又吉直樹著「火花」 [日記]
とうとう関東地方も梅雨入りとなりました。
尤も、現在の小雨交じりの曇天は梅雨前線によるものではなく、高気圧の縁を回る(黒潮を上昇気流をたっぷり吸いこんだ)湿った空気の影響なのだそうですが。
紫陽花の花が存在感を増してきました。
梅雨は鬱陶しいものですが、たまに覗く青空と紫陽花やクチナシや夏椿の花は、この時期でこそ味わえる安らぎなのかもしれませんね。
ピース・又吉直樹氏の「火花」を読みました。
刊行された当時から興味はあったのですが、芥川賞騒ぎなどの影響で、何となく購読しようという気が薄れていたというのが正直なところです。
たまたま、義姉がこの本を購読し、面白かったからと連れ合いに貸してくれたものを私が又借りして読んだ、という、何とも失礼な顛末なのですが、この本は「当たり」だと思いました。
又吉氏は、太宰治をはじめとする、いわゆる「純文学系」の小説を中心とした大変な読書家であり、書評はもとより小説・随筆など執筆も精力的に行っていますが、「火花」を読んでみて、改めてその筆力に脱帽した次第です。
冒頭の
という文章。
出だしから膨大な読書量によって育まれた小説的呼吸を感じさせますね。
全編にこうした一種華麗な小説的レトリックがちりばめられていて、文章を書くことに対する作者の並々ならぬ想いを表しておりました。
いわゆる「名文」とは、文章表現そのものを感じさせずに書かれている内容がすんなりと頭に入ってくるものをいう、という理は、以前から多くの文学者によって言われてきたことです。
つまり、レトリックなどのテクニックにおぼれた文章は、しばしばその修辞の方法論などに読者の目を向けさせてしまい、その文章の根本にある思想の伝達が疎かになる嫌いがある、ということなのでしょう。
これは、ある意味での真理なのだろうと思います。
事実、世の中には、ほとんど自分の文章テクニックに陶酔しながら書いているのではないか、というような鼻持ちならぬシロモノもたくさん出回っておりますし、また、半可通な読者がそれをほめそやすことでさらにつけあがる、という悪循環も見受けられます。
しかし、例えば大岡昇平の「野火」のように、全編にちりばめられた華麗なるレトリックが、その物語全体の迫真性をより高めている名文も存在するのです。
畢竟、そうしたレトリック・修辞法は、それを用いる人によって、文章そのものの質の高低をも変えてしまうものなのでしょう。使う人間の思想が低い位置にあるのであれば、いくら技巧的な修辞を用いても下卑た文章になってしまうのですから。
「火花」の地の文章は、私の感覚からすれば、文章表現面で見てやはりかなりの斧鑿の跡を感じさせます。
同じような情景を描いてもそれを感じさせない文章が数多くあることに鑑みれば、ある種の力みのようなものが見え隠れするような気がするのです。
それに比して、会話の文章のもつ躍動感や律動感はどうでしょう。
実に生き生きとしていて、この効果を生み出すために、わざわざ地の文をあのような表現にしたのではないかと思わせるほどです。
又吉氏の筆力は相当のものであり、私は引き込まれるようにして、正しく「あっという間に」読み終えてしまいました。
そして、「当たり」だと感じたわけです。
この小説は、「創造」という行為に憑かれた人たちの苦悩と葛藤、そしてある種のカタルシスを表現しています。
又吉氏が漫才師であることから芸人を主体として描かれておりますが、これは、「創造」や「表現」にかかわるアーティスト全てに当てはまることではないか。
新たなる「表現」を「創造」することが如何に困難で、真正のアーティストはそれがために塗炭の苦しみの中にいる。自己模倣に陥らないために、自分自身の築き上げた世界を自分の手で破壊しなければならない。それを躊躇なく実行に移すことのできる表現者こそが、未来に向けて、新たなる「創造」をなしとげることができるのでしょう。
恐らく「笑い」というものは、その意味で最も難しい題材の一つなのだろうと思います。
「悲劇」はある程度パターン化していても一定の観客の心をつかむことができるのかもしれませんが、「喜劇」においては常に新たなる笑いが求められます。
この小説の中でオマージュとなっている「いとしこいし」のような神様レベルにまで達すれば、それが一見ワンパターンのように見えても、ある意味で昇華された表現の一つとして讃えられるかもしれませんが、それは正に「稀有な事例」と申せましょう。
多くの若者が、例えばテレビやライブを観てお笑い芸人をめざし、その大半が挫折せざるを得ないのも、新たな「笑い」を生み出さなければらないというとてつもない難事に出くわし、そこで折れてしまうからなのかもしれません。
