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山の手空襲 [映画]

5月25日、77年前のこの日、太平洋戦争における最後の都心空襲となった山の手空襲がありました。

4000人余犠牲の山の手空襲から77年 小学生も参加し追悼の集い

広津和郎さんの著作「年月のあしおと」にもそれに関する記述があり、当時広津さんがお住まいになっていた世田谷四丁目までは来なかったものの、三軒茶屋は火の海になったそうです。

3月10日の東京大空襲(死者10万人以上)に比べれば少ない数かもしれませんが、焼夷弾によって焼き尽くされる恐怖は、想像するだに身の震える思いが致します。

空を悠々と飛行しながら焼夷弾を落とすB29の姿、そのうちのいくつかが高射砲などによって撃墜されることがあったそうですが、きりもみなどということはなく、大きく旋回しながら落ちていき、この世の物とは思えない印象があったとのことでした。

米軍による無差別爆撃のことを想うたびに、私は「メンフィスベル」というアメリカ映画を想起せざるを得ません。



これは、ウィリアム・ワイラー監督による同名の記録映画を劇映画化したものですが、敵地の上空を飛びながら爆弾を落とす爆撃機の恐怖と緊迫感をサスペンスフルに描いた映画です。

この映画の中で、ドイツ軍の戦闘機工場を爆撃する目的で旋回しつつ、爆撃による煙などで視界不良となっていることから、工場の付近にある病院や小学校などを爆撃しないように注意を払う、という場面があります。
病院や学校を攻撃したくはない、という、実に人道的な行動で、そのために爆撃機は危機に陥ってしまう、という筋書き。

なんというご都合主義的かつ偽善的な描き方か、と、私はこの映画を観たときに憤りを禁じえませんでした。

いうまでもなく、米軍によって行われた絨緞爆撃は、その下に病院があろうが学校があろうが全く関係なく、むしろそうした場所には多くの人々が集まっているとばかりに集中的な攻撃をしてきたのではないか。
B29による絨緞爆撃のほか、P51などによる機銃掃射によって、「動くものはすべて標的」といった攻撃にさらされた当時の日本の庶民。
私の父母もそのときの恐怖を、常々語っておりました。

私は、毎年、三月くらいから、東京大空襲、沖縄の地上戦、日本各地に広がった空襲、広島・長崎への原爆投下、などへの想いを新たにしています。

こうした悲劇を招いた原因がどこにあるのか、そして、それでも(米国は)ここまでする必要があったのか、また、どさくさに紛れたこそ泥のような行為(ソ連による北方領土侵攻など)はどうなのか、考えてみても、なかなか納得はいきません。
ただ、忘れずにいたいなと、思うばかりです。

また、もう一つ忘れてはいけないことは、この 無差別爆撃の端緒を開いたのは日本軍による重慶爆撃であったということ。
大変嫌な言い方ですが「因果応報」という冷笑を浴びる虞もなしとしません。

このブログでは、こういうことを書かないように気を付けてきましたが、山の手空襲の記事を読み、つい愚痴をこぼしてしまいました。
いけませんね。
ちょっと反省しつつアップします。
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BS松竹東急 [映画]

今年のGWはお天気に恵まれ、新型コロナウィルス感染防止のための行動制限も解除されたことから、行楽地を中心に大変な人出となりました。
ニュースなどでは各地の高速道路の連日の大渋滞を繰り返し伝えておりました。

恥ずかしいことですがちょっと転倒して怪我をしたこともあって、連休は大人しく家で養生中です。
怪我をしたのが2日の晩でしたので、三連休中は病院にも行けず、6日に診察してもらったところ、残念なことに肋骨骨折との診断。
現役で山登りをしていた時には、結構この手の怪我はしていたので、恐らくやっちゃったんだろうなと思ってはいましたが、やはり無念でした。

尤も、私はこの三月末で、それまで勤務していた会社の雇用契約が終了し、現在ハロワに通う失業者となっておりますから、そもそも連休など何の関係もなかったのですが。

三月末に、衛星放送で「BS松竹東急」が開局されました。
松竹映画の名作などが放映され、私のようなオールド映画ファンにとっては大変うれしいチャンネルです。
このところテレビではほとんど放映されなくなった、野村芳太郎監督の「張込み」や山田洋二監督の「霧の旗」などが立て続けにラインナップされ、久しぶりに胸をときめかせながら観ました。



今年が没後三十年ということもあってか松本清張特集も組まれており、「張込み」や「霧の旗」に引き続き「わるいやつら」や「疑惑」も放映。
面白く観たところです。

「わるいやつら」は、片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)・藤田まこと・緒形拳・佐分利信といった実力派俳優を綺羅星のごとく集めた映画ですが、細部が詰め切れておらず散漫な印象が強く残る、野村芳太郎監督としては凡作の一つなのではないかとの感想をあらがえません。

それはともかく、片岡孝夫演ずる戸谷信一の情婦・寺島トヨの役を宮下順子が演じており、ちょっと時代を感じました。
宮下順子と云えば、私たちにとってはロマンポルノの女王としてゆるぎない地位を築いた類まれなる女優の一人です。
団地妻シリーズが有名ですが、私は、神代辰巳監督の「赫い髪の女」と田中登監督の「実録阿部定」がお気に入り。
何れも、ロマンポルノの枠組みを軽々と超越した名作だと思っています。
ご興味のある向きは是非とも一度ご鑑賞ください。



さて、医院を経営する戸谷信一は次から次へと女を誑し込んで金を巻き上げる悪徳医師であり、それ故にそうした女性たちとの情交のシーンが数多く出てきます。
その医院の看護師長であり情婦でもある寺島トヨとの間でももちろんそうした濃厚なシーンが展開されます。
そうした濡れ場のシーンで、宮下順子の裸の胸部がぼかされていました。
それ以前の、ナイトクラブのシーンで裸で踊る外人女性の胸部も同じくぼかされていましたので、あれ?と思ったのですが、私が映画館でこの映画を観た時にはそのような処置はされていなかったと記憶します。

なるほど、これは「BS松竹東急」の見識なのでしょう。
放送時間帯が20時前から、ということを鑑みれば、子供たちが観ることも当然ありうることですから。

この映画作品の性格上、情交シーンは不可欠なのでしょうが、そうしたシーンで女性の裸の胸部をさらけ出さなければならない必然性は果たしてあるのか。
先に取り上げたドライブ・マイ・カーでは、妻がニンフォマニアであるのかもしれないという疑いを視覚的に表す必要もあってそうしたシーンも登場しますが、裸体ではありつつも非常に抑制的だったと私は感じています。
ロマンポルノのように、それが基本的かつ重要な制作条件で一つの売り物となっている場合はいざ知らず、それが主たる目的ではない映画で、徒に女性が裸の胸部などあられもない姿を画面にさらす必要が果たしてあるのか。

溝口健二の「祇園囃子」という映画があります。
木暮実千代演ずる芸妓の美代春が、若尾文子演ずる舞妓の栄子(美代栄)を救うために、贔屓先企業の事業認可担当である役所の神崎課長に(それまで拒み続けてきた)身をゆだねるシーン。
神崎の寝ている寝室の隣部屋で着物を脱ぎ襦袢姿となった美代春は、そっと足袋を脱ぎます。
それだけのしぐさで全てを表した溝口監督の演出力に感嘆したことをふと思い返しました。
たまたま手元にその映画があったので改めて見返しましたが、今観ても切なさと哀れさのほかになんとも云えない艶を感じたものです。
意に沿わない相手の男に抱かれる理不尽さは、想像するに余りありますね。

そう、別に即物的な映像を見せつけられなくても、観客は流れの中でそうした行為も感じ取るものなのでしょう。

もちろん、女性にしても男性にしても、一糸まとわぬ姿にならなければ表現の核心に迫れない作品もあることは私も認めます。

しかし、そうした必然的な理由がないのであれば、表現者はもう少し観客の想像力を信ずるべきだとも思います。

因みに、「わるいやつら」の中での宮下順子以外の女優さんは、情交シーンでも彼女ほど「サービス(?)」はしておりません。
女優さんと監督の判断の問題なのでしょうが、そのあたりの差異を論ずるのは、これまたなかなかやっかいなものがありそうですね。

映画というものは一種のエンターテインメントですから、観客の興味を引くためにエロ・グロ・バイオレンスをふんだんに盛り込むという行き方も当然にあります。
ハリウッドなどでもそういう映画はたくさんありますし、もちろん邦画でも。
従って、最初からそれを当て込んだ映画製作も当然あってしかるべきでしょうし、そういう映画が大好きだという観客が存在する以上、商業映画としてはそれを無視するわけにはいきません。

