SSブログ

フリッチャイ&ベルリン・フィルのドヴォルザーク「新世界」ほか [音楽]

台風18号が接近し、今朝の出勤はことのほか大変でした。
状況によっては出社不能となる可能性もなしとしなかったので、家内などは昨晩のうちに職場に出向いたくらいです。
私の方はそれほど切迫しているわけでもないことから様子を見ていたのですが、朝のうちは風もそれほど強くなく、電車も動いていたので無事に出勤することができました。
台風の影響は夕方にはほぼなくなるとの予報でしたから、長靴は履かずに、それでも雨具のズボンだけは穿いて出動。
ズボンは大丈夫でしたが、案の定、靴の中に水が浸入してしまい、やむを得ないことながら実に不愉快です。
ホームで電車を待つ間にカッパのズボンを脱いで袋に入れて鞄にしまいました。
電車は速度を落として運行していましたし、相も変らぬ満員状況ですから、不快指数も高止まりです。
全くどうしてこんな思いまでしながら出勤しなければならないのだろうと、埒もない不満を抱きつつ、この満員電車の中にいる方々もきっと同じ想いなのだろうなと、変に連帯感を感じたりもしました。
いずれにしても、通勤時間帯に暴風雨がやってこなかったのは幸いなことでした。

ところで、ちょっと気になることがありました。

雨脚が強かったのでカッパのズボンを穿いて出かけたと先に書きましたが、レインコートなど雨が生地に多少なりとも吸い込まれる上着ならいざ知らず、基本的に水をはじくカッパのようなものは、電車に乗る際には脱いでしまうのがエチケットだと思っています。
乗客が全員カッパを着ているのであれば問題はあまりないのでしょうが、大多数の人は普通の布地の服を着用していることに鑑みれば当然のことなのではないでしょうか。
特に、混み合う朝の出勤時の通勤電車であれば、否が応でも他人との接触を避けえないのですから、濡れたカッパを押し付けられることの不愉快さはいうまでもないことではないか。
事実、つい最近までは、カッパを着ていても、ホームで脱ぐなりして、濡れたカッパをそのまま他人に押し付けるような人をあまり見かけなかったのです。
ところが、今朝は違っていました。
撥水効果抜群のビニールやナイロン製のカッパをびしょ濡れにしながら、何の躊躇もなく満員の車両に乗り込んでくる人が相当数いたのでした。電車に乗る前にわざわざカッパを脱いだ自分が阿呆に思えるほど、何の屈託もなく、です。

「自分がされて嫌なことは人にもしない」

私はそのようにして、社会の中で生きてきたつもりですが、そういう感覚は、もうあまり現在の常識とマッチしないものなのでしょうか。
そういえば、濡れた傘を持ちこむときも、バンドで縛り雨滴を極力落として、可能な限り傘袋に入れることにしていますが、傘袋はおろか、バンドすらせずにそのまま持ち込む人も増えているような気がします。

ただでさえ鬱陶しい大雨の満員電車で、さらに気分が悪くなりつつ出勤するという、暗鬱たる朝となってしまいました。

さて、そんな憂鬱な車内で、ドヴォルザークの「新世界より」を久しぶりに聴きながら出勤しました。
この曲は、恐らく、ベートーヴェンの「運命」やシューベルトの「未完成」と並ぶ、ポピュラーな交響曲の一つでありましょう。
全曲を聴いたのは中学生の時でしたが、小学生のころから親しんでいた「家路(遠き山に日は落ちて)」という曲が、第2楽章のLargoからきていることを知り驚いたものです。
中学生から高校生の初めのころまでは、チャイコフスキー、グリーグ、シベリウス、ボロディンといった、いわゆる国民楽派の作曲家の曲を好んで聴いておりましたので、当然、ドヴォルザークの曲は、「新世界より」はもとよりチェロ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、スラブ舞曲集などを精力的に聴きまくったものです。
特にドヴォルザークは、小学生の頃、父がスラブ舞曲集のレコードを買ってきてくれたこともあって、大好きな作曲家のひとりでした。

