SSブログ

楽曲のネット配信とCD [音楽]

asahi.comに次のような記事が掲載されていて、ちょっと考えさせられました。

「CD買おうぜ」 ネットに対抗、若手音楽家ら呼びかけ

楽曲のネット配信は、iTunes Store、ONGen(楽天とプラットフォームを共有)、TUTAYAなどを中心に急速に広がっていて、年商1000億円にも達しようかという勢いだそうです。
これに対してCDの売上はこの10年間で半分に激減し、2900億円くらいだといいますから、かなり拮抗してきている感じはしますね。
というより、この趨勢を見る限りCD売上の凋落には歯止めがかかっていないということなのでしょう。

 音楽CDが売れない。インターネットで配信される曲をダウンロードする方式に押され、生産はこの10年でほぼ半減した。そんな中、若いミュージシャンらが「CDを買おう」と呼びかけ始めた。「ジャケットのデザインも、曲の並び順も作品の一部」と訴える。名づけて「BUYCDs(CD買おうぜ)」。

(中略)

 「音楽を形の無いデータでやり取りするだけなんて、あまりに味気ない」。CDの購買を呼びかけようと思い立った。手近にあったのが、勤め先で扱っているTシャツ。思いを込めて「BUYCDs」と胸に大きくプリントした。


この方々の気持ちは非常に良くわかります。

しかし、CDが売れないという問題点を「あまりに味気ない」などというところに集約してしまって果たしてどれだけの説得力を持ちうるのでしょうか。
「ジャケットのデザインも、曲の並び順も作品の一部」という主張も仰るとおりでしょう。
しかし、レコードだった時代にそれをカセットテープなどに録音する段階で自分なりに曲順を編集したり、様々なレコードからお気に入りの曲だけを集めてマイ・テープみたいなものを作った経験のある人も多いように、リスナーだって自分の感性に基づいて曲を聴きたいというところがあるのです。
それに、こういうことを申し上げるのは誠に失礼とは思いますが、アルバムに収録される楽曲は正に玉石混淆で、シングルでは売れそうもない曲まで紛れ込ませて体裁を整えている例も決して少なくないような気がします。
「この曲が入っているからな、仕方がない、買うか。ちくしょう!」なんて思って舌打ちをしながらCDを買った経験のある人も結構多いのではないでしょうか。

その意味からすれば、ネット配信・販売がリスナーに積極的に受け入れられていったことも当然の現象ではないかと思うのです。

などと書いて参りましたが、私自身はネット配信の楽曲購入をこれまで一度も実行したことはありませんし、たぶんこれから先もしないことでしょう。
理由は至極単純で、自分にとって感動的な良い演奏や曲を聴くためならばそれなりの対価を払うのは当たり前、と考えているからに他なりません。
ネット配信では、windows系のWAVにしても、iTunesのAACにしても、基本的に不可逆性の圧縮ファイルが用いられており、AACなどは128kbit/sという高品質であるとはいい条、音質の面ではCDに及びもつきません。
特に私が好んで聴くクラシック音楽においては論外です。
圧縮の思想は、例えば人間の可聴周波数帯を超える高音域の信号や無音の部分を削ったり、強音部の音を統合・整理したりするわけでしょうから、本来はあるはずの「音」を、「どうせ人間には聞こえやしない(判別できない)んだから」という勝手かつ乱暴な決めつけで除去してしまうということでしょう。
つまりリスナーの耳を舐めきっている態度なわけです。

また、無音の部分にはなんの情報もない、という考え方も、音楽的な感性から見れば全く乱暴な話であって、楽譜上の休符は「演奏をしない音」だということくらい、多少なりとも音楽活動に関わったことのある人なら自明の理でありましょう。
明治から昭和にかけて活躍した能楽の小鼓方幸流の幸祥光さんが、その演奏を録音しようとした折、マイクロフォンの性能に関して強い苦言を呈したそうです。「音」が全く拾えていない、と。
能楽においては、小鼓はもちろん、鳴っている音だけが音楽(囃子)なのではありません。
むしろ、音と音の間に存在する一見無音の空間(間)が演奏の核なのであって、その部分こそが囃子方として一番大切な音楽的表現であるのに、そこをマイクロフォンは全く拾えない、というわけです。
西洋音楽においても、ブルックナーに代表されるゲネラル・パウゼがどれほど深い音楽を表現しているかは議論の余地もありません。
それがわかっていたからこそ、ジョン・ケージだって「4分33秒」という曲を世に問うことを考えたのではないでしょうか。

こうした様々に複雑な要素が絡み合って音楽という芸術が成立しているというのに、シグナルとして明確か否かといったような一方的な観点からONかOFFかを判断してしまう態度に、私は到底与することはできません。

どうもかなり話が横道にそれてしまいましたが、心底から自分が聴きたいと願っている曲であれば、やはり人はそれ相応の対価を払う気になるのではないかと思います。
また、近年のデジタル技術の進展はすさまじいもので、このブログでも紹介している、ワルター&ウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第9番の初演とかラフマニノフ自身による自作自演など、戦前に録音された演奏を、驚くほどの品質で現在に蘇らせたりもしております。
また、SACDやHQCDによって輝きを増した演奏も数多く存在します。
こういうCDを購入し、自宅で居ながらにしてその豊穣な音の響きに身をゆだねるときの至福の時間は何ものにも換えがたいものではないでしょうか。

逆に言えば、品質が落ちる上に演奏そのものにも共感しないシロモノには、たとえ150円(iTunes Storeの場合)といえども金を払ってまで聴く気など毛頭起こり得ようはずもありません。

冒頭の新聞記事の話に戻れば、要はリスナーが買いたくなるような「作品」を創って販売してくれ、ということにつきるのでしょう。

自分が望むようなすばらしい音楽と演奏を聴かせてくれるCDであれば、10000円出したって買いたいと思いますし、才能のかけらも見いだせないサンプリング音源と陳腐な常套句だけで粗製濫造されたようなものであれば、1円だって払いたくはありませんよね。
nice!(1)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 2

cfp

伊閣蝶さん、こんにちは。

私も基本は、聴きたいもの、見たいものは、
作品として購入するのが、
アートに対する作者への、
最低限の畏敬の念だと思います。

著作権を無視するなど論外。
手元にあるCDやDVDは私にとって、
心の宝石箱であって、
決して粗末に扱えません。

その時代に輝いた作者の想いや願い、
主張や精神を共有できるということは、
作者、作品に対する愛以外にありません。

ラフマニノフやフルトヴェングラー、
ワルターの同時代に立ち返り、
同化できるだけで感激です。

彼らが活きた時代にタイムスリップできるのは、
CDやDVD、書籍の為せる業です。

by cfp (2010-03-20 14:43) 

伊閣蝶

cfpさん、こんにちは。
いつもながら大変嬉しいコメントをありがとうございます。

想いは全く同じで、私も、自分が所持しているレコードもCDもDVDもLDも全て私にとっては掛け替えのない宝物なのです。
そこから紡ぎだされる音や映像は、私を愛と希望と夢の世界に誘ってくれるのですから。
それを世に出してくれた作曲者や演奏家に対しては、心の底からの感謝の念を禁じ得ません。
そのために必要となる対価を支払うことに躊躇などあり得ようはずもないのです。

「心の宝石箱」正しく仰る通りですね。
素晴らしいお言葉に心より感謝いたします。
by 伊閣蝶 (2010-03-20 17:19) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0