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ゲルト・シャラーによるブルックナー「交響曲第9番(シャラー校訂完全版・改訂稿)」 [音楽]

独り身になって、家のことを全部ひとりでしなければならなくなったとき、一番気が重かったのは掃除でした。
私は一応家事のほとんどは対応可能なのですが、好き嫌いということでいえば掃除は嫌いな部類です。
「埃なんかでは死なないよ」みたいなことを嘯き、連れ合いにはその都度叱られて尻を叩かれていました。
もちろん、単身赴任もしていましたし、掃除も片付けもせずに部屋の中が汚れ放題で平気、などということではありません。
その折でも、きちんと定期的に掃除はしていました。
でも、嫌いなものは嫌い、だったわけです。しなくてすむのならしたくない。

そんな私のことを熟知していたからでしょうか、
連れ合いが最期を覚悟した2018年の年末、それまで契約していたダスキンのワックスがけモップの契約を解除しました。
残された私に、あまり負担をかけたくないと思ったのでしょう。
必要なら近所のドラッグストアで床のワックスがけ用のシートを買ってくればいいから、と言いました。
その、自分に残された時間を測るような言い方は私に強い悲しみを与えましたが、結局私はそれを受け入れたわけです。

そんないきさつはありましたが、一人になると、やはり掃除は大切なものだなという感を強くしました。
不思議なもので、部屋の隅や桟などにたまった埃にも我慢がならなくなり、気が付くと掃除をしています。
テレワークになっていることもあって、布団を干すと、気分転換も兼ね掃除をするようになりました。
台所も、今まではせいぜいレンジフードの掃除くらいしたしなかったのですが、シンクなどの洗い場から三角コーナー、排水口、洗面台など、ちょっと汚れに気づくと洗い、まな板や三角コーナーなどは折に触れて日光消毒をしています。
風呂掃除はもともと私の役目でしたし、手洗いは汚れに気づいたほうが洗うということにしていましたが、換気扇の掃除は私の気の回るところではありませんでした。
ここに結構な埃がたまり、それが部屋の空気の循環などに影響を与えることも、一人になってから実感した次第です。
嫌だ嫌だ、といいつつ、今ではなんだか習慣化して、しないわけにはいかなくなった、という感じでしょうか。

先日ふと気づいたのですが、私はどちらかというと、やるときには徹底してやってしまう傾向が強く、つまり、掃除などに関しても、やり始めたらきちんときれいするまではやめられない、そんな思いが強く出るのかなと。
だから、連れ合いがいるときには、面倒くさいからみないようにしていた、ということかもしれません。
まことに厄介な性分です。

閑話休題

ゲルト・シャラーは1965年に、ドイツバイエルン州のバンベルグで生まれ、ヴュルツブルク音楽大学で音楽を学ぶ傍らフリードリヒ=アレクサンダー大学エアランゲン・ニュルンベルクで医学も納めました。
1993年、ハノーファー州立歌劇場でデビュー以来、ドイツ各地のオペラハウスなどで研鑽を重ねています。
その一方、1990年にフランコニアにあるエーブラハ大修道院附属教会でのサマーミュージックフェスティバルを立ち上げ、その芸術監督として「フィルハーモニー・フェスティヴァ」を指揮、ブルックナーの音楽を主体とした演奏に取り組んできました。

中でも、2018年7月に行われた「交響曲第9番(シャラー校訂完全版・改訂稿)のライブは出色の演奏であり、世の注目を集めたものです。


ライブ録音ゆえにもちろんいくつかの箇所での傷はありますが、エーブラハ大修道院附属教会の響きを最大限に生かした演奏は実に感動的です。
問題の第4楽章、シャラーの長年にわたる調査・研究と際立った熱意により2016年に校訂され2018年の改訂を以て完成しました。
シャラーは2010年のキャラガン校正版を使用した演奏も行っていますが、自身の改訂はさらに徹底していて、この曲に関するブルックナーの最も初期のスケッチなども取り入れ、欠落した部分の連続性を徹底的に埋めようと努力しています。
恐るべき執念であり、深い感動を禁じえません。
最終的には736小節の楽章となり、演奏時間は25分17秒。
もちろんこれまでの第4楽章補筆改訂版中、最大規模です。

