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昭和を歌う高校生 [音楽]

お盆も過ぎたというのに、相変わらずの暑さが続きます。
明け方は少し涼しくなったので油断をしていると、8時前くらいから急激に気温が上がり、職場に着くころには汗まみれになっているような状況です。
もう少しこの暑さとお付き合いをしなければならないかと思うと、さすがに憂鬱になりますね。
先週の木曜日に、ちょっと左の腰を負傷してしまい、週末は休養を余儀なくされました。
先週は山に出かけられなかったので、今週は行きたいなと思っていた矢先でしたからちょっとがっかり(^_^;
早く治さなくてはいけませんね。

今朝、出勤前のNHKおはよう日本を観ていたら、昭和の歌謡曲に熱中している宮崎の高校生の話題を取り上げていました。

けさのクローズアップ「昭和を歌う高校生」

Guitar.jpgアリスだとか沢田研二などの曲を、自らギターを弾いて歌い、地元のお祭りなどを中心にコンサート活動なども行っていて、特に中高年世代から大きな声援を受けているそうです。
子供の頃に父親に連れられて、谷村新司のコンサートに出かけたのがきっけとのことですが、それ以来、彼は独学でこれらの曲集を買い求めて勉強し、演奏活動に取り組んできました。
私などが聴いてもなかなか素晴らしい歌唱力で、柔らかくて気持ちのこもった、それでいてしっかりとした基礎の出来ている声だなと感じます。

しかし、彼の同級生などにいわせると「世代が違うような気がする」という感想で、今一つ受けは良くなさそう(^_^;
まあ、これも蓋し当然のことのような気もしますが。

そんなこともあって、勉強家の彼は、平成のポップスと昭和のポップスとの違いを調べてみました。
しかし、今度は彼の方が戸惑ってしまう。
「(今どきの歌の)歌詞の中の、例えば『ちゅるちゅる』というような部分が、いったい何を表現しようとしてるのか全く理解できない」という感じで。
そこで、先に上げた演奏活動などを共にする中高年のシンガー(50代から60代くらい)たちにその話をすると、昭和の頃の歌は歌詞を非常に大切にしていた、想いを歌詞に託し、それを曲想に反映するような作り方をしていたのだけれども、今は歌の中に占める歌詞の比重が極端に軽くなってきているのではないか、との示唆があったのだそうです。

この辺りで手洗いに行ったりしたため、私は肝心なところを観はぐってしまったのですが、何だかいろいろなことを考えさせられてしまいました。

一つには、私がいわゆる平成のポップスに対して抱いている違和感と、彼の感覚とがかなりの部分で通底している点についてです。
彼は、現在の高校生としてはかなり特異な感覚を持っているように思われがちですが、むしろ日本の音楽シーンに対して真摯な感覚を有しているという点で、演奏家としてはかなりハイレベルなところにいるのではないかということ。
これは、我々が胸を躍らせて聴いていた時代の音楽に、こんなに若い世代の子供がラポールしてくれているという身勝手な想いももちろんありましょうが、音楽を単なる消費財として考えることをしない姿勢に共感を覚えるのです。
歌謡曲における歌詞の重要性をきちんと認識して、その意味するところを演奏表現の中で引きだしていきたい、という真面目な態度も然りでしょう。

もう一つ、歌曲というものに対する受け止め方について。
私たちは日本語の歌詞の歌を聴いたり歌ったりするとき、その歌詞の意味するところに関して様々な想いを巡らすことが多いのではないか。
つまり、歌詞と曲とは渾然一体としたもので、たまさかBGMなどでインストゥルメントとして流れてきていてもそのメロディに合わせて自然に歌詞を想起する、というくらい一つの強固なつながりを感じてしまう。少なくとも私はそういう面が強いと思います。
歌詞に対する記憶があいまいだったりすれば、何とかそれを調べて、曲と一体化することによりやっと落ち着いた気持ちになれる、というようなこともしばしばありました。

