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Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray「シベールの日曜日」 [映画]

昨日は夕方から怪しい雲が張り出してきて、沛然たる雨とともに盛大な雷鳴が鳴り響きました。
西武線ではこの雷雨によって電車の中に4時間も閉じ込められた乗客がいたようで、全くとんでもない気候です。
今日も朝からずっと良い天気でしたが、夕方になってまたまた怪しい雲が張り出してきました。
豪雨の被害が心配です。

さて、またまた映画の話題です。
今回は「シベールの日曜日」。
私にとってはとりわけ大切な作品の一つです。

*************** ここから ***************

Cybèle ou les Dimanches de Ville d'Avray「シベールの日曜日」
公開年等 1962年フランス シベールの日曜日の一場面
監 督 Serge Bourguignon
脚 本 Serge Bourguignon、Antoine Tudal
撮 影 Henri Decae
音 楽 Maurice Jarre
美 術 Bernard Evein
出 演 Hardy Krüger(Pierre)、Patricia Gozzi(Françoise)、Nicole Courcel(Madeleine)

極私的感想 -音楽と映像の幸福な出逢い

シベールの日曜日、この、純粋無垢で儚いほど美しい愛の姿を描いた映画を最初に観たのはいつのことであったか。
鮮明に記憶として残っているのは、高校生の頃で、テレビでの放映だった。
ラストシーンの衝撃に、観終わった後、暫く言葉が出なかったことを思い出す。

その後、だいぶ経ってからNHK教育テレビの世界名作映画劇場で取り上げられ、既にビデオデッキを持っていた私は、それを録画して楽しんだ。

しかし、当時、劇場版の映画をテレビで放映する際には、テレビの標準的な画面サイズである「4:3」にトリミングされてしまうのが常であり、もともとはシネスコサイズであったこの映画も当然のことながら両端を切られ、場面によっては不自然なパンを余儀なくされてしまっていた。
寮生活をしていた私のような者が所持しているテレビは、せいぜい14インチくらいの画面サイズであったから、無論のことこれは致し方ない措置ではあったが、作者にとっては忍びがたい暴挙であったことは想像に難くない。
NHKはさすがに放映時間までカットすることはなかったけれども、民放では時間のカットまでされてしまい、特に邦画の場合はこうした「編集」を巡って監督らとぶつかるのは当然のことで、テレビ放映に当たってはいろいろと悶着があったそうだ。
有名どころは黒澤明監督で、テレビ放映を許可するに当たって、サイズ・時間の何れのカット・編集も許さなかった。
また、森田芳光監督は、「家族ゲーム」のテレビ放映に当たって放送時間の制約からの編集を押し付けられたことに立腹し、最も重要なラスト前のシーンを全てカットして、原本の持つ強烈なメッセージ性と衝撃を自ら破壊した。
一方、大林宣彦監督は、「転校生」をテレビ放映のために自ら編集した。
対応に関してはそれぞれに違いはあるものの、何れも、自ら生み出した作品に対する愛着と観客を慮っての行為であったのだろうと、私は思っている。

そんなわけで、アンリ・ドカエのカメラがとりわけ秀逸なこの映画において、作者の意図しない強制的な画面切り取りという「編集」が施されていることには、やはり我慢ならなかったのは事実である。

しかし、それでも私は何度も観た。そしてそのたびに深く感動した。

原作であるベルナール・エシャスリオーの「ビル・ダヴレイの日曜日」では、ギャングとのからみという設定であったが、ブールギニョンはその原作の中から純粋な魂の触れ合いという形での究極の愛の姿を抜き出して映像化している(因に「ビル・ダヴレイ(Ville d'Avray)」は舞台となった街の名前で、木々に囲まれた池を持つ静かな地方都市である)。
この映画を撮った時、ブールギニョンはまだ三十代前半の若さであった。それゆえにこそ、そうした純粋なアプローチもあり得たのだろうか。
そのストーリーについてここでいちいち語ろうとは思わない。
なかなかビデオ化されなかったこの作品であったが、やっとのことでそれが成し遂げられ、渇望久しかったシネスコサイズで観ることができるようになったからである。
確かレンタルも可能であるはずなので、是非ともご覧いただきたい。ただ、もしかすると店頭に置いているレンタルショップはあまりないのかもしれないが。