しかし、「笑い」というものの持つ「毒」の存在も閑却するわけにはいかない。
私たちが何気なく笑いながら見流しているお笑い芸の、底知れない深さに震撼とさせられたりもするのです。
この小説の主人公が「師匠」とあがめる神谷。
既存の価値観も含めてすべてのものを破壊した上に新しい笑いの世界を築こうとする、その崇高な想いには確かに心を打たれます。
恐らく常識的な面でこの人間にラポールできる人はいないと思いますが(私も当然そうです)、ここまで突き詰めた生き方自体にはやはり感動してしまう。
主人公もそのことがわかるからこそ、大きな葛藤を抱えながらも師匠を愛し続けるのでしょう。
それ故に、ラストの悲しみが一段と胸にしみます。
面白ければどんなことでもする、というこの主題の下りを読んだとき、私はなぜか故早野凡平氏を思い出してしまいました。
早野氏の師匠であるパン猪狩は、歯の治療を受けて入れ歯にしなければならないといわれた時、どうせなら上下を総入れ歯にし、コーヒーカップの縁のようにつなぎ目のない形態にしてくれと、真顔で頼んで歯科医に拒否されたそうですが、その弟子である早野氏もすごい。
とにかく舞台でウケることが何よりも大事だと固く信じていた早野氏は、ある時ふと大変な名案を思いつきます。
それは、目・耳・鼻・歯・両腕・両足を全て人工のものに変え、それを舞台でみんな取り外す、というもの。
自信満々で師匠に相談に行くと、しばらく考え込んでいた師匠は、確かにそれはウケるだろうがウケるのはそのとき一回限りだからやめておけ、とアドバイスしたそうです。
さて、観客にウケるためならなんでもする、という師匠の生き方に対し、主人公は強烈な憧れを抱きつつも、最後は極めて常識的な言辞を以て涙ながらに師匠を諌めます。
主人公の涙は、そんなふうに師匠を諌めなければならない自分のありように我慢ができずに流されたものなのかもしれません。
この本を読み終えたときに唐突に思ったことがあります。
それは、プロとエキスパートとの違い。
プロフェッショナルというのは、それを生業としその道の精進を目指す人たちであり、それ故にその道を踏み外したりましてや破壊したりなどということは決してしない。
しかし、エキスパートは違うのではないか。
己の目指す地点に行きつくためになら、どのようなことでもする。もしかすれば、これまで自分の築いてきた世界を破壊する可能性があろうとも、まだ見ぬ世界を目指そうとする。
つまり、この小説における神谷はエキスパートなのではないか、と。
そして、「創造」「表現」「芸術」などは、こうした、一種向う見ずなエキスパートたちによって新たな世界を切り開くことができたのではないでしょうか。
その意味では、私たちに感動を与え続けてくれる作品を生み出した芸術家はすべからくエキスパートであり、同時代的な中での調和を慮ろうとする職業的プロではないのかもしれませんね。
この小説は、口当たりのいい読みやすい文章表現の中に、そうした芸術の持つデモーニッシュな側面を描き出しています。
その意味では、正しく正当な意味における純文学なのではないでしょうか。
斧鑿の跡が見えると書きましたが、恐らくそれらは書き続けることによって自ずから姿を消していくもの。
又吉直樹氏には、これからも刺激的な小説を書き続けてほしいと、心から願う次第です。
尤も、現在の小雨交じりの曇天は梅雨前線によるものではなく、高気圧の縁を回る(黒潮を上昇気流をたっぷり吸いこんだ)湿った空気の影響なのだそうですが。
紫陽花の花が存在感を増してきました。
梅雨は鬱陶しいものですが、たまに覗く青空と紫陽花やクチナシや夏椿の花は、この時期でこそ味わえる安らぎなのかもしれませんね。
ピース・又吉直樹氏の「火花」を読みました。
刊行された当時から興味はあったのですが、芥川賞騒ぎなどの影響で、何となく購読しようという気が薄れていたというのが正直なところです。
たまたま、義姉がこの本を購読し、面白かったからと連れ合いに貸してくれたものを私が又借りして読んだ、という、何とも失礼な顛末なのですが、この本は「当たり」だと思いました。
又吉氏は、太宰治をはじめとする、いわゆる「純文学系」の小説を中心とした大変な読書家であり、書評はもとより小説・随筆など執筆も精力的に行っていますが、「火花」を読んでみて、改めてその筆力に脱帽した次第です。
冒頭の
大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい陽射しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