反面、外国語の歌の場合、そこまで(歌詞の意味をじっくりと読み込んだりるするとか)はしないような気もします。
ホテル・カリフォルニアの歌詞がとんでもなくわかりづらい(私の感覚からすれば支離滅裂)ものであっても、ボヘミアン・ラプソディが狂気に近いような世界を言葉に表していても、私などは、その歌詞の内容に踏み込むこともなく単純に勝手なイメージを作り上げて聴き、感動してきました。
「太陽と戦慄」から「レッド」までのキングクリムゾンの曲は、どれもぞくぞくするほど魅力的で刺激的な音楽ですが、リチャード・パーマー=ジェームス作詞の歌詞の内容は、私などには全く想定の埒外にあったりします。
でも、やっぱり大好きなことには変わりありません。
さらにいえば、ジョン・レノンが作りレターメンが歌ってヒットした「LOVE」などにもみられるように、非常にシンプルな言葉の繰り返しでイメージを喚起する、という曲もありました。

ということからすると、(これはかなりの極論だとは思いますが)私たち日本人は、単一言語のなかで文化を育て、かつ相当に長い間、他国との(庶民レベルでの)グローバルな交流を持たなかったことから、母国語以外の言葉に接する機会がなく、従ってお互いの意思の疎通において言葉による実証力に重きを置いていたということとなり、歌の世界にもそのことが根強く反映されてきているのではないか。
そのように考えてみると、能における謡曲や浄瑠璃、長唄、歌舞伎から浪花節や民謡に至るまで、日本土着の歌は、どれも歌詞にかなりの重きが置かれているような気がしてきます。
しかも、それが相互に影響し合っているのは、謡曲が浄瑠璃や歌舞伎に引用されたりしている事例からも顕著に見て取れます。
そうした古典などの一節を編みこむことによって、その詞のさらに奥深い世界を想起させる効果を狙う。これは歌の世界のみならず、例えば源氏物語の桐壺や須磨の巻において、白居易の七言律詩(長恨歌その他)の一節を誦ずることで物語を重層的に表現するなどという用いられ方もしていますね。

そうした感覚が、古来から昭和のポップスの世界に至るまで脈々と引き継がれてきていたのかもしれません。
海外のポップスでも、例えばブラザースフォーとかPPMの曲が私の胸に殊更しみこむのは、彼らの歌う歌の歌詞が私たちの胸の中にもストンと落ちる実証力を持っているからなのでしょうか。

その意味では、今の平成のポップスにおける歌詞の鴻毛のごとき軽さは、言葉の実証力に必ずしも頼ることをせずに、イメージのみを聴き手の心の中に惹起させることを狙っている、ということか。
その意味からすると、日本人は、長い長い年月をかけて、ようやく言葉の力に頼らない歌謡曲による発信を、グローバルな世界に向けてやり始めているということでしょう。
現在の平成ポップスのリスナーや送り手は、その最先端を走っているわけですね。

その割には、そのベースとなる曲などからイメージを大きく広げられるような魅力をなかなか感ずることが私にはできないのですが、これは所詮、私のイメージ喚起能力や想像力が貧困で感性が鈍いが故のことなのでしょう。

残念!\(^o^)/

ところで、「昭和を歌う高校生」君、自作曲も20曲くらいあり、こちらも詞を大切にした、素敵な曲でありました。

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hirochiki

若い世代の方が昭和の歌をうたってくれているなんて、何だか嬉しくなりますね。
うちの娘も、時々懐メロを聞いていて懐かしい気持ちになると言うことがあります。
私も、最近の歌の歌詞はなかなか理解することができません。
私が学生の頃は、外国語の歌と云えばカーペンターズをよく聞いていました。
あの爽やかな歌声が大好きで、詩の意味も考えたりしながら自分でも口ずさんだものです。
この高校生が、将来シンガーソングライターになってデビューしてくれる日が来てくれないかなあとふと思ってしまいました。
by hirochiki (2013-08-20 06:43) 

夏炉冬扇

こんにちは。
私もこの番組見ました。好感持ちました彼に。
by 夏炉冬扇 (2013-08-20 18:01) 

tochimochi

>その歌 詞の意味するところに関して様々な想いを巡らすことが多い
確かにそうですね。メロディと歌詞は一体で聞いていました。
これに対して外国のポップスはメロディのみで惹かれていました。
しかしこれは外国のリスナーにも言えることで彼らはやはり歌詞とメロディを一体として聞いていたのでしょう。
>言葉の力に頼らない歌謡曲による発信
そうかもしれませんが、やはり今のポップスはメロディに懲りすぎていて親しみを持てません。
そもそも私の年代に理解されることは期待されていないのでしょうが。
by tochimochi (2013-08-20 19:31) 