先にも述べた通り、この映画におけるアンリ・ドカエのカメラは形容の言葉に迷うほどすばらしい。
彼は、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、ジャン・リュック・ゴダールなど、ヌーベルヴァーグの旗手と称せられた監督たちの撮影に積極的に関わり、その実験的な映像表現を実態のある絵として描き出していた。
その手法はこの映画でも如何なく発揮され、エレベーターの隙間、ガラス玉、シャンパングラスの底、曇りガラスを拭った跡、水晶玉、鏡、などを通した絵作りはどれも実に印象深い。
そのほかにも、屋根からの俯瞰でピエールとフランソワーズの二人をとらえたそのままの位置から風見鶏にチルトするシーンやピエールを追うフランソワーズの動きに合わせた自然なパンなど、誠に流麗だ。
しかし、何と言っても公園の池と樹をモチーフにした映像の深い表現はため息をつくほどである。
池に広がる波紋をこれほど効果的に描いた映像があろうか。
殊に、水面に映る二人の姿を追う映像が、投げ入れられた小石によって生じた波紋でゆがむシーンなどは夢と現の境界を描き出しているような、ある種の幻想と緊張感を醸し出している。

そして、モーリス・ジャールの音楽。
この映画は、この音楽によってさらなる高みに至った。
モーリス・ジャールは、いうまでもなく、「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」「インドへの道」など、ハリウッド超大作の映画音楽を担当し、何度もアカデミー作曲賞を受賞している映画音楽界きっての著名大作曲家である。
フルオーケストラをバックにした壮大なテーマ音楽は、これらの映画とは切っても切れないほど大きな存在であろう。
その一方で、ジョルジュ・フランジュと組んで実験的なコラボレーションを実現するなど、前衛的な音楽家としての活動も活発に行っていた。
そんなモーリス・ジャールの音楽について、個人的な感想を述べさせてもらうとすれば、これは恐らく一般的なものではないとわかってはいるだが、私は彼のハリウッドにおける仕事についてはあまり高い評価を下すことはできない。
もちろん、注目すべき作品も数多くあることを否定するものではないが、映画を産業の一つとして見る傾向の強い米国で、彼は才能を浪費してしまったのではないか、とさえ思えるのである。
全く牽強付会な言い草であろうことは重々承知してはいるものの、私は、モーリス・ジャールの音楽家としての映画への取り組みの最良のものはこの「シベールの日曜日」なのではないかと信じて疑わないのだ。
ベースのピッチカートを主にした弱音の表現は、画面への集中力を大いに高め、池の水面に広がる波紋につけられた不思議な上行音階は、それを見つめるピエールとフランソワーズのおとぎ話のような逢引(!)の持つ清らかな優しさを感得させる。
抑えた表現であるからこそ、音楽の持つ意味がそれだけ重要なファクターとなる例は、映像作品にはよく起こる現象であるが、それの誠に見事な結晶がここにはあるのだ。
さらに、冬枯れの池のほとりを歩く二人にかぶせられたアルビノーニのアダージョト短調の寂しげな調べ、遊園地での騒音めいた楽隊の演奏、フランソワーズとピエールが歌う歌の使い方、クリスマスにおける教会音楽、など、基本的にほとんど目立った音楽を入れない音楽演出の中であるからこそ、私たちはその都度ハッとさせられる。
モーリス・ジャールの映画音楽において、この「シベールの日曜日」の音楽表現は、繰り返しになるが「ブリキの太鼓」と並ぶ傑作であると、私は思っている。