ただ、映画というものを一つの表現芸術だと考えた場合、そうしたある意味あからさまな表現を用いることの必然性、そのことによって表現したいもっと奥深いものを観客に訴えかけるという目的、そうした表現者としての確固たる視点も求められるように思います(先にあげたロマンポルノの作品には、そうした視点がありました)。
「観客もそういうシーンを求めているから」というところに安直に寄りかかって映画作りをする、そういう姿勢がもしもあるとするのであれば、それは表現者として一種の限界に至っているのではないか。
私はそのように考えてしまいます。

もちろんこれは私の大いなる偏見ではありますが。
妄言多謝。
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映画界の性加害問題 [映画]

四月という時期にもよるのでしょうか、このところ天候が安定せず、気温の変化も大きくなっています。
どうも体調を崩しがちで、先日も大腸憩室炎が再発してしまい、早めに対処したので抗生物質の投薬だけで治りましたが、念のため大腸内視鏡検査を受けることにしています。
やはり年齢を重ねるとともに、あちこち体にガタが来てしまうようですね。
適切なメンテナンスが必要だなと、改めて痛感しているところです。

映画界の性加害に関し、地獄の釜の蓋が開いたような状況になっています。

水原希子が告白、新たに女優3人も告発…映画界の性加害者たちに共通する「悪辣手口」

この問題に関していえば、2007年に米国の性暴力被害者支援の草の根活動のスローガンとして提唱された「Me Too」運動が思い起こされます。
2017年、ハリウッドで「大物プロデューサーによる性加害」が被害女優によって告発された際、この運動が爆発的な広がりを見せたことは記憶に新しいところです。

もちろん日本でも例外ではなく、様々な局面や媒体で隠然と語られてきた話でしたから、恐らく早晩そうした問題が明るみ出ることだろうと思っておりました。
一世を風靡した女優の有馬稲子さんが、その著作の中である映画監督との不倫・堕胎で苦しんだことを告白しており、「あれほどの女優さんでも…」と慨嘆したことを思い起こします。

これに対して、是枝裕和監督を中心とした6名の映画監督有志が声明文を発表しました。

是枝裕和監督、俳優演出に関し持論つづる 背景には反対声明を出した映画監督ハラスメント問題

「特に映画監督は個々の能力や性格に関わらず、他者を演出するという性質上、そこには潜在的な暴力性を孕み、強い権力を背景にした加害を容易に可能にする立場にあることを強く自覚しなくてはなりません。だからこそ、映画監督はその暴力性を常に意識し、俳優やスタッフに対し最大限の配慮をし、抑制しなくてはならず、その地位を濫用し、他者を不当にコントロールすべきではありません。ましてや性加害は断じてあってはならないことです」

全く仰る通りと思いますし、これが当の監督さんたちの集まりの中から発せられたことは大変有意義なことだと思います。
完全な形で改善されていくのかどうかはかなり難しいものと思われますが、恐らくこれからもこうした声は続々と上がってくることでしょう。
脛に傷を持つ人たちは、もしかすると戦々恐々としているのかもしません。

ところで、私はこのことに関して、個人的にある疑問を感じています。
映画監督は、いわば己の表現世界を映像と音響のもとに具現化させることを目指すアーティストなのであり、そのためにはその作品に関し、そのすべてを俯瞰し透徹した目で精査することが求められているのではないかと考えます。
それにもかかわらず、もしも仮に、その中の特定の演技者に肩入れするようなことがあれば、その段階で表現者としては失格なのではないか。
これに関し、私は次のような森谷司郎監督(故人)の言葉を思い起こします。
(監督デビュー作である「ゼロ・ファイター/大空中戦」を撮影していたとき)八丈島でロケーションをしたんだけれど、その中に、加山雄三の隊長が、飛行機で基地に飛んでくるのを、八人の航空隊員が待っている、というシーンがあった。

──中略──

その八カット目を撮っていたときに、撮っているぼくには、そのシーンに出てる人間八人の内の一人しか、見えなくなってしまったのね。「こりゃ、いかん」と思いましたね。つまり監督というのは、ある画面の中に八人の人間が入っているとしたら、その八人の総体を見てなきゃ、いけないわけだよね。

そのため、森谷監督は「今までのカットは全部リテークする。これは自分のミスだ」とみんなに頭を下げて全カットを撮り直しました。
新人監督ではありましたが、それまで黒澤明監督の下でチーフ助監督を務めるなどの実績を積んできていたわけで、周りからの反発や冷笑を一斉に浴びることになったそうです。
それでも「なんでもいい、もう一回やらせてくれ」と言ったことで、その後が変わったとのこと。
もし、あの時、そのまま撮り進んでいたら、その後のぼくの映画作りは、かなり駄目だったんじゃないか、というね、気持はあるな。
(出典:白井佳夫著「監督の椅子」)

森谷監督の言葉にもあるように、一つの作品の制作に取り組んでいる時の監督の立場は非常に厳しいものが要求され、俳優はもとより、スタッフ全般、ロケ地の天候など、様々な事象に対して細心の注意を払わなければなりません。
特定の俳優にちょっかいを出して、それで作品をまともなものに仕上げることなど、果たしてできるのでしょうか。

現在告発されている監督たちは、ある方面ではそれなりの評価をされているようですが、実は私はいずれも未見です。
そして、この問題が起きたことから、さらに彼らの作品を観たいという気持ちが失せました。
これはあくまでも独断と偏見による思い込みではありますが、恐らくそこにはかなり粗雑なものを感ずることになると思われますので。

なお、こうした性加害に関することは、啻に映画界のみならず、音楽でも演劇でも絵画でもスポーツでも起きています。
それらについて書き始めると際限がなくなりますので、今回はここで収めたいと思います。

いずれにしても、指導・監督するなどの絶対的な立場にいる人間が、それを受ける立場の人に対して強権的にふるまう。
そうしたことが当然のように繰り返されていることに、私たちは問題意識を持ちきちんと目を向けねばならないと考えます。

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ドライブ・マイ・カー [映画]

ソメイヨシノが満開となり、散り始めています。
今シーズンの寒さは格別でしたが、寒波が収まってからは急速に気温が上がり、開花はむしろ早まったくらいという気がしますね。

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が、カンヌ国際映画祭の脚本賞・国際映画批評家連盟賞、ゴールデングローブ賞の非英語映画賞などの受賞に続いて、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞しました。



先日、ウォーキングのついでにツタヤに立ち寄ったところ(シン・エヴァンゲリオンリピートがDVD化されていないかな、と思って)、この映画のDVDがリリースされていたので、早速借りてきて鑑賞。

大変評判になっている映画でしたので、胸を躍らせながら観たのですが、予想にたがわぬ素晴らしい作品でした。

「サーブ900ターボ」が重要なアイテムになっていることから、一種のロードムービーということもいえましょうが、その意味からすれば、人の深層心理をたどる旅、という点にこそ着目すべきと感じます。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の舞台演出が物語の中心に据えられ、その劇中劇における「そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。」というソーニャのセリフ(この映画では手話)に収斂されていく。

悲しみや苦しみや辛い想いを心の中に押しとどめて生きていこうとする人々が、最後にその桎梏から解放されることによって大きく深い癒しと魂の救済に到達する。

非常に壮大な魂の旅路を描いた映画だと、私は感じました。

西島秀俊が演ずる家福悠介の心の痛みや苦しみ。
それは共に深く愛し合っていると信じていた妻がほかの男と激しく抱き合っている姿を偶然見てしまったことから始まります(妻は夫にその様子を見られたことに気づいていないと思われる)。
悠介は深く傷つきますが、それを妻に話すことはできない。なぜなら、それをすれば二人のこれまでの「幸せで満ち足りた」関係を壊すことにつながるから。
つまりこれは現実逃避であり、カタストロフを見たくない気持ちから出ているのでしょう。
ある日、妻が改まった口調で「あなたの帰宅後に話す時間をとってほしい」と夫に告げます。
夫はその言葉に怯えたかのように深夜に帰宅すると、妻はくも膜下出血で倒れておりそのまま帰らぬ人となりました。
その妻と深い関係にあった一人ではないかと悠介が疑っている高槻耕史(岡田将生が好演)が狂言回しのような役どころで、悠介の知らなかった妻の想いの一部分を彼に語ります(サーブ900ターボの車内でのことですから運転手の渡利みさきも聞いている)。
悠介は、自分の全く知らない妻の中にある深い闇にたじろぎ、さらなる深淵に叩き込まれる。
高槻はそんな悠介を見据えながら、それでも皆を取り巻くこの世界は表面上まったく変りなく平穏に過ぎていくように見える、しかし、内面は既に禍々しい何かに代わってしまっている、と語ります。

