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龍馬伝の主題歌 [音楽]

朝から小雨の降る肌寒い日になりました。
午後になって雨は止んだものの、空の雲はなかなか去りません。
どうやらこの天気は、関東と北陸近辺だけのようで、他の地域では晴天なのに関東だけぐずついた天気ということが、今年は割合多いようにも思われます。

今朝、NHKの「おはよう日本」を観ていたら、龍馬伝のテーマ音楽で主題歌を歌っているリサ・ジェラルドさんが出演し、あの歌のことを話していました。

大河ドラマに関して私は、あの何となく威張りくさったような全体的印象とか、上から目線の押しつけがましい時代考証などに辟易としつつ、ついつい毎度観てしまう、という少々ねじ曲がった対応を取っていたりします。
結局そうしたことどもも含めておもしろがっている、ということなのですが(^_^;

今回の龍馬伝についても、主役の福山雅治に関しては特に好きでも嫌いでもないのですが、むしろそのほかの出演者に魅力的な俳優が多く、ピエール瀧だのトータス松本だのリリー・フランキーだのといった非常にユニークな人々がおもしろい味付けをしていて、毎回楽しみしているところなのです。

もう一つ、大河ドラマをついつい観てしまう大きな理由に、あの音楽(テーマ音楽)があります。

「花の生涯」の冨田勲から始まり「龍馬伝」の佐藤直紀まで、正にそうそうたる方々が携わってこられました。
冨田勲・芥川也寸志・入野義朗・武満徹・間宮芳生・依田光正・三善晃・林光・湯浅譲二・山本直純・湯浅譲二・池辺晋一郎・一柳慧といった、現代音楽の分野でも大きな功績を残している作曲家や、佐藤勝・小六禮次郎・栗山和樹のような映画音楽などの劇伴音楽に著名な作品を残している方々、さらには宇崎竜童や坂田晃一といったメロディメーカーまで、それこそ枚挙のいとまがありませんね。
こんどはどんな音楽になるのだろう、と、物心付いた頃からわくわくしていたものです。
そんな私が、予告編の段階で強く印象に残った最初の曲は武満徹の「源義経」で、当時9歳くらいでした。
そのあたりからはっきりと、大河ドラマにおける音楽を意識的に聴くようになり、次作の佐藤勝による「三姉妹」や、その後の依田光正による「樅ノ木は残った」なども、それこそ毎回毎回テーマ音楽を聴くことを楽しみにしていたものです。

さて、今回の龍馬伝の音楽(佐藤直紀)もなかなか気迫のこもったすばらしいものですが、リサ・ジェラルドの歌う主題歌(?)の歌詞がどうにも理解できず、何語でどのような詞なのか、いつも気になっていたのでした。

今朝の「おはよう日本」では、それを話題にするというのです。
これは見逃すわけにはいきませんね。

で、結論なのですが、これは特定の地域の「言語」のようなものではないとのこと。
リサさんが、その場の雰囲気を体で感じて自然に発声された「声」なのだそうです。
我々は、人の歌う歌を聴くと、どうしてもそれを歌詞、つまり言語でも理解しようと試みてしまいます。
もちろん、詞によって大きな生命を得る歌曲も数多く(むしろその方が多いと思いますが)、イメージ喚起のために詞の果たす役割は極めて大なるものがあることは異論のないところでしょう。
しかし、それによってイメージが固定化されることを避けようとする試みも当然あって然るべきで、スキャットなどはその典型なのかもしれません。

いずれにしても、あの歌が、特に論理的な意味を持つ言葉ではないということを知り、これからは純粋に人の声という「音」として、楽しんでみたいと思ったわけです。

龍馬の人となりに想いを馳せながら、N響の演奏をバックにわき上がるインスピレーションを歌の形で表現する。
これはある意味でのチャンスオペレーションなのかもしれませんし、ジャズセッションにおける即興演奏に近い感覚であるのかもしれません。

もっといえば、バッハの曲などにおける通奏低音の扱いも同様でしょう。
ご存じの通り、通奏低音パート譜には最低声部の旋律のみが記入されていて、演奏者は楽譜全体を見ながら即興的に和声やそれに乗った旋律を展開させる必要があります。
これをリアライズと呼びますが、例えばカール・リヒターのオルガン演奏などにおいては、正しく天才としかいいようのない自由自在かつ強靱なリアライゼーションを聴くことができます。
マタイやヨハネ受難曲はもとより、私はシュメッリ賛歌におけるため息をつくほど見事なリヒターの即興演奏(オルガン伴奏)が忘れられません。

龍馬伝のこの歌でリサさんは、音のみならず言葉を、それもパトスとしての言葉を使って、このリアライゼーションを試みている。

何ともすごい才能ではありませんか!

そのインタビューの中で、リサさんは「アフリカのカエルとオーストラリアのカエルは違う声で鳴く」という例を引いていましたが、これは非常におもしろい視点だと思いました。
同じ種類のカエルであっても、生息地によって違う声で鳴くことは、私も経験上知っています。
ましてや、大きく異なる環境下での鳴き声が同一なものにならないのは当然のことです。
しかしそうしたことに鋭く着目し、それを自身の表現の上で生かそうと考えるしなやかな感性にはさすがに脱帽しました。

ところがそれを受けたインタビューアーは、「日本ではカエルはゲコゲコと鳴きますが、オーストラリアのカエルはどんなふうに鳴くのですか?」などという、誠に画一的かつ鈍磨された感覚に基づく問いかけを、彼女に対してしたのです。
リサさんは、ちょっと困ったような表情をして、クワックワッとかツィツィみたいな多彩な鳴き声の一端を披露しましたが、日本のカエルの鳴き声が「ゲコゲコ」だけだなどということは全くありないことであり、「こいつは、ウシガエルもトノサマガエルもアカガエルもアマガエルも、みんな同じように鳴くとでも思っているか!」と、思わずテレビの画面の上から胸ぐらをつかみたくなりましたよ(^_^;

まあ、それはちょっと興奮しすぎ、と反省しましたが、このインタビューアーに、カジカガエルのあの寂しげで美しい笛の音のような鳴き声を聴かせてやりたい、と強く感じたものです。

そんな些細な不満はあったものの、朝の出勤前のバタバタとした時間の中で、こんなふうに感慨深い話が聞けたのは幸いでした。

それにしても、改めて人間の声の幅広い表現力には感歎します。
桜井長一郎や江戸家猫八の声帯模写などでも明らかなように、人間の声は、同じ人間の物真似はもとよりありとあらゆる動物などの鳴き声まで表現することができます。
いや、鳴き声どころではない。漫才師のオール阪神は、車のブレーキ音や電話の呼び出し音・チャイムなどいうものさえも似せて音を出すことができたりするのですから。

そうそう、口三味線や口ラッパなどという芸までありますものね(*^o^*)
ベルマンだとか、アカペラコーラスの伴奏なども、人の声による広大な表現力を彷彿とさせてくれますし。

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