ですが)。

30年あまり前に結婚してから、二度にわたる単身赴任を除き一人暮らしをしておりませんでしたから、常態化する在宅ワークはやはり精神的に厳しいものがあります。
人と直接会話するのは、例えばスーパーなどで買い物をするときに店員さんと一言二言かわす程度のもので、あとはひたすら会話のない生活なのですから。
人は社会的な生き物であり、コミュニケーションは本当に大切だな、と痛感しています。

そんな中で、たまに仕事仲間などとWeb飲み会を開催するのですが、これがとても楽しい!
ついつい時間を忘れて盛り上がってしまいます。
みんなきっと同じ思いでいるのでしょうね。

それから、これも一人きりでの在宅ワークの効用なのかもしれませんが、好きな音楽が聴き放題、ということ。
会社内で流れているBGMは、こういってはなんですが毒にも薬にもならないもので、始末の悪いことにどうしても耳についてしまいます。
自宅で音楽を聴くにつけても、以前は連れ合いと趣味が微妙に異なっておりましたので、今は自分の好きな音楽だけを聴くことができることに、寂しく思いつつも少し満たされた思いをすることも禁じえません。

連れ合いを亡くしてから、寂しさを紛らわす意図もあって、いくつかの新たなCDなどを購入しています。
その中で一番新しいのは、チェリビダッケがミュンヘン・フィルと録音したボックスCD。


これはなかなか聴きごたえがあって、たった一人で在宅ワークに勤しむ私の、目下の慰めの一つです。
49枚もあるので、もちろん玉石混交ですが、チェリビダッケが一番思うところを実現できた楽団との演奏歴史。
違和感のある演奏も、そうしたことを考えると、自然に頬が緩んできますね。

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