この、映像と音楽との誠に以て幸福な出逢いが、この映画を観る喜びを私に与え続けてくれている。
その奇跡に心より感謝したい。

この映画は、ヴェネツィア国際映画祭の特別賞を受賞したほか、アカデミー賞外国語映画賞も受賞している。
そのせいもあってか、どうやらいくつかの版が存在するようだ。
フランス語の原題については標題の通りだが、米国での公開における「Sundays and Cybele」との間でも、いくつかの相違がある。
私が高校時代に観たものとNHK教育の世界名作映画劇場での放映版では、映画の終わりでのフランソワーズの「名前なんてない。前から名前なんかなかったし、私はもう誰でもないのよ」という慟哭のあと、唐突な「FIN」の文字だけでスパッと切れた。
しかし、VHSビデオ版では、そこに重なるように「Miserere mei Deus,」が歌われ、クレジットタイトルが流れていくのである。
どちらもそれぞれに趣があるが、私は初めて観た時の印象があまりに強いせいか、やはり「FIN」でスパッと終わる方にちょっと傾いてしまうかな。

「Cybèle(シベール)」はギリシャ神話のレア―に当たるとされ、ゼウスの母であり、穀物の実りを表象する大自然の女神である。
つまり、ハデス、ポセイドン、ヘラ、デメテールなどの母でもあるわけで、神々の母、ということにもなろうか。
その名前を、フランス語の「si belle(シベル)=とても美しい」になぞらえた時点で、この映画の成功は約束された。
フランソワーズから、その本名を聞いたときにピエールが、シベールの名前とともにこの「si belle」を繰り返すシーンの美しさは忘れられない。
私にとって何よりも感慨深いシーンの一つであった。

*************** ここまで ***************

この映画、ビデオ化もなかなかされなかったのですが、その影響もあってかDVD化もなされていませんでした。
それが昨年の6月に、HDニューマスター版で発売されたのです。

もちろん、速攻で買い求めたのですが、信じられないほどの画質でした。

ただ、これは贅沢な悩みというべきなのでしょうが、ノイズを除去し画像のエッジングを鮮明にしたことで、コントラストや画面の輝度が飛躍的に向上して、何だかちょっと作り物めいた「美しさ」となっています。
何といえばいいのか、完全なデジタルコンテンツ化、という感じでしょうか。
この映画は淡い感じのモノクロームが際立って美しい画面を形成しているのですが、あまりに鮮明になりすぎて、モノクロームにおいて最も重要な諧調表現があまりにも直截的なものになっているような気がするのです。
もちろんHD化によって情報量は飛躍的に増えているはずですし、水平解像度が最大でも500本程度だった旧来のアナログ信号と比較すれば、その解像度の改善効果は一目瞭然です。
もしかすれば、単なるノスタルジーに近い感情なのかもしれない、と思いつつも、何となく感ずる違和感を払拭できないでいるのです。
テレビをデジタル放送対応に買い替えたことで、その違和感がどうやらさらに増してしまったようです。
全く贅沢なものですね。

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コメント 6

ただの蚤助

こんばんは、蚤助です。
ブログのアップ、先を越されてしまいましたね(笑)。
「シベールの日曜日」で連想する映画があるのです。
それは「レオン」です。
シベールにはレオンのような派手なドンパチはないけれど、孤独な男と孤独な少女の心の交流を描いているというところからくるのでしょうか。
ハーディー・クリューガーに少年の部分があり、パトリシア・ゴッジに大人の部分があるところが、ジャン・レノとナタリー・ポートマンの関係に似ているのでしょう。
パトリシア・ゴッジは学校で呼ばれる名前と別の本名を持っていますが、その名が「シベール」。
これがクリューガーに対するクリスマス・プレゼントになるのですが、ラストで、クリューガーが変質者と間違えられて警官に射殺されてしまいます。
名を聞かれた少女が「もう名前はない」と叫ぶのが痛烈でした。
FINでスパッに軍配を挙げた伊閣蝶さんに一票を投じます。
クリューガーが射殺されるところを見せない間接話法に大いに共感をしております。
ついついノコノコ出てきてしまいました…





by ただの蚤助 (2011-08-08 23:06) 