高校2年生あたりからバッハに傾倒し始め、それに並行して、ブルックナーやマーラーといった後期ロマン派、そしてブラームスなどへと音楽の好みがどんどん拡大していく中で、いつしか「新世界より」を積極的に聴かなくなっていきます。
ドボルザークの交響曲の中では第8番の優美さに魅かれるようになり、さらには大きな転換点ともいわれた第7番を聴いてから、私の好みははっきりこちらの方に移ってきました。
今でも、どの曲が一番好きか、と問われれば、第7番と答えることでしょう。非常に構造が堅牢で高い完成度を持ちつつ、歌われる一つ一つの旋律がたとえようもないほど美しいからです。
当初のワーグナーへの傾倒から、徐々にブラームス的な方向へと創作が深化していったこともあり、この曲がとりわけそうした色彩を強く出していることも、私の好みと一致するのかもしれません。
どの楽章も素晴らしいのですが、私は特に第3楽章のスケルツォがお気に入り。この楽章の特徴であるフリアントのリズムを刻んだ旋律の上を流れるように対旋律が奏でられ、それを受け持つパートが次々に入れ替わっていく様は、正に目眩く妖精がフリアントを舞っているかのような情景を思い起こさせます。

とはいいつつも、「新世界より」を全く聴かないということはもちろんありません。
先にも書きましたように、この曲は聴衆のみならずオケにも人気があって、演奏会のメニューにも数多く取り上げられるのですから。
実際、私もこの曲は実演でたくさん聴いております。
中でも印象に残っているのは、もう40年位前のことになるのでしょうか、ズデニェク・コシュラーが都響を振った演奏です。
同じころに、ノイマン&チェコ・フィルの演奏も聴いていたのですが、それに比肩するくらいの素晴らしいステージであったことを思い起こします。
コシュラーはいうまでもなくチェコ出身の指揮者。そうしたバトンのもとでは、オケもやはりそのような(ボヘミア的な)音色を出すものなのだなと、二十歳を超えたばかりの私は改めて「指揮者」という存在の大きさを思い知らされたものでした。

レコードでは、アンチェル、ノイマン、テンシュテット、クーベリックなどによる演奏がすぐに思い浮かびますが、中でも、ケルテス&VPOの演奏は白眉でした。
ケルテスは、1973年、イスラエル・フィル客演の折、テル・アビブの海岸で遊泳中に高波にのまれ、なんと43歳という若さで亡くなってしまいました。誠に以て残念至極なことと、今更ながらに歯噛みをする思いです。

だいぶ脱線してしまいましたが、今回「新世界より」のCDを取り上げた理由はほかでもありません。指揮者がフリッチャイであったからです。


フリッチャイのことについては、以前にも記事にしたことがあります。

ロッシーニのスターバト・マーテル
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」について

この曲のレコードを、フリッチャイは二種類残しています。
今回ご紹介するCDは、白血病に伴う苦しい闘病生活から復帰したのちの録音です。
オケはベルリン・フィル。

これまで何度も聴き、また、(吹奏楽への編曲版でしたが)自分でも演奏した経験もあるこのポピュラーな曲が、全く違う響きを以て迫ってきました。
先の「悲愴」のときにも書きましたが、胸を抉られるかのように印象的なルバートが、ここぞというキモのところで出てくるのです。
それこそ、うっ、と胸を突かれるような想いがしました。
特に第2楽章では、そのルバートの効果が特徴的に表れているような気がします。中間部、インテンポで進む部分とためを作る部分が、これ以上は望めない微妙なバランスを保って奏でられます。
そのほかの、強烈で力強く速いテンポの楽章の中で、このLargoは、しばしば一服の清涼剤のような位置づけでみられることが多いのではないかと思いますが、このフリッチャイの演奏に接すると、実に厳しい音楽であることがひしひしと感ぜられました。

随所に美しい旋律を鏤めた親しみやすい交響曲、という、「新世界より」に対する手あかのついた紋切り型の印象をいつしか抱くようになり、それ故にあまり聴くこともなくなってしまった己の不明を恥じた次第です。
ブラームスが嫉妬した、というほどのメロディ・メーカーであったドヴォルザークが生み出す美しい旋律が、それに比肩する和声と対位法的進行の中で響きあう。
ドヴォルザークの天才的な作曲の手腕は疾うの昔からわかっていたはずなのに、このCDを聴くことによって、改めてその超絶的な「天才性」に気づかされた気がします。
一方で、全編を通じて、これほど明晰でくっきりと音楽の輪郭を感じさせてくれた演奏も稀ではないかと感じました。
今まで気づかなかった(あるいは強いて気に留めなかった)、小さな旋律が珠玉のような輝きを以て響いてきます。

音楽を聴く喜びは、その音楽を世に生み出してくれた作曲家に帰せられるのはもちろんのことですが、特に交響曲においては、それを生み出した作曲家の全的な思惟や想念が凝縮され昇華されているわけですから、それをきちんと掬い取って音の響きに再構築する演奏家の存在は誠に大きいものといわざるを得ません。
フリッチャイが残した演奏の録音を聴いていると、まるでその創造者が憑依しているのではないかというような錯覚をさえ覚えます。あたかも、その曲がその指揮者を選んでいるかのように。