という文章。
出だしから膨大な読書量によって育まれた小説的呼吸を感じさせますね。
全編にこうした一種華麗な小説的レトリックがちりばめられていて、文章を書くことに対する作者の並々ならぬ想いを表しておりました。
いわゆる「名文」とは、文章表現そのものを感じさせずに書かれている内容がすんなりと頭に入ってくるものをいう、という理は、以前から多くの文学者によって言われてきたことです。
つまり、レトリックなどのテクニックにおぼれた文章は、しばしばその修辞の方法論などに読者の目を向けさせてしまい、その文章の根本にある思想の伝達が疎かになる嫌いがある、ということなのでしょう。
これは、ある意味での真理なのだろうと思います。
事実、世の中には、ほとんど自分の文章テクニックに陶酔しながら書いているのではないか、というような鼻持ちならぬシロモノもたくさん出回っておりますし、また、半可通な読者がそれをほめそやすことでさらにつけあがる、という悪循環も見受けられます。
しかし、例えば大岡昇平の「野火」のように、全編にちりばめられた華麗なるレトリックが、その物語全体の迫真性をより高めている名文も存在するのです。
畢竟、そうしたレトリック・修辞法は、それを用いる人によって、文章そのものの質の高低をも変えてしまうものなのでしょう。使う人間の思想が低い位置にあるのであれば、いくら技巧的な修辞を用いても下卑た文章になってしまうのですから。
「火花」の地の文章は、私の感覚からすれば、文章表現面で見てやはりかなりの斧鑿の跡を感じさせます。
同じような情景を描いてもそれを感じさせない文章が数多くあることに鑑みれば、ある種の力みのようなものが見え隠れするような気がするのです。
それに比して、会話の文章のもつ躍動感や律動感はどうでしょう。
実に生き生きとしていて、この効果を生み出すために、わざわざ地の文をあのような表現にしたのではないかと思わせるほどです。
又吉氏の筆力は相当のものであり、私は引き込まれるようにして、正しく「あっという間に」読み終えてしまいました。
そして、「当たり」だと感じたわけです。
この小説は、「創造」という行為に憑かれた人たちの苦悩と葛藤、そしてある種のカタルシスを表現しています。
又吉氏が漫才師であることから芸人を主体として描かれておりますが、これは、「創造」や「表現」にかかわるアーティスト全てに当てはまることではないか。
新たなる「表現」を「創造」することが如何に困難で、真正のアーティストはそれがために塗炭の苦しみの中にいる。自己模倣に陥らないために、自分自身の築き上げた世界を自分の手で破壊しなければならない。それを躊躇なく実行に移すことのできる表現者こそが、未来に向けて、新たなる「創造」をなしとげることができるのでしょう。
恐らく「笑い」というものは、その意味で最も難しい題材の一つなのだろうと思います。
「悲劇」はある程度パターン化していても一定の観客の心をつかむことができるのかもしれませんが、「喜劇」においては常に新たなる笑いが求められます。
この小説の中でオマージュとなっている「いとしこいし」のような神様レベルにまで達すれば、それが一見ワンパターンのように見えても、ある意味で昇華された表現の一つとして讃えられるかもしれませんが、それは正に「稀有な事例」と申せましょう。
多くの若者が、例えばテレビやライブを観てお笑い芸人をめざし、その大半が挫折せざるを得ないのも、新たな「笑い」を生み出さなければらないというとてつもない難事に出くわし、そこで折れてしまうからなのかもしれません。
しかし、「笑い」というものの持つ「毒」の存在も閑却するわけにはいかない。
私たちが何気なく笑いながら見流しているお笑い芸の、底知れない深さに震撼とさせられたりもするのです。
この小説の主人公が「師匠」とあがめる神谷。
既存の価値観も含めてすべてのものを破壊した上に新しい笑いの世界を築こうとする、その崇高な想いには確かに心を打たれます。
恐らく常識的な面でこの人間にラポールできる人はいないと思いますが(私も当然そうです)、ここまで突き詰めた生き方自体にはやはり感動してしまう。
主人公もそのことがわかるからこそ、大きな葛藤を抱えながらも師匠を愛し続けるのでしょう。
それ故に、ラストの悲しみが一段と胸にしみます。
面白ければどんなことでもする、というこの主題の下りを読んだとき、私はなぜか故早野凡平氏を思い出してしまいました。