伊閣蝶

ただの蚤助さん、こんばんは。
いつもながらの素晴らしいコメントをありがとうございました。
お先に失礼してしまったこと、何卒ご勘弁願います

「レオン」との共通点、全く同感です。
私はもう一つ、マーティン・スコセッシの「タクシードライバー」もまた想起してしまいます。
デ・ニーロに子供の部分があり、ジョディ・フォスターに大人の部分がある、というところもちょっと似通っていますでしょうか。

ピエールの射殺を伝える電話の使い方と、マドレーヌの慟哭が胸に突き刺さりました。
仰る通りその射殺というカタストロフを具体的にみせなかったからこそ、その事実が衝撃をもって観客に伝わってくる、という効果を上げていると思いますね。
誰ひとり悪意をもっていたわけではないのにもかかわらず、ラストは悲劇で幕を閉じ、そして誰ひとり幸福になったものはいない…。
辛い映画ではありますが、それ故にこそ心に響くものがあるのかもしれません。

by 伊閣蝶 (2011-08-08 23:31) 

hirochiki

映画監督の自分の作品に対する想いは、やはり並々ならぬものがあるのですね。
モノクロからデジタルに切り替わったことで違和感を感じられたとのことですが、
レコードからCDに替わった時に同じようなことを思われた方も多かったのではないでしょうか。
作りめいたものよりも自然なものの方が美しく感じることは、ありますよね。
by hirochiki (2011-08-09 05:39) 

伊閣蝶

hirochikiさん、おはようございます。
映画監督の中には、例えば溝口健二監督のように、作ってしまったものは排泄物と一緒だ、などという人もいれば、我が子のように愛しいという大島渚監督のような例もあります。
でも、溝口監督の発言にしても、彼特有の自己韜晦にすぎないのだと思われますし、その想いはやはり並々ならぬものがあるのに違いありません。
デジタルはon・offの世界ですから、信号がなければ「無」になります。
しかし、アナログの場合は「無」ということにはなりませんから、その辺りの感覚はずいぶん違ってくるのではないでしょうか。
人間が生物である限り、やはりアナログ的な生き方感じ方をするのであろうと思われますし、従って、その方が自然で美しく感ずるということは、仰る通りではないかと私も思います。
by 伊閣蝶 (2011-08-09 09:33) 

節約王

伊閣蝶様
こんばんは。記事拝見しました。私はこの映画は見たことがありませんが、大変なBIG NAMEであったこと、伝わってまいります。この映画の音楽は「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」「インドへの道」の音楽を手がけた”モーリス・ジャール”によるのもだったのですね。それだけでも大変な意欲作だったことを感じます。又、デジタルリマスターに対する率直なご感想!私も同じことを感じています。確かに美しく、優れた映像でとても見やすいのですが昔は悪い画像でも”当時の画像を使っているためお見苦しい場面がございますことお詫びします”という意味合いの但し書きを見てから古い映画を見た世代ですのでそのほうがなじみがあります。
ちょっと違うかもしれませんが違和感私も感じています。
by 節約王 (2011-08-11 20:54) 

伊閣蝶

節約王さん、こんにちは。
「シベールの日曜日」は小品ながら、結構な数のファンがおられるようです。
如何にもフランス映画らしい、静謐な美しさに溢れているからなのかもしれません。
モーリス・ジャールの音楽も大変素晴らしいものですから、もし機会がございましたら、是非ともご覧ください。
節約王さんもデジタルリマスターに対する違和感をお持ちとのことで、嬉しく思いました。
「当時の画像を使っているためお見苦しい場面がございます」とのお詫びが流れてからの古い映画の上映、確かにそうでしたね。私もそうした但し書き付きの映画を観ていた世代ですから、そうした根本的なところでも違和感を感じてしまうのかもしれません。
なるほどなあと納得しました。

by 伊閣蝶 (2011-08-12 11:59) 

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