私のような一般的な聴衆は、与えられたものの中から好みを選んで聴くよりほかに方法がありません。
その意味では、常により良い演奏を「他律的」「受動的」に求めてしまうものなのです。
しかし、その想いは究極的にはかなえられないことでしょう。他者に表現の全てを依存している聴衆が、己の感受性とぴったり符合する演奏に出会うことなど、原則としてあり得ないからです。
でも、裏を返せば、自分には思いもよらなかった表現に出会うこともあり得るわけで、そこに聴衆としての喜びもあるのでしょう。
ただし、それを知ってしまうと、さらにその上のものを求めたくなるのも悪しき性なのかもしれませんね。

その意味からすれば作曲家・演奏家は、誠に恵まれた存在だと思います。
その創造とともにある限り、彼らには無限の可能性があるわけで、つまり対峙するたびに新たなる創造(想像)の喜びを感ずることができるのですから。
評論家や聴衆などが何を言おうが、たとえ僅かであったとしてもその想いと喜びを同じうしてくれる人が(自分も含めて)存在する限り、未来は彼らの前に開かれている。
芸術の世界に生きる人々の喜びを思うにつけ、妬ましさは無限に募ってしまいますね。

どうも最後は泣き言になってしまいましたが、このCDは強くお勧めしたいと思います。
1960年の録音であり、50年以上前のものではありますが、音質も最高です。

スメタナの「わが祖国」からのモルダウも、きれいに流されてしまいがちな演奏が蔓延する中、憧れつつも未だに見ることが叶わぬヴルタヴァ川が、まるで眼前に広がってくるかのような想像を私は掻き立てられました。

リストの「前奏曲」は、同国人としての共感にあふれた流れるような表現で、この曲に関してもまた、新たなる魅力を数えきれないほど与えてくれました。
因みにこの演奏はベルリン放送響との共演です。

台風18号は、駆け足のように都心を去り、昼過ぎには青空が広がってきました。
帰宅時、中空に十三夜のお月様が煌煌と輝いていて大感激!
そういえば、お月様の姿を拝むのはいつ以来のことだろう、と、ちょっとしんみりしてしまったところです。

しばらくは好天が続きそうですが、台風19号が迫っているようです。
下手をすると三連休のときに日本列島に接近しそうで、これも心配な限りですね。
nice!(38)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 38

コメント 6

tochimochi

首都圏は相当な雨が降ったようですから、大変さも分かります。
カッパを着て通勤というのもこちらではあまり考えられなかったです。
>自分がされて嫌なことは人にもしない
仰るとおりです。そういうエチケットが通用しなくなっているのは悲しいですね。


by tochimochi (2014-10-07 23:01) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんばんは。
御地の方は、大雨にはならなかった模様で、何よりでした。
短い時間とはいえ、やはり豪雨は辛いものがありました。
エチケットのこと。
もはや、そういうことにこだわる私どもの方がズレてきているのだろうかと、仰る通り、腹立たしさの前に悲しみを覚えました。
by 伊閣蝶 (2014-10-08 00:34) 

夏炉冬扇

嫌なことをする方は好きになれません。
by 夏炉冬扇 (2014-10-08 17:25) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんばんは。
している当人にその意識がない可能性もあり、問題の根は深いのかもしれません。
by 伊閣蝶 (2014-10-08 23:59) 

ムース

完成度の高い7番、一般受けする8番、有名すぎてやや過剰評価?の9番といったところでしょうか?。私も7番は素晴らしいと思います。やっぱり交響曲はできるだけ全てのナンバーを聴こうとおもっています。

ドボルザークの後期3曲は、ジュリーニ指揮のゆったりしたテンポが自身には合うようです。トスカニーニなんかは、ゆっくり郷愁に浸れません。フリッチャイは未聴ですが、是非聴いてみます。
by ムース (2014-10-11 16:13) 

伊閣蝶

ムースさん、おはようございます。
「交響曲はできるだけ全てのナンバーを聴こう」というお話は、全くその通りと存じます。
ジュリーニは、ドヴォルザークに非常にしっくり来そうな気がします。
実はまだ未聴なので、この機会に是非とも聴いてみようと思いました。
ジュリーニのブラームスの素晴らしさから忖度して、期待が高まって参りました。
by 伊閣蝶 (2014-10-15 07:21) 

トラックバック 0