一方、サーブ900ターボの運転手である渡利みさき(三浦透子がこれまた好演)にも、胸に秘めた暗い過去があり、悠介とともに向かう彼女の郷里への車中旅の中でそれも明かされます。

こうしたテーマが進展していく中で、多国籍の俳優による「ワーニャ伯父さん」の公演に向けたやり取りが挟まれ、それが不思議な連携をしつつラストに向かいます。

感動したところがあまりに多く、ネタバレにつながってしまう虞が大きいため、内容についてはこの程度で止めておきましょう。

いずれにしても、非常に優れた脚本であり、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しアカデミー賞でもそれにノミネートされた理由は誠に納得のいくものでした。

それから、映像、特に色彩の美しさには目を奪われます。
悠介の愛車「サーブ900ターボ」は赤で、これに対比させる色の使い方が素晴らしい。
接触事故を起こしたときの相手の車は紺色で、その二台を真上から撮っているシーンは配置も含めてハッとさせられるほど美しいものでした。
トンネルの内部は、私も時折運転するたびに、ああ、美しいな、と感ずることがあるのですが、このトンネルを車で走り抜けるシーンの美しさも印象に残ります。
そして、倒壊したみさきの実家の残骸を前に佇んで抱擁する二人を包み込むように、それまで冬の曇天だった空から陽射しが舞い降りてあたりを柔らかな黄金色に変えていくシーン、停車していたサーブも同じように光に包まれていく、ここは正に息を飲むような美しさです。

さらに、音楽も含めた音響効果も特筆すべき高いレベルにありました。
特に音楽の用い方は非常に抑制的で、それ故に効果も抜群です。
また、例えばモーツァルトのロンド・ニ長調やベートーヴェンの弦楽四重奏曲などの用いられ方にも見られるように、大変細やかな音響設定がなされています。

今の日本でも、このように丁寧に作られる映画があり、それがきちんと評価されていること。
そのことに満腔の喜びを感じております。
細部にわたっても大変丁寧に作られており、例えば、みさきの郷里である北海道の積雪を考慮して、途中のコメリで長靴を買ったり、車で通過したところに花を売る産地あったのに気付いてバックし、花束を買う、などという細かな描写もきちんとインサートされています。

このブログでも再三再四書いてきたことですが、私は、人が百人いれば百の思想があり百の偏見がある、と思っています。
つまり、人の数だけその人にとっての真実があるわけであり、他の人がそれの全てを知ることは完全なる不可能事。良くて一部に同調するとか理解はできる部分がある、というところが関の山でしょう。
それどころか、自分の深層心理さえも、状況によっては自分自身で把握することが難しいのではないか。
この映画の中では、解離性同一性障害を暗示する部分があります(みさきの母もそうであった可能性が高い)。
妻の「不貞」を許すことができずにそれによる苦しみに呻吟する悠介にみさきが問いかけます。
夫を深く愛している奥さんも、夫の他に男を求めてやまない奥さんも、両方とも奥さんなのであり、奥さんとしてはそこに何らの嘘も矛盾もない、そういう人だったということを認めてあげることはできないのですか、と。
これにはさすがにうならされました。
悠介は妻一筋で、妻だけを深く愛しており、他の女の人と関係をもつなどということは考えられなかったわけですが、恐らく知らず知らずのうちにそれを妻にまで求めていた、ということなのでしょう。
そのことで彼は深く傷つき苦しんだ。
その気持ちを正直に妻にぶつけるべきだった。
それによって寛解できるわだかまりもあったのかもしれない、ということなのかもしれません。

深く感動しつつも、やはり考え込んでしまいました。
もしも自分だったどうだろうか、そう問いかけることも含めて、この映画は様々なことを考えさせてくれます。

観返せば観返すほどに、また新たな想いが沸き起こる。
久々に接した、そういう映画であったことをうれしく思っています。
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天井桟敷の人々、4K修復版 [映画]

新型コロナウィルス・オミクロン株の脅威はとどまるところを知らず、未曽有の感染者を出しております。
デルタ株などに比べ重症化率は低い、などと言われていましたが、高齢感染者が増大するにつれて亡くなる方も増えてきたとのことです。
しかもたちの悪いことに若年層ことに子供たちへの感染が広がっていて、予断を許しません。
有効といわれている対策の一つとされるワクチンのブースター接種もなかなか進んでおらず、結局、現状では個人個人がこれまで有効とされてきた感染対策に努めるほかはないようですね。

そんな状況の中、北京冬季五輪が始まりました。
新疆ウィグル自治区の人権侵害問題もあり、とかくの批判もある中での開催。
まあ、私としてはこれまでも何度も書いてきたように、こうしたスポーツイベントには全く興味はありませんので、ある意味白けた目線で眺めざるを得ないのですが、予想通りテレビなどがこれ一色になるのは実に度し難いことです。

そんなわけで、これまで録り貯めてきた映画のビデオを観ることにしましょう。

先日、NHKBSプレミアムで「天井桟敷の人々」の4K修復版が放映されました。
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この映画を最初に観たのはもう40年位前のことですが、深く感動し、その後も何度も観返しています。
そしてその都度新しい発見があるのですが、今回もやはり同じくありました。
これは誠に迂闊な事でしたが、ジョセフ・コスマによる音楽でオーケストラを指揮していたのはシャルル・ミュンシュであったことを初めて知ったのです。
クレジットにしっかりと載っていたのに、なぜこれまで気づかなかったのか。
当時、彼はパリ音楽院管弦楽団の指揮者であったはずですから、恐らくこの演奏もそのコンビなのでしょう。
いずれにしても、あの流麗で美しいメインテーマの印象がさらに強く私の心に刻まれたことに変わりはありません。
そう思って聴き返すと、感動がまた新たになりますね。

この映画の公開は1945年ですが、撮影・制作には三年三月かかっており(費用は16億円かかったそうです)ますから、ナチス占領下(ヴィシー政権)のパリで作られています。
非常に有名な映画ですから、恐らく内容をご存知の方は多いことでしょう。
当時の抑圧体制の中で、時局に全くおもねることなくこのような映画を作ったマルセル・カルネ監督。
ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャン・ルノワールといった当時のフランス映画界の監督たちのほとんどが米国などに亡命していた中で、彼はパリにとどまり、映画を製作することによって反ファシズムを貫いたわけです。
そういえば、ミュンシュもパリにとどまって指揮者を続けていたのですね。

こういう非時局的な映画にしぶとくかかりきりだったマルセル・カルネのレジスタンスは、芸術家としてこれ以上もない熱い行動であり、心の底からの尊敬を禁じえません。

さて、4K修復版ということで、細部に至るまで実に念入りで丁寧な補修がなされいます。
ガランスがバチストを評して「目がきれい」とつぶやく、そのバチストの目の輝きが、この修復によってより鮮やかに浮かび上がってきていたりします。
「白」が基調となる作品なのですが、この修復版でその微妙なコントラストもくっきりと蘇っております。
技術の進展は誠に素晴らしいものだなと改めて感心しました。

主な登場人物にはほとんどモデルが存在し、主役のパチスト、俳優のルメートル、劇作家・詩人でかつ犯罪者でもあるラスネールなどは実在の人物とされております。
ガランスを演じたアルレッティを含め、いずれも素晴らしい演技を見せてくれますが、やはりバチストを演じたジャン=ルイ・バローの存在感と美しさには胸をうたれます。

彼のパントマイム。

ルメートルが感に堪えたように「君のマイムは言葉を超えて観る人の目に突き刺さる」とつぶやく気持ちが、映画を観ている私たちにも伝わってくるようです。
マイケル・ジャクソンで有名になったムーン・ウォーク、これをバローはいとも自然にこなしていますが、このような些細な部分からもその確かな演技力に瞠目させられます。

バローは、1960年の初めての来日の際に華の会の能を鑑賞しました。
その折の演目で、観世寿夫の演ずる「半蔀」に接し、「死ぬほど感動した」と感想を述べています。
「能の静止は息づいている」という彼の秀句が残されていますが、さすがに一流の舞台人の言葉だなと、その能の本質を見抜いた慧眼には感嘆を禁じえません。

「半蔀」は、私も何度も観たことがありますが、源氏物語の「夕顔」を題材にとっており、光源氏と夕顔の上との間の短くも情熱的な恋の物語です。
前場の前シテはゆったりと歩いたり回ったりするくらいで、ほとんど動きはなくじっと舞台の上で囃子や地謡からの圧力に耐えながら静止しています。
後場では後シテによる舞が見られますが、これも激しい動きはなく優美でむしろ静寂さを感じさせるもの。
光源氏の詠んだ歌「折りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見えし花の夕顔」を語りつつ昔の恋を懐かしみながら舞う姿は、観る者の心の中に静とした感動を与えます。