これまで幾種類かの、この曲の補筆改訂版の演奏を聴いてきましたが、それぞれのピースが何となく不自然に配置され流れを阻害しているかのように感ずることを否めませんでした。
この演奏では、それが極めて自然に流れていきます。
シャラー改訂版の肝ともいうべきフーガは充実した緊張感の中で響き、最後のコーダになだれ込む感じです。
第1楽章の冒頭をはじめ、これまでのブルックナーの音楽からの引用も随所に見られ、私としては大いに楽しめました。
聴けば聴くほど新たな発見があります。

それから、このシャラー完全版では、特に中声部の厚みが増しているという印象を強く持ちます。
これまでの補筆版では、第3楽章までの和声の厚みとの差がかなり著しく出ている感があって、その点では不満を持っていたのですが、この演奏ではその点で非常に満足させられるものがあります。
ブルックナーは、年を重ねるごとに和声における大胆な試みに挑んでおり、それまでのセオリーを打ち破る冒険的な響きを作り出してきました。
その流れの中にこの第4楽章もあるように私には思えます。

「いくらなんでもやりすぎ」「これはブルックナーではない」という感想を持たれる方もきっと多かろうと思われます。
しかし、私はこのシャラーの試みの中に、彼の限りないブルックナーへの愛情が感ぜられてなりません。
彼が決して荒唐無稽なことをしようとしたわけではないことは、この演奏の第3楽章までを聴いてみれば明らかです。
ブルックナーの手のよって残された第3楽章までの未完成版でも、これまでのこの曲の数多くの演奏に決して引けを取るものではありません。
この、第3楽章までを聴くだけでも十分価値があると思うのです。
ブルックナーを愛するがゆえに、彼が完成させることのできなかった世界を何とか再現してみたい、という衝動を抑えることができなかった。それゆえに、全力を尽くして捧げた、ということではないのか。
私にはそのように思えてなりません。

さて、未完に終わった第9番。
後年の人々が、何とか完全な形で再現しようと試みていること。
そのことについて当のブルックナーご本人はどのように感じておられるのでしょうか。
以前にも何度か書きましたが、私個人としては、第9番の第3楽章のあの恐るべき深淵を受け止めることのできるフィナーレを、ブルックナーとしては完成することができなかったのではないか、と思っております。
そのことに関しては、シューベルトが未完成交響曲を第2楽章までしか書けなかったことと同じなのではないか、と。
たくさんのスケッチを描いたものの、あの第3楽章に匹敵するようなフィナーレまでもっていくことができなかった。
その意味では、そういう未完のピースをしまっておいた箱を、後年の研究者や識者が無造作に開け放ち、白日の下にさらしてしまったことに、ブルックナー本人は、あられもない姿をさらされたと思い恥ずかしさの極みにいるのかもしれません。
「テ・デウムをフィナーレの代わりに」と言い残したというブルックナーの想いは、いったい奈辺にあったのか、そのことも併せて感慨深く思います。

そのようなわけで、やはりブルックナーの交響曲第9番は、現在残されている第3楽章までの演奏で十分なのではないか。
それから先を見てみたいと思っている私たちは、所詮、興味本位ののぞき見趣味的な聴衆なのかもしれないと、時折振り返ってしまいます。
もちろん、シャラーをはじめとする、真摯な求道者の姿を敬意を以て眺めているのですが。



この全集は、交響曲の全曲のみならず、第4番「村の祭り」版やミサ曲ヘ短調、詩篇146のほか、現存するオルガン曲まで収録したものです。
このような全集が発売されることすら、ちょっと想像がつきませんでした。
これは実に貴重な記録だと思います。
因みに、当代一のオルガンの名手とうたわれ、反目しあっていたブラームス(これはどうも異論があって、反目していたのは当人たちではなく周辺の人間だったようですが)でさえ、その腕前について大変高い評価を与えていたブルックナーがなにゆえに、その最も得意としたオルガンのための曲をあまり残さなかったのか。
その理由の一つとして次のような文章があります。
彼は彼の教え子たちに次のように言ったと伝えられている。「もう私はバッハにあまりかまけたりしないつもりだ。そんなことは想像力のない人にまかせる。私は題による自由な即興演奏をやる。」これはオルガン演奏に対するブルックナー自身の態度を明瞭に示していて、オルガンの名手である彼がなぜ語るに足るオルガン曲を書き残さなかったか、その理由を明らかにしている。(H・シェンツェラー著「ブルックナー」より引用)

これは、ブルックナーが、オルガン演奏に対してどれほどの自信と誇りを持っていたかを示す言葉ではないかと思いますね。
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