のら人

アリスや沢田研二をコピーする若者は、面白いですね。 ^^
自らの意思(親の躾では無い)だとしたら、まぁまぁ面白い気がします。

>能における謡曲や浄瑠璃、長唄、歌舞伎から浪花節や民謡に至るまで、日本土着の歌は、どれも歌詞にかなりの重きが置かれているような気がしてきます。
その通りだと思います。
昔のポップス&演歌の阿久悠さんの歌詞力は未だに凄いと思います。(川の流れの様に、を作詞したAKBのプロデューサーは尊敬しませんが ^^;) メロディはこれも、数年前の曲のコピーに近いんでは?みたいな曲が多く蔓延っていて、斬新なモノが無くなりつつある気がします。もしかしたら、既に行き詰っているのかも・・・、とさえ思います。
by のら人 (2013-08-20 20:53) 

伊閣蝶

hirochikiさん、こんばんは。
仰る通り、高校生が昭和の歌を歌ってくれているということだけで、私も嬉しくなってしまいました。
しかし、お嬢様が「懐メロを聞いていて懐かしい気持ちになる」と仰ったことには、ちょっとびっくりです。
カーペンターズ、親しみやすい曲ばかりでした。カレンの声はとりわけ爽やかでしたし。
この高校生の彼のメジャーデビュー、実現したらいいなと、私も思った次第です。

by 伊閣蝶 (2013-08-20 22:20) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんばんは。
やはりご覧になりましたか。本当に好感が持てますよね。

by 伊閣蝶 (2013-08-20 22:21) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんばんは。
メロディと歌詞を一体のものとして聴く。私たちは自国の歌に対してはやはりそうした感覚で臨んでいたのでしょう。
私の場合、外国語の歌は、意味をきちんと把握するすべもなく、従ってメロディのみに魅かれていたように思います。
今のポップス、歌詞を軽視している上に、メロディそのものも類型的なもののように感ぜられますね。
仰る通り、我々の年代に理解されることを望んでいないのでしょう。そうとしか思えません。

by 伊閣蝶 (2013-08-20 22:22) 

伊閣蝶

のら人さん、こんばんは。
この高校生、自分の感性によって昭和の歌謡曲にシンパシーを感じているようです。びっくりですね。
阿久悠さんのような才能は、今では望むべくもないのかなと思います。
なかにし礼さんが、小説家に転身したのも宜なるかなと。
それからメロディに関しても、仰る通り、売れ筋のメロディラインのサンプリングのみで出来上がっているような曲ばかりが反乱しているような気がしますね。
そこには創造性のかけらも見いだせないように、私は思えます。
行き詰まっているのはアーティストだけではなく、若いリスナーも、なのかもしれません。

by 伊閣蝶 (2013-08-20 22:24) 

謎のじじい

初めて書き込みさせて頂きます「謎のじじい」です。宜しくお願い致します。
私は、最近の歌詞が小学生の作文のようになってきたのは、義務教育において国語教育が疎かになっているせいではないかと勘ぐっています。
詩的表現が殆ど含まれず、「好きだ」とか「愛してる」とか直接的に終始した楽曲しかヒットしていないのは、作詞者の力量も当然のことながら、聴き手である若者の日本語に対する理解力や感受性が低下(退化?)してしまっており、詩的表現からイマジネーションを膨らませるといった作業が出来なくなってしまっているのではないかと危惧しています。(小学校における英語の必須化より国語教育の充実が必要では?)
また、「言葉に頼らない音楽」というには、曲そのものの魅力にも疑問符が付くケースが多く、80年代前半に「YMO」や「CASIOPEA」のようなインストゥルメンタルバンドに文字どおり「熱狂」していた昭和世代の若者のほうが、遙かに先進的で成熟していたように思います。
by 謎のじじい (2013-08-21 20:37) 

伊閣蝶

謎のじじいさん、こんばんは。
コメント、ありがとうございました。
最近の歌詞が小学校の作文並になっている理由、確かに仰る通りではないかと思います。
聴き手のボキャブラリーが低くなってきてしまえば、作詞家もそれに合わせて幼稚な表現の詞を書くようになりましょうし。
「YMO」や「CASIOPEA」に熱狂した感性を、今の若い世代のリスナーが持ち合わせていないかもしれないというご指摘も、暗澹たるものながら、頷かざるを得ません。
これではCDなどが売れる道理もありませんね。
こんなことで日本の音楽シーンが退化していくとすれば、誠に無念です。
by 伊閣蝶 (2013-08-22 21:58) 

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