能の重要な構成要素として「クセ」があり、これは言うまでもなく「曲舞(くせまい)」から観阿弥が確立させたものです。
クセには「舞グセ」と「居グセ」があって、後者は、舞うという身体的表現を凝縮し集約して型を捨て去り、演者の心の中で昇華させた表現ともいえるのでしょう。動かずにいながら表現するということの困難さは想像を絶するものがあります。

華の会では、桜間龍馬(当時、後の桜間金太郎)が「熊坂」を舞いました。
これは、大盗賊熊坂長範の亡霊が薙刀を手に舞台狭しと飛び跳ね回る、非常に激しい演目です。
その意味では先に挙げた「半蔀」の対極にあるものともいえましょう。
しかし、この「熊坂」の中にも、薙刀を立てたままじっと動かずにいる表現もあり、それゆえに爆発的な舞が却って印象付けられるような気もします。

バローは、この二つの対極的な演技が同一の訓練体系のもとに確立されたものであることに、特に注目したそうです。
じっと動かずにいる表現は、どれほどにでも動きうる役者によってのみ演ずることができるということを、さすがにフランス演劇界きっての名優である彼は見抜いていたのでしょう。

このバローの感動は、のちにフランス政府招聘の芸術留学生制度を生むきっかけともなったとのこと(因みに観世寿夫は1962年にこの留学生として渡仏しバローの教えを受けています)。
実に感慨深いことではないでしょうか。

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赤狩り [映画]

お彼岸となりましたが、真夏のような暑さとなっています。
8月には、晩秋を思わせるような寒さがあったことを思うと、なんとも不可解なお天気が続きます。
9月7日には富士山に初冠雪があったとの驚天動地的な報道がありましたが、さすがにこれは取り消されたもようです
体調管理にはくれぐれも気を付けたいものです。

山本おさむさんが渾身の力を込めて描いた「赤狩り」が完結し、単行本10巻もこのほど全巻が揃いました。



私は第1巻から読み始め、新刊が出るたびに順次購入して読んできましたが、このほど第10巻を読み終えて、感動を新たにしているところです。

この作品は、「ローマの休日」「スパルタカス」「栄光への脱出」「いそしぎ」「パピヨン」などの名作・話題作の脚本を担当し、「ジョニーは戦場へ行った」を監督(原作・脚本も自身)したドルトン・トランボを主役として、1950年代を中心にハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」を克明に描いたものです。
因みに、HUAC(House Committee on Un-American Activities=下院非米活動委員会)の活動の一環として取り調べを受け、召喚や証言拒否などを理由に刑務所に収監された映画関係者のことをハリウッド・テンといいますが、トランボはその中の一人です。

山本さんは、このトランボがHUACに召喚され、法廷侮辱罪で刑務所に収監されてから、様々な辛酸を舐めつくしつつ脚本家としての使命・矜持を貫き通し、その生涯を全うしたことを克明に描こうとしました。
しかし、ご自身もその過程で言及されているように、トランボのみの軌跡を追うだけではすまされなくなり、原爆、スパイ・諜報活動、冷戦、キューバ危機、公民権運動、ケネディ大統領・キング牧師・ケネディ上院議員暗殺、ベトナム戦争といった、米国の暗黒歴史にまで踏み込むこととなったのです。
それ故にこの作品は、啻に映画ファンのみならず世界を揺るがした時代の背景に興味を持つ人にも訴えかける力を有しているものと考えます。

私自身、先ほど記載した出来事のアウトラインは辛うじて承知していましたが、細部における様々な背景についてはこの作品によって目を開かれた感がありました。

一番大きかったのは、もちろん漠然とは感じておりましたが、理想としての社会主義・共産主義と、それを国家の形で体現したとするソ連や中国・北朝鮮などの諸国の現実的な体制との間の、絶望的なまでの乖離と欺瞞です。

私が中学生や高校生だったころ、70年安保の嵐が吹き荒れ、学生運動の盛り上がりは年端もいかない中高生ですら強烈な刺激を受けました。
働く者の権利を第一とし、労働者から搾取した金で潤っている資産家や資本家からそれを吐き出させ、貧富の差を無くし万人が平等に富を分かち合う世界。
そんな理想郷を子供ながらに思い描いていたことを思い出します。
この本の中でもかなり克明に描かれていますが、ローゼンバーグ夫妻のスパイ容疑と死刑の執行に関しても、当時は冤罪であると固く信じ、サッコ・ヴァンゼッティ事件と同様の偏見と敵意に基づいた唾棄すべき事件と考えていました。
しかし、米ソ冷戦終結後に漸次明らかとなってきたヴェノナ・プロジェクト及びヴェノナ文書により、夫妻が実際にスパイ行為をを働いていたことが裏付けられ、それを知った当時、やはり私はかなりの衝撃を受けたものです。

結局、共産主義・社会主義であれ資本主義であれ民主主義であれ、権力を握ったものはそれに執着しさらに強大なものにしようとする。
しかも、それを成し遂げさせるため陰で陰謀を巡らせた者どもは、それをネタに権力の座にある者を自在に操ろうとする。
その動きや流れの中にある限り、時の権力者や陰謀を巡らす人間・組織は肥え太りますます権力や富を強大化していく。

やりきれない話ですが、その理想に感化を受けラポールした人間は、その理想を実現するためとあらば一点の疑問を挟むことなく、その道をまい進する。
恐らくローゼンバーグ夫妻も、原爆に関する資料をソ連に流すことで米国一強による覇権主義を防ぐことができると本気で信じ込んでいたのでしょう。

このほか、モンゴメリー・バス・ボイコット事件やその後に続く公民権運動の盛り上がり、もともと反共でマフィアとのつながりもあったケネディが大統領就任を機にリベラルへと変わり世界の平和と安定を模索するようになる経緯、などなどが膨大な資料に基づき丹念に描写されております。

もちろん、主人公たるトランボを巡るドラマも感動的に描かれ、私は各巻を読みながらその都度涙にくれたものです。
それらをいちいち書き留めることはやめますが、例えば次のような場面。

トランボが法廷侮辱罪で刑務所に収監されたことから、子供たちは様々ないじめに遭い、そのことで子供たちはトランボを責める。
その子供たちに、目を真っ赤にしながらかけたトランボの言葉。
君たちに誓って言う。パパは悪い事は何もしていない。
君たちに対して恥ずべきことは断じてしていない。
パパはごく平凡な人間だ。何か変わった特別な信念があるわけじゃない。
一生懸命仕事をし、人を裏切らず、人間として為すべきことを為し…そして何よりも、君たちから愛される人間でありたいと思っている。それに値する人間でありたいと思っている。
君たちが成長し、結婚し、子供を持ち…その時、パパは死んでるかもしれないが…パパをフッと思い出してくれた時、そのことを理解してもらえれば、とても嬉しい。
それだけなんだよ…本当に…ただそれだけなんだ。

トランボが家族を非常に大切にしていたことは事実ですから、このくだりはとりわけ胸にしみました。

さて、この調子で内容を開陳することはさすがに避けたいと思いますが、トランボ監督の映画「ジョニーは戦場へ行った」に関しては少しだけ触れることに致します。


1971年の映画ですが、原作である「ジョニーは銃をとった」は1939年にトランボによって書かれ出版されています。
原作は第一次世界大戦を背景としていますが、出版当時は第二次世界大戦勃発時であり、戦争の激化によって絶版(事実上の発禁)。
その後も、朝鮮戦争など、米国がかかわった戦争の勃発などに影響され、その都度、復刊・絶版が繰り返されたいわくつきの「反戦小説」です。
第一次世界大戦で志願兵となったジョーは、塹壕の中で砲撃に遭い、目・鼻・口・耳を失い運び込まれた病院で両手・両足を切断されてしまいます。
医者たちは、延髄と小脳くらいしか機能していないと判断し、意識も感覚もないただの肉塊だと判断。
研究材料として生かす方針とします。
しかし、ジョーには意識が存在した…。

この映画はあまりにも有名なので、恐らく多くの方はその内容をご存知のことと思います。
私も久しぶりに観返しましたが、カラーの回想シーンの美しさがひときわ印象的で、モノクロによる病室の陰惨さとの間でのギャップを否応なく感じさせました。
カテゴリーとしては「ヒューマン」ということになるそうですが、戦争の悲惨さと、ひときわ重い厭世観に引き込まれます。
特にジョーが訴えかける次の言葉(モールス信号による)は極めて重い。
僕を見世物にしろ
海水浴場やお祭りや独立記念日に巡回しろ
宣伝するんだ「頭で話をする肉の塊」だと、君たちが宣伝するんだ、僕を作ったのは君たちなんだから
戦争には兵士が必要で、軍は僕のような人間も作るんだと…