早野氏の師匠であるパン猪狩は、歯の治療を受けて入れ歯にしなければならないといわれた時、どうせなら上下を総入れ歯にし、コーヒーカップの縁のようにつなぎ目のない形態にしてくれと、真顔で頼んで歯科医に拒否されたそうですが、その弟子である早野氏もすごい。
とにかく舞台でウケることが何よりも大事だと固く信じていた早野氏は、ある時ふと大変な名案を思いつきます。
それは、目・耳・鼻・歯・両腕・両足を全て人工のものに変え、それを舞台でみんな取り外す、というもの。
自信満々で師匠に相談に行くと、しばらく考え込んでいた師匠は、確かにそれはウケるだろうがウケるのはそのとき一回限りだからやめておけ、とアドバイスしたそうです。
さて、観客にウケるためならなんでもする、という師匠の生き方に対し、主人公は強烈な憧れを抱きつつも、最後は極めて常識的な言辞を以て涙ながらに師匠を諌めます。
主人公の涙は、そんなふうに師匠を諌めなければならない自分のありように我慢ができずに流されたものなのかもしれません。
この本を読み終えたときに唐突に思ったことがあります。
それは、プロとエキスパートとの違い。
プロフェッショナルというのは、それを生業としその道の精進を目指す人たちであり、それ故にその道を踏み外したりましてや破壊したりなどということは決してしない。
しかし、エキスパートは違うのではないか。
己の目指す地点に行きつくためになら、どのようなことでもする。もしかすれば、これまで自分の築いてきた世界を破壊する可能性があろうとも、まだ見ぬ世界を目指そうとする。
つまり、この小説における神谷はエキスパートなのではないか、と。
そして、「創造」「表現」「芸術」などは、こうした、一種向う見ずなエキスパートたちによって新たな世界を切り開くことができたのではないでしょうか。
その意味では、私たちに感動を与え続けてくれる作品を生み出した芸術家はすべからくエキスパートであり、同時代的な中での調和を慮ろうとする職業的プロではないのかもしれませんね。
この小説は、口当たりのいい読みやすい文章表現の中に、そうした芸術の持つデモーニッシュな側面を描き出しています。
その意味では、正しく正当な意味における純文学なのではないでしょうか。
斧鑿の跡が見えると書きましたが、恐らくそれらは書き続けることによって自ずから姿を消していくもの。
又吉直樹氏には、これからも刺激的な小説を書き続けてほしいと、心から願う次第です。
火花 [ 又吉直樹 ] |
2016-06-07 22:48
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コメント(8)
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お元気゜そうで何よりです。
by 夏炉冬扇 (2016-06-08 06:47)
プロとエキスパートの違いですか!
たとえ破壊してでも新天地を・・・。
流石の見解です。^^
by のら人 (2016-06-08 08:57)
私も本書は読もうかどうか迷っていました。
でも伊閣蝶さんの解説で俄然読みたくなってきました。
近々購入しようと思います。
by tochimochi (2016-06-08 22:44)
夏炉冬扇さん、おはようございます。
おかげさまで何とか元気にやっております。
ありがとうございます。
by 伊閣蝶 (2016-06-09 07:03)
のら人さん、おはようございます。
プロとエキスパート、これは山の世界にもいえることかもしれません。
奥深い命題かなと思います。
by 伊閣蝶 (2016-06-09 07:04)
tochimochiさん、おはようございます。
私も、話題ばかりが先行している状況に辟易としていたのですが、純粋に小説として楽しめました。
図書館でもたくさん見かけておりますので、宜しければご一読をお勧め致します。
by 伊閣蝶 (2016-06-09 07:06)
しょせんお笑い芸人が書いたものだからと
世間では低く見る人もいたようですが
そうした批評は実際に読んでからにしてほしいですね。
by いっぷく (2016-06-10 09:16)
いっぷくさん、こんばんは。
恐らくそういう人たちは、芸人自体を自分より低く見ているのでしょうね。ご自身がどの程度の位置におられるのか、知る由もありませんが。
ところでこの小説、むしろ又吉氏が現役の芸人であるからこそ書けたのではないかと思います。
その点を痛いほど感じました。
by 伊閣蝶 (2016-06-10 23:41)