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言葉の好みなど [日記]

連日酷暑が続きます。
さすがに体力的に厳しさを感じておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

退職し時間ができたこともあって、今、源氏物語を再読しております。

源氏物語を初めてまともに読もうと思ったのは大学の教養課程で国文学を選択したことによります。
もちろん「いづれの御時(おほむとき)にか女御更衣あまた侍ひ給ひける中にいとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めき給ふありけり」などは高校生のころから知っており、その流麗な表現にはため息をつく想いでしたが、せっかくなのできちんと読んでみようと思ってのことでした。
しかしこれはやはりかなりの難物で、古語辞典と首っ引きで頑張ったのですが、ついに最後まで読み切ることはできなかった。
もともと二部でしたし、専攻は法学でしたので、そこで挫折し、ま、しかたがないかな、などといい加減なところであきらめたわけです。

66歳を超え、仕事を辞めたことによって、挫折してしまった源氏物語に再度チャレンジ、といったところでしょうか。
何とも恥ずかしい話ではありますが。

改めて読み返してみると、源氏物語が日本の文学史上に燦然と輝く大名作であり、とてつもない深みと世界観を有した大河小説であることを再認識しました。
源氏物語の成立は平安時代中期とされていますが、当時、いわゆる「女流作家」で、これほどの規模の物語を書いたのは世界広しといえども紫式部のほかには存在しなかったものと思われます。
源氏物語の内容そのものについての感想や考察などにつきましては、また機会を改めて申し述べたいと思います。何しろ読み進むほどに様々な想いと感動が沸き起こり、容易にまとめることが今現在ではできませんので。

そんな中、読み進むうちに感じたことがいくつかありましたがので、先行的に少し触れたいと存じます。

源氏物語はいうまでもなく大和言葉=かな文字でかかれております。
今の私たちが読んでいるものは後世の人々が手を入れて漢字を補ったり句読点を入れたり改行したりしてくれたもので、はるかに読みやすくなっておりますが、本来はほぼひらがなの文章がだらだらと際限なく続いていたことでしょう。
また、藤原定家がきちんとした巻物にまとめ上げたことも、私などの無教養人にとってはありがたい限りでした。
紫式部は幼少の頃より漢学にも親しみ、長ずるに及んで一条帝の后(顕子)の家庭教師役を務める女官となったほどに、相当に聡明で詩情豊かな文化人・教養人であったことがうかがわれます。
源氏物語の中でも、自身の作と思しき短歌は言うに及ばず、古今の名歌を適時適切に引用し、物語を膨らませていました。

とりわけ漢詩からの引用は白眉で、中でも「須磨」における白居易の七言律詩の用い方には筆舌に尽くしがたいものがあります。
配所である須磨に流された源氏(尤もこれは自らが選んだものでしたが)が、8月15日の望月を眺めながら「二千里外故人心」という白居易の詩(江陵に流された親友元稹を思って8月15日の月を眺めながら白が詠んだもの)を口ずさむのですが、いうまでもなくこれは元稹を自らにだぶらせ、中間に白居易を置くことによってそのふくらみをさらに増していることがわかります。
つまり源氏は白と元の双方の役割を演じている。
この巻では、そのあとに「恩賜御衣今在此」という菅原道真の七言絶句を引き、正に今の源氏が帝から恩賜の御衣を戴いていることとの関連を描いています(いうまでもなく菅原道真も大宰府に流されたのだから)。

このような絶妙極まりない引用が物語の随所にちりばめられ、また、その効果を際立たせるためなのでしょうか、作者が大和言葉と漢文とのそれぞれの用い方を厳格に分けていたこともうかがえます。
つまり、大和言葉による地の文章には漢文臭の強い用語を使わなかった。例えば「ひそかに」などという表現は使わず「しのびやかに」とした。
この鋭い感覚は誠に瞠目すべきものがあると思います。

そうしたことを感じながら読み進めることは、多少の時間は要しますが、非常に興味深くまた深い感動も得られましょう。私はまさに今、そうした楽しみの中で読み進めているのです。
現在「総角(あげまき)」を読んでいる最中で、残すところあとわずか。
ここまでくると、一気に読んでしまうのがなんだか惜しいような気持になってきますね。

さて、文章を綴るという行為は、それを他者に読んでもらうということを前提とした場合、自ずから様々な制約を受けることとならざるを得ません。
自分が示そうとする想いや感情の機微などをある程度理解してもらうためには、それを文章に引き写す場合、まず論理的であることが求められ、かつ、極力誤解を生じさせないような表現を用いる必要があるからです。
この場合、自分の思想などに共感してもらうところまで求めてはならない(共感してもらえればそれに越したことはもちろんありませんが)。
「これを書いている人間はまともな奴だ」「論理は破綻していない」「言っている意味は分かる」、ただし「この考えには賛成できないけれども」くらいのところまで行くことができれば最高なのだと思っています。いや、このレベルの文章を書くこと自体かなり難易度は高く、私は残念ながらとてもここまでには至っておりません。

私には、その時々の状況に応じて臨機応変に用語を使い分ける力などはとても持ち合わせておりませんが、それでもやはり言葉の好みなどはあります。
また、このブログの記事のように「です」「ます」調で書いている場合とメインサイトの記事とでは、表現ぶりを意識的に変えていますので、当然用いる言葉も異なってきます。

そんな中でも、使いたくない言葉、はっきりいれば嫌いな表現というものは共通してあります。

たとえば、「とんでもありません」「とんでもございません」などというもの。
これは、「とんでもな・い」という形容詞の用法を無視して無理やり敬語っぽくしてもので、「もったいない」とか「やるせない」と同じ性質のものです。
敬語表現で使いたいのであれば、「とんでもないことです」とすればいいだけの話です。
おなじようなものに、「みっともよくない」というようなものもあったりします。
これもいうまでもなく「みっともな・い」が形容詞である以上、誠にすわりの悪い表現ではないかと感じます。

それから「お気をつけて」。
「気を付ける」というのは動詞ですので、活用形につく助詞である「て」を連用形である「気を付け」につけて「気を付けて」となる用法にはもちろん問題はありません。
しかし、動詞の連用形に「お」という接頭語をつけると、その言葉は名詞扱いとなります。
「たずね」→「おたずね」、「はいり」→「おはいり」、「求め」→「お求め」というような感じでしょうか。
こうしてできた名詞に、活用形につく助詞である「て」をつけるのは、やはり不自然極まりないと思います。
敬語的に使いたいのであれば、「お気を付けになって」とか「お気を付けください」とすればいいだけの話です。

などとこの調子で書いていくと際限がなくなりますので、ここでいったん止めますが、駄文といえども自分で文章を綴る折には、やはり書いていて不自然を感じない書き方をしていきたいなと、源氏物語にかこつけて改めて感じ入っているこの頃ではあります。

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