この映画をトランボは大変な苦労を重ねて撮り上げます。
そして、同年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞し、欧州や日本ではヒットしますが、当の米国では泥沼のようなベトナム戦争のさなかであったこともあり全く受け入れられなかったそうです。

さて、第10巻に次のような描写があります。
陰謀家が忌み嫌うものは“平和”だ。富を生み続ける“冷戦”を手放すわけにはいかない。
若い兵士に血を流させ、途上国の罪なき農民を踏みにじり、蛭のように民主主義の裏に吸い付いて血を吸い、陰で政治を私物化しながら、国民にはゆがんだ忠誠心と愛国心を喧伝する。
共産主義への憎悪、つまり赤狩りとは…そのような冷戦を維持するための装置なのだ。


これは今に至るまで延々と繰り返されており、例えばミャンマーでの軍によるクーデターも全く同じような構造からきているのだと言われています。
軍産複合体は、戦争がなくなってしまえば利益を得る術を失うわけですから、自分に火の粉が降りかからない地点にいて紛争を煽り立てる。そういう体制を維持しようとする。
そしてその際には、民衆に対して愛国心をあおり、仮想であれ何であれ敵を見繕って攻撃することを煽動する。
あおられた民衆は民衆同士で互いに牽制・監視しあい、密告や排外的な行動に走っていくことになるのでしょう。

もちろん日本も例外とは言えません。
五味川純平の小説「御前会議」の最後は次のような文章で締めくくられています。
国家の名において民族的野望を遂げるべく戦争を企てた者、それを許可した者、それを支持した者は、裁かれたと否とにかかわりなく、邪悪を犯した事実から逃れることは出来ない。
まことに、愛国心とは、あまりに屡々、邪悪の隠れ蓑なのであった。



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劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 [映画]

活発化した秋雨前線の影響で、日本列島は大雨の被害に見舞われています。
新型コロナの感染爆発とも相俟って、何とも重苦しい日々が続くこととなりました。

8月13日、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のビデオレンタルが開始。
気になっていた映画でもありましたから、早速、借りてきて視聴しました。

夏休みの時期でもありましたから、近所のツタヤの営業が始まる頃に合わせて出向いたのですが、大量の在庫が確保されていたのにも関わらず、既にかなりの本数が貸し出されていました。
因みに、本日、返却に出向くと、一本だけがレンタル可能として残っているような状況で、想像以上の人気のようです。

なお、今回このビデオをレンタルすると、こんな団扇がおまけとしてついてきます。

kimetu.jpg

「日輪刀診断」ができるとのことなので、早速挑戦。
私の場合は「獣の呼吸」つまり嘴平伊之助で、少しがっかりしてしまいました(汗)

この映画は、興行収入において400億円を超え、観客動員数でも2900万人を超えて、それまで20年以上にわたって首位であった「千と千尋の神隠し」の記録を塗り替えたことでも話題となっています。
新型コロナウィルスの蔓延という、映画館にとっては非常に由々しき環境の中での記録ですから、やはり驚くべきものがありますね。

私は臆病者ですので、そんな状況下、さすがに映画館に足を運ぶ気にはなれませんでした。

しかし、このビデオを観て、これはやはり一度、映画館で観るべきだったなと感じております。
音楽を担当したのは椎名豪さんですが、彼は、楽曲のみならず効果音の使い方や、それの劇場における再生の仕方(スピーカの位置やそのスピーカーで鳴らす楽器の音なども含めて)に至るまで、担当スタッフと綿密に打ち合わせを行ったとのこと。
ライトモチーフのような使い方も随所に見られ、映画館のような映像・音響空間でこれに接したとすれば、相当に興奮したことは間違いないことでしょう。
自宅のテレビでは、残念ながらその片鱗すらもうかがい知ることはできません。

劇場アニメ化するにあたって、入り組んだ背景などもかなり分かりやすく表現することに努めているように感ぜられたので、コミックを読んでいない観客(前提知識を持たない人たち)にも、この物語の感動的な内容はきっと伝わったことでしょう。
以前の記事にも書きましたが、ufotableはこの原作に相当入れ込んで制作しているのだなということが感ぜられ、コミックを読んで、その中で想像をたくましくした場面(鬼との格闘場面など)が、驚くべき精緻さと迫力を以て画面に展開されていく様には驚嘆せずにはおられませんでした。

この作品(コミック)、本編での展開を出来る限りスムーズにものにするため、説明が必要な部分を本編以外の「大正コソコソ話」や少し長めのテキストなどで補完しています。
作者である吾峠呼世晴さんは、作家的な観点からこのコミックを書いており、漫画のみではなくそこに至る背景もきちんと描きたいという想いを大切にしているのではないかと考えます。
その意味では、全てを映像によって表現しなければならないアニメの世界との間での制約がどうしても存在し、その点での不足はあるように感じました。
(これは、手塚治虫さんの「火の鳥」などとも共通するものがあるのかもしれません。「火の鳥」も実写やアニメで何度か映画化されましたが、やはり原作では漫画に付随された丁寧なテキストが非常に重要な位置を占めていて、それを的確に映像表現できなかったこともあり、どれもとても原作には及ばない出来でしたから。)

例えば、魘夢が自らの血をしみこませた切符と縄によって深い眠りに落とし込んだ鬼殺隊のメンバーを覚醒させたのは、禰豆子が爆血によってそれらを燃やしたから、という説明が本編以外で(本編に入らなくてごめんなさいという作者の断りとともに)書かれているのですが、映画の方では、善逸たちに火を放つ、という形での表現にとどまる部分など。
それから、炭治郎の無意識領域の美しさ、コミックを読んで私はきっとウユニ塩湖のような景色なのだろうなと想像しておりましたが、映画の方でも正しくそのような世界で描かれています。
炭治郎の「精神の核」を破壊しようとした結核の青年は、そのあまりの美しさと温かさ、そして、炭治郎の心を映し出したような光の小人の存在に感動し、優しかった自分自身を取り戻すのですが、現実に引き戻される折に、その光の小人の一人をつかんで自分の心の中に移し込む。
ここの下りはコミックを読んでいる中でも感動的な場面でしたが、映画では具体的に表現されていませんでした。

そういった細かな気になる点はありましたが、先にも書きましたように全体としては原作の世界を忠実に描こうとした意欲は伝わってきます。

多くの観客が涙したという杏寿郎の最期。
私は、コミックを読んだときに、あの何とも言えない美しい笑顔に言葉を失いボロ泣きしてしまったので、そこは想いを同じうします(コミックでは、ページをめくった最初のコマがそれでした)。
映画では、その後に静かに逝ってしまう杏寿郎の満足げな表情、さらに彼の訃報を伝える鎹鴉の目に浮かぶ涙が付け加えられ、これにはうならされました。

さて、アニメの世界では、もう一つ「シン・エヴァンゲリオン劇場版(リピート記号)」がやはり大評判となっています。
様々な解釈を生んだ同作の、庵野監督による完結編であり、劇場での上映は終了しましたが、Amazonプライムでの放映が開始されたようですね。

「エヴァ」は多くの視聴者や観客などに大きな影響を与え、ことに漫画家とかアニメーション作家が受けた影響は計り知れないものがあると思います。
私の勝手な解釈ではありますが「鬼滅の刃」でも、それは随所に見られるような気がしており、この「無限列車編」でも、「それを壊すと廃人になる」といわれた精神の核が、使徒の急所である「コア」と似ているように感じました。それを守っている「A.T.フィールド」を切り裂く(破壊する)必要があることも含めて。
もっと大きな視点でいえば、人類補完計画の為に知恵の実と生命の実を取り込んで「神」になろうとする碇ゲンドウは、太陽を克服し永遠の存在を希求した鬼舞辻無惨(自分では果たせず炭治郎に託す)に、それにとりこまれる寸前でそれを阻止することになる碇シンジは炭治郎に、私の中では重なって見えてしまうのです。

などとつらつら述べてきましたが、以前も書きましたように、アニメやコミックは時として非常に深い世界観を表出しております。
そうした世界を創出してきた作者たちに、改めて満腔の敬意を払いたいと思います。

最後に、どうでもいいことではありますが、一点だけ。

テレビでも放映された「那田蜘蛛山編」で、兄鬼に蜘蛛にされかかった善逸に兄鬼が示す懐中時計の秒針の動きがクオーツのそれでした。
いうまでもないことですが、大正時代にクオーツは存在しません。
従って、秒針の動きは機械式時計のそれのように、発条の動きに合わせてチッチッチッチと細かく刻まれるはずです。
大正時代の世情などを相当程度丹念に描いていたのにもかかわらず、この点はかなり迂闊だったのではないかと残念に思いました。
些細な事ではありますが。

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映画「新聞記者」 [映画]

桜の季節となりました。
このところ週末になると春の嵐が吹き荒れ、先週開花した桜の花もどうかな、と心配しておりましたが、さすがに咲き始めの桜の花は強いものがあり、大丈夫でしたね。
sakura2021.JPG
連れ合いが亡くなって三回目の春を迎えますが、やはりなかなか花見をしよう、などという気持ちにはなりません。
近所の公園の桜は結構見事な花をつけるため、それが気に入って連れ合いはここに住もうと提案してくれました。
それから毎年、この時期になると花見に出かけていたので、どうしてもそうしたことを思い出してしまいます。
毎日出社していた時にはさほど感じておりませんでしたが、在宅ワークが主体となると、そんなことが頭をよぎってしまいます。
緊急事態宣言は解除されたものの、花見の宴会などは自粛してほしいという要請もあるようで、今の私としてはそのほうがありがたいように感じてしまいます。

と、なんだか湿っぽい話になってしまいました。妄言多謝。

先日、第44回日本アカデミー賞の授賞式の模様が放映されました。
今回のプレゼンターは、松坂桃李さんとシム・ウンギョンさんで、ちょっと胸に迫るものがありました。
いうまでもなく、昨年の日本アカデミー賞で、それぞれ、主演男優賞・主演女優賞の最優秀賞を受賞されたお二人だったからです。
その作品であった「新聞記者」は、そのほかに最優秀作品賞・優秀監督賞・優秀脚本賞・優秀編集賞をしており、毎日映画コンクールにおいても日本映画優秀賞と女優主演賞を受賞しています。
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この映画が公開された頃、私は連れ合いを亡くして間もない時でもありましたから、映画館に出かけようという前向きな気持ちにはなかなかなれませんでした。
しかし、この映画が製作された過程や、それに携わった人たちの苦難・葛藤を知り、また、この映画自体の持つ力に惹かれ、重い腰を上げました。
2時間足らずの上映時間の間、まさに身じろぎもせずに見入ったことを思い出します。
以前であればおそらくそのまま立て続けに三回は連続して観たと思いますが、現在の映画館では上映ごとに入れ替えとなっているので、さすがにそれはできませんでした。
というのも、この映画は、繰り返し観たくなる魅力を備えていたからです。

そんなわけで、DVDの発売を待って速攻で買い求めました。
以来何度も観ていますが、その都度新しい発見があります。そういう面白さを持った稀有の作品なのではないでしょうか。

モリカケ疑惑とそれにかかわる近畿財務局の赤木俊夫さんの自殺、前川喜平文科次官の更迭と出会い系バー問題、伊藤詩織さんへのレイプ事件と刑事告訴の不起訴処分など、ほぼ同時代に勃発していた当時のアベ政権下での出来事を、微妙に設定を変えつつも再現し、それらの裏側で内閣情報調査室が暗躍していた、ということを東都新聞社会部の若手女性記者・吉岡エリカが調査と取材を重ねて記事にしていくという展開。
対象となったアベ政権下では、首相の意向を第一とする官邸が様々な政策を主導し、その一環として人事権を握られていた霞が関の官僚は唯々諾々として官邸の方針に従う。
流行語にもなった「忖度政治」ですね。
さらに内調は、ネットや官邸の息のかかった報道機関にフェイク情報を意図的に流し、世論を捻じ曲げていく。
公文書偽造の責任を取らされ自殺に追い込まれた先輩は、畢竟そうした「内調」の犠牲者だったのではないかと義憤にかられた外務省から内調に出向している杉原が、その吉岡とタッグを組む形で事実の公表に力を貸そうとします。

などなど、またまた書きすぎてしまう虞がありますので、ここまでにいたしますが、こうしたストーリー展開から想像されるような、いわゆるコテコテの社会派映画ではなく、この映画はあくまでも優れたエンターテインメント作品であるところが多くの観客を引き付けた所以でしょう。

先に書いたような、官邸や内閣情報調査室の動きは、おそらくほとんどの人たちが気付いていること。
しかし、それをあくまでもフィクションとして扱い、一流の娯楽作品に仕上げた藤井監督の手腕には脱帽せざるを得ません。

それともう一つ、いくらフィクションであるとはいえ、官邸やそれに同調するマスコミに対して挑戦状をたたきつけるようなこの映画に出演した俳優の皆さんの意気にも感じ入ってしまいました。
主演を務めたお二人の覚悟は次のようなものであったそうです。

シム・ウンギョン&松坂桃李、衝撃作『新聞記者』に挑む覚悟

お二人がなみなみならぬ想いでこの撮影に臨んでおられたことがひしひしと伝わってきますね。
吉岡役は、当初日本人女優を考えていたのだそうですが、引き受け手がなくシム・ウンギョンさんになったとのこと。
なんだかなあ、と思いましたが、結果的にはシム・ウンギョンさんで大正解だったと思います。
私自身、この作品を観てから彼女のファンになってしまい、先日までテレビ東京で放映されていたドラマ「アノニマス」にも出演されていたので、毎週欠かさず観てしまいました。
そういう状況の中で杉原役を引き受けた松坂桃李さんにも、天晴と満腔の拍手を送りたいと思います。

それから音楽が大変すばらしかった。
岩代太郎さんはこれまでにも数々の映画音楽を担当されましたが、この映画の、抑制された中にも緊迫感を盛り上げる表現の仕方は目を見張るものを感じました。
必要なシーンに必要な音を入れる。
当たり前のことのようですが、「音楽」を書きすぎている映画が一層目立つこの頃、このようなつけ方は大変好もしく思われました。

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鬼滅の刃 [映画]

三寒四温という、この時期の形容がしっくりくるようなお天気が続きます。
初夏に近いような陽気の時もあれば、冬に逆戻りの冷え込みもあり、年寄りには応えますね。

そんな中、沈丁花の花が咲き、あの爽やかな香りを届けてくれています。
zintyoge2021.jpg

週刊少年ジャンプで2016年11号から2020年24号まで連載されていた「鬼滅の刃」、昨年の秋に「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」が公開され、日本歴代興行収入第1位を獲得しました。
海外においても公開されて人気を博しているようで、今年の2月にはアメリカのマイアミでも公開されたようです(これはアカデミー賞候補としてノミネートされるための条件満たすためだった模様)。
因みに6月16日にはBlu-rayで発売が予定されています。

記憶があまり定かではないのですが、一昨年の終わり頃に実家に帰省した折、テレビで再放送されていて、その第1話をたまたま観て一気に引き込まれるものを感じました。
アニメ化当初は深夜枠での放送だったのでタイムリーには観ておらず、いつか続編を観たいものだと思っていました。
昨年の10月に、前述した劇場版の宣伝のため、フジテレビで「兄妹の絆」「那田蜘蛛山編」「柱合会議・蝶屋敷編」が立て続けに放送され、少年漫画とは思えぬ深い世界観の一端を垣間見た気がします。

前述した劇場版も観ようと思っていたのですが、折からのCOVID-19感染拡大で尻込みをし、結局、現在も未見です。
しかし、テレビ放映後の展開がどうにも気にかかり、なんと全巻をそろえてしまいました。




コミックで全巻をそろえたのは、20代の頃に横山光輝さんの「三国志」と「水滸伝」そして手塚治虫さんの「火の鳥」くらいです(前・後編を買ったなどというのはそのほかにもいくつかありますが)。
尤も、23巻を全部本でそろえたのでは、それでなくても満杯になっている本箱には到底収まり切れませんので、電子ブックにしてしまいましたが(;^_^A

それはともかくそこまで魅かれた一番大きな要因は、なんといっても作者である吾峠呼世晴さんの世界観のものすごさとストーリーテリングの見事さに尽きます。
吾峠さんは文章(言葉)に非常な思い入れがあるように思われ、設定が大正時代ということもあってか、漢字などにもかなりのこだわりが見て取れます。
それぞれの呼吸の型を示す数字に「壱」「弐」「参」「肆」などのように旧字体(本字)を使っていたり、鬼殺隊隊員の階級には十干(甲から癸)が割りあてられていたりと、なかなかに凝っています。

「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」では、炎柱・煉獄杏寿郎の壮絶なる討ち死にが中心ですが、もちろん、物語としてはそれ以降が本番です。
上弦の鬼との闘いが始まり、炭治郎・善逸・伊之助などの中心的なキャラクターの成長とともに、鬼殺隊当主・産屋敷耀哉の爆死を嚆矢として残る柱たちも大半が討死してしまいます。
上弦の鬼も全て倒し、鬼舞辻無惨も最期を迎えるのですが、知恵と力と技そして「想い」が込められた鬼殺隊による総力戦は、正に息をも継がせぬ展開を繰り広げます。

と、この調子で書いていくと際限もなくなりネタバレ街道まっしぐらとなりそうなのでこのあたりでやめますが、、ご興味をお持ちになられた方はコミックをお読みになるか、粗々の筋だけでも知りたいと思われる向きはネットをググれば大方の情報は得られることでしょう。

その中でも一点だけ触れさせてもらえるのであれば、「永遠」についての彼我の考察です。

鬼の始祖である鬼舞辻無惨が鬼を増やす目的の一つは、己の唯一の弱点である日光を克服するため、日光に耐性を持つ鬼を作り、それを自らの体に取り込むこと。
それを果たすことが叶えば、滅びることのない体を手に入れ最強者として永久に君臨できる、というものです。

自分を殺しに来たそんな無惨の心中を、耀哉は次のように言い当てます。

「君は永遠を夢見ている 不滅を夢見ている」

無惨はそれを宜い、(日光を克服した)竈門禰豆子を手に入れればそれが叶う、と言い放つ。
それに対して耀哉は、

「君は思い違いをしている」
「永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」

といい、さらに続けて、無惨を次のように断じます。

「この 人の想いとつながりが 君には理解できないだろうね 無惨」
「なぜなら君は 君たちは 君が死ねば全ての鬼が滅ぶんだろう?」

無惨は、千年以上生きてきた己の存在のみを不滅のものとすることが「永遠」であると考え、耀哉は、人の想いが想いを同じくする人を介しながら連綿と続いていくことこそ「永遠」であり「不滅」であると考える。

このブログの記事の中でも何度か触れてきましたが、この世の中に存在するものである限り時間の支配下に置かれ、必ず滅んでいくこと。
つまり、「永遠」と「存在」は二律背反、存在した瞬間に永遠ではなくなるのです。
どのようなものでも、この世に存在する限り時間の支配からは逃れられない。

しかし、その時間に屹立するものもあります。

芸術などはその典型でしょう。
それを生み出した作者は死んでも、残された文章や絵画や音楽などは、それを後世に伝える多くの「想いを同じうする人々」によって連綿と伝えられていき、その内容によっては、この世にそうした人が存在する限り永久に伝えられ続けるのではないでしょうか。

「永遠」というものは一個人の矮小な存在を以て成し遂げられるものでは断じてない、耀哉はそうした理の中で「永遠」という人の願いと望みを繋げていくことこそが、今を生きる人間に与えられた道であると言おうとしているかのようです。
そして無惨も、最期になってその耀哉の言葉を受け入れざるを得なくなる(かなり捻じ曲げられてですが)。

「儂の利益のために身を犠牲にする者がいるのは当然だ」「儂にはそれだけの価値があるのだ」と考える人間は確かに一定程度存在したりします。
無惨は、そういう連中の象徴として具現化されたもの、ともいえましょうか。
しかし、そういう連中でも、人間である限り寿命などによって死が訪れ肉体は滅んでいく。それゆえにそうした己の行いの報いを現世で受けずに済む者もいることでしょう。
無惨は、千年以上にわたり、そうした理に冷笑を浴びせつつ殺戮を繰り返した。
そして最後にその報いを受けることになるのです。

この作品には様々な伏線が張られていますが、それらのほとんどすべてが最終的に回収されます。
作者である吾峠さんの構成力は見事なもので、驚嘆しました。
というのも、小説や劇作においても張り巡らされた伏線が放置されたままになっている例をしばしば見かけるからであり、そこに作者の誠実さを見出すからです。

それらの中で一番重要なものは、竈門兄妹が、この非常に困難で先の見通せない戦いに赴くことになるいきさつでしょう。
炭治郎が一人で里に炭を売りに行っている間、自宅に残っていた母を含めて家族を鬼に殺され、唯一生き残った禰豆子は、無惨によって鬼にされてしまいます。
炭治郎は、禰豆子を人間に戻すため、その道程として鬼殺隊に入り鬼と戦う道を選び突き進む。
炭治郎の家に代々継承されている日輪の耳飾り、これは400年ほど前に無惨をあと一歩のところまで追いつめた継国縁壱(日の呼吸の使い手)から託されたものでした。
鬼にされた禰豆子でしたが、人を喰うことはなく、炭治郎たちととともに鬼と戦い、やがて日光を克服します。

この二人に深くかかわる育手の鱗滝左近次は、鬼との最終決戦の中で次のように独白します。

「この長い戦いが今夜終わるかもしれない まさかそこに自分が生きて立ちあおうとは」
「炭治郎 思えばお前が鬼になった妹を連れてきた時から 何か大きな歯車が回り始めたような気がする」
「今までの戦いで築造されたものが巨大な装置だとしたならば お前と禰豆子という二つの小さな歯車が嵌ったことにより 停滞していた状況が一気に動き出した」

炭治郎と禰豆子が加わっていなかったとしたら、無惨との戦いは終わりのない絶望的な消耗戦を延々と続けることとなり、産屋敷家の呪いが解けることはなく多くの人たちが鬼の犠牲となったものと思われます。
そして、家族が無惨に襲われた晩に、炭治郎は三郎じいさんに引き留められて難を逃れるわけで、その意味では三郎じいさんも、「この長い戦い」を終わらせるための大きな役割を果たしたともいえます。
炭治郎と禰豆子たちが、凄絶な鬼との戦いを終えた後に自宅に帰った折、三郎じいさんとの邂逅を果たして、この大きな伏線は感動的に回収されました。

さて、この物語の一番のキーワードは、なんといっても「鬼」でしょう。
それも、いわゆる「人喰い鬼」。

鬼はもともと「隠(おぬ)」が語源とされ、得体の知れないものを指す、というのが、どうやら定説です。天変地異や火事、それから疫病などもこの範疇でした(因みに、鬼殺隊の中で、救護や輜重などの後方を担当する部隊を「隠(カクシ)」と呼んでいますが、おそらくはこれを語源としたのでしょう)。
「鬼」という字は、器と同じ系列で、魂の入れ物という用いられ方がなされたようです。

鬼は、今昔物語や宇治拾遺物語にも登場してきますが、最も顕著なのは能における表現ではないかと思います。
「鉄輪」「葵上」「黒塚」「紅葉狩」「道成寺」などなど、鬼が登場する能はそれこそ枚挙のいとまがないくらいです。
登場する鬼のほとんどは、嫉妬・恨み・懊悩・怒りなどに身を焦がし異形のものとなって人を襲います。
「黒塚」は人喰い鬼の典型的な例ではありますが、これも奉公先の姫君を助けるために、その妙薬といわれた胎児の肝を得ようと、安達ケ原で出会った妊婦を我が娘とは知らずその腹を裂き胎児の肝を抜き取るという悲惨な蛮行のもとに気が狂いそのような仕儀となったわけですから、最初から人喰い鬼であったわけではありません。
しかし、いずれにしても、鬼が今日のような形態となったのは能によるものが大きいと思われます。

鬼滅の刃の舞台は大正時代であり、鬼の始祖は千年以上生きているとされています。
平安時代がその始まり(無惨の誕生)と設定されているのは、六条御息所を嚆矢と考えたからでしょうか。

「人喰い」という意味でいけば、人が人を食うこと自体、もちろん古くからあったこと。
動物には「共食い」があったりするわけですから、人間も動物の一種と考えれば別に珍しくもありません。
事実、天明や天保の飢饉の頃には、殺して塩漬けにした人肉を備蓄する甕が農村部のそこかしこにあったといいます。
太平洋戦争中も、南方戦線などで飢餓に苦しみ人肉を食った話が、「野火」を始め小説などにも描かれています。「軍旗はためく下に」や「ゆきゆきて神軍」という映画もありました。
また、大正時代はもちろん、昭和初期でも、自分の子供を売ったりすることはありましたし、世界に目を向ければ、いまだにそういう行為はそこかしこで散見されます。
日本においても、昭和のころまでは、子供は親の所有物という認識が一般的だったように感じます。

鬼は、結局のところ人間そのものではないのか。
鬼滅の刃を読んでいて、そういうところにまで想いが至ってしまいました。
私のような老人でも夢中になって読んでしまう要因の一つには、そうした背景や世界観も存在するからなのかなと思います。

ところで、アニメの方では、私は次の歌に大変感動しました。


竈門炭治郎のうた
https://www.youtube.com/watch?v=KRKkULldM1w

作詞はこのアニメの制作元である ufotableで、このアニメ制作会社がどれほどこの作品にラポールしているかを如実に示していると思います。
近々、「吉原遊郭編」も放映されるとのこと。
大変楽しみですね。

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映画「地の群れ」 [映画]

寒い日が続いています。
日本海側では大荒れのお天気が続き、信越線の立ち往生などという異常事態まで発生しました。
昨年のお天気も荒れていましたし、異常気象がいよいよ本格化か、という不安にも駆られます。

昨年、自宅近くに連続して落雷があり、そのうちの一つが変電施設に落ちたようで、自宅のブレーカーが飛びました。
その影響で、S-VHSビデオデッキの電源が入らなくなり、ヒューズを取り替えたり、電源回りを調べたりしたのですが、復活せず。
四半世紀以上使ってきて、さすがにところどころで不具合が発生していたので、寿命がきていたところに落雷が止めをさしたのでしょう。
テープをDVDに変換しようと考え保持していたのですが、DVDレコーダーの調子も悪く、まあ、そのうち対応するか、と高を括ってサボっていたツケが回ってきたわけです。

DVDの方は当面買い替えに困ることもないと思われますが、さすがにS-VHSの方は手を打っておかないと、まだバックアップも完了していないプライベートビデオなどが全く再生不能となるわけですから、さすがに放置しておくわけにもいかず、ヤフーオークションを利用して年末に調達を終えました。
2万円弱で購入できたのですが、状態も非常によく、しかもクリーニングも済ませてあり、大変良心的な出品者に当たって本当に助かったところです。
このところメルカリなどに押され気味という話ですが、ヤフーかんたん決済など利便性もかなり向上しており、まだまだ現役ですね。

その動作確認で、いくつかのビデオを再生した中に、熊井啓監督の「地の群れ」がありました。


1970年の公開作品で、私が劇場で観たのは1980年頃の、もちろん再上映においてです。
その前作が「黒部の太陽」で、熊井監督は五社協定など映画界の固陋な因習と闘うなど大変なご労苦の末に完成させたものの、やはり関電や間組などの大企業PR映画となってしまったことに、作家として忸怩たる思いがあったのでしょう、ATGの枠組みの中で、ご自身の表現したい作品を粘り切って撮った、という映画です。
映画館で観た時には、衝撃のあまりしばらく立ち上がれませんでした。
今の腑抜けのような映画界とは違って、当時はまだまだ映画の表現力には高い思想性や芸術性が残っていたのですが、それでも「よくもこのような映画が撮れたものだ」と感心したものです。
それは、在日朝鮮人・被差別部落・被爆者に対する差別に、原爆と米軍基地問題を覆いかぶせた、極めて重苦しいテーマを扱っていたのですから。

ATGの作品も、当時のTOHOビデオでかなりの数がビデオ化されましたが、当然のようにこの作品がその枠組みの中でビデオ化されることはなく、長らくの間、幻の作品と化していました。

2000年頃だったと思いますが、パステルビデオがこの作品のVHSビデオを販売しました。
私は驚くと同時に即座に買い求めたのでした。

その後10数年を経て、2015年に、なんとDVDが発売されました。
それまでは、パステルビデオのVHSテープが希少価値ゆえの高値で取引されたりしていたようですから、正に隔世の感があります。

この映画、冒頭シーンの衝撃度合いがかなり異常なもので、観る人によっては、もうこの部分で先に進めなくなるかもしれません。
狭いケージの中に押し込められた鶏とネズミ。最初は鶏がネズミをつつきまわしますが、そのうちに鶏を無数のネズミがよってたかって食い殺す。
のちにそれらがガソリンによって一瞬のうちに丸焼きにされる。
云うまでもなくこれは、弱い者同士がひしめきお互いに傷つけあっていた当時の日本の民衆の上に落とされた無差別殺戮手段としての原爆の暗喩なのでしょう。

DVDが発売され、場所によってはレンタルもされていることもありますから、例によって映画の内容についての詳述は避けさせて頂きます。
ご興味のある方は、是非ともご覧ください。

この映画を観て思い起こすのは、被差別部落問題をめぐる活動を当時京都で展開していた先輩の言葉です。

「穢多は非人を蔑み、非人は穢多を嘲る」

双方とも士農工商という身分制度の枠組みの下に位置するとされていましたが、穢多が皮革関連といった仕事などに従事する人たちの呼称であったのに対し、非人は無宿人や犯罪を犯すなどして非人手下となった人などが含まれていましたから、穢多からすれば非人は「悪事を働いて最下層にまで落とされた正に人でなし」であり、非人からすれば「自分たちには元の身分(士農工商のいずれか)があり、善功を積めばそこに戻ることもできるが穢多はその位置から這い上がることはできない」と考えていたのだろうとのことでした。
つまり、当時の支配階級は、身分制度の最下層に位置するこの二つの階層間で反目させることによって、身分制度の根本的な問題(隷属・差別や人権蹂躙)に目を向けることを防ごうとしたのでしょう。
そして、さらに悲しいことは、その差別の対象となっている人々がその支配階級の思惑にまんまとのっかってしまっていたということ。
というよりも、現実に差別を受けている人々は、他者を差別をすることによってしか己の魂の窮状から逃れることができない、と考えていること。そこに絶望的な深淵があるのかもしれません。

井上光晴の原作でそして氏が脚本にも参加したこの映画は、正にその重層的で螺旋構造になっている差別の根幹に触れるものでした。
先にも触れましたように、在日朝鮮人・被差別部落民・被爆者に対する差別(相互のものも含む)の構造が、この映画の深部に横たわっています。

そして原爆。

爆心地に近かった浦上天主堂のマリア像などの石像が、強烈な熱線と衝撃波によって焼け焦げ破壊されました。
石像であるのにもかかわらず、その焼け焦げなどの悲惨さは極めて生々しく、物言わぬ石像の「恨み」が沸き起こってくるかのようです。
当局は、こうした原爆の痕跡がいつまでも残っている限り人々の心から恨みが消えないとして、目障りだからと整備・撤去を図ろうとしますが、そこにかぶせられるナレーション、「目障りなのは原爆を落とした米軍であり、そのアメリカを恨むことがなぜ悪いのか」には、ハッと胸を突かれます。
非常に根源的なこうした問いかけを糊塗して、被害者たる被爆者を差別し、差別された被爆者が部落民や在日朝鮮人を差別するという構造。
それによって引き起こされる惨劇と、絶望的なラスト。
それらが恐るべき重さを以て迫ってくるのです。

この映画の中で取り上げられているテーマは極めて今日的です。

〇〇ファースト、ヘイトクライム、ヘイトスピーチ、移民の排除、生活保護受給者など社会的弱者に対する誹謗・中傷といったことどもは、畢竟、苦しい生活を余儀なくされている人々が己のアイデンティティや生業の価値の崩壊を防ごうとして、それを脅かすかもしれない「下層(と彼らが感ずる)」の人々に牙を剥いて襲いかかる、ということなのかもしれませんし。

このような時代であるからこそ、こうした作品を改めて見直す価値があるのではないか。
私はしみじみとそう感じました。

さて、熊井啓監督作品の多くで音楽を担当してきた松村禎三さん。
この映画において、両者は初めてタッグを組みます。
のちに「忍ぶ川」や「愛する」などにみられるようなリリシズムに溢れた美しい音楽ではなく、衝撃的な画像と切り結ぶかのようなシャープで底知れぬ深さを持った音響表現でした。

映画では、原作者の井上光晴氏が書き下した手毬唄が増田睦実さんによって歌われます。
四月長崎花の町。
八月長崎灰の町。
十月カラスが死にまする。
正月障子が破れはて、
三月淋しい母の墓。

これは、いうまでもなく長崎の原爆投下をモチーフにしたもの。
要所でこの手毬唄がアカペラで歌われ、打楽器を中心とした不気味で乾いた音楽が響きます。
黒部の太陽」の折にも触れましたが、熊井啓監督は音楽・音響に相当なこだわりを持っておられます。
この、かなり実験的な映画音楽は素晴らしい存在感を以て迫りくるもので、松村さんがこの音楽によって毎日映画コンクールの音楽賞を受賞されたのも、正に宜なるかな、というところでしょう。

松村さんの交響曲やピアノ協奏曲を聴いている感覚で、彼の映画音楽の表現に接すると、そのアプローチに大きな乖離があることを感じずにはいられません。
そのことについて松村さんは次のように語っておられました。
私は純粋に抽象的な作品を書くときは、その語法、様式に対して大変神経質だと自分で思っています。逆に映画音楽では自由に自らを解放して、必要であったり、興味を持った場合はどんなスタイルの曲でも積極的に書こうとしてきましたし、そのことを楽しんでもきました。

うむ、なるほどなと納得です。
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