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モーツァルトのレクイエム [音楽]

朝のうちは少しぐずった天気で、午前中は何だか怪しい雲が張り出していましたが、昼からは青空が広がりました。
明日はつかの間の「梅雨の中休み」となるようです。

天才モーツァルト。

皆さんはどのようにお感じなっておられますか?

私の周囲には、軽快で明るくて親しみやすい、というような感想を述べる方も結構おられ、それはそれで決して否定するものではありませんが、私はどうしても違和感を感じずにはいられません。

もちろん、モーツァルトが嫌いだなどということでは全くなく、むしろあの美しさや天上からの調べのような音楽に強い憧れを抱いている、というのが正直なところです。

しかし、何といいましょうか、モーツァルトの曲を聴いていると、胸が締め付けられるような気持ちになってしまうのです。
音楽を聴いて苦しくなる、というのは尋常なことではありませんが、特にDur系の曲では、クラリネット五重奏曲やアヴェ・ヴェルム・コルプスのような僅かな例外を除き、聴いていて「どうしてそこまで明るく振る舞わなければならないのか」と辛くなってきてしまう。

因果なことだと思います。

ですから、私が好んで聴くモーツァルト作品は、殆どがMoll系となります。

交響曲第25番・第40番、弦楽五重奏曲第4番、ピアノ協奏曲第23番・第24番、ピアノソナタ第14番。

そして、あのレクイエムD-Moll。

この未完のレクイエムについて、ここであまり詳細なことを述べるのは控えます。きっときりがなくなってしまいますから(^_^;

私は、合唱団の一員としてこの曲を5回ほどステージで歌っており、その折に触れて様々なことを考えてきました。
とりわけ、未完に終わったこの曲を取り敢えず演奏可能な状況にまで持っていったジュースマイヤーの努力には深い尊敬の念を抱いております。
もちろん、師であるモーツァルトとの違いはあまりにも歴然で、殊にSanctus以降のあまりに平板な音楽には愕然とさせられますし、Lacrymosaの冒頭部分と後半部分の彼我の歴然たる格差には呆然としてしまいます。
1961年に発見された、Lacrymosaのアーメンコーラスで用いられるはずであった二重フーガの草稿を見るに付け、これが補作としてであっても完成されていたら、あのLacrymosaはどれほど感動的な曲となったであろうか、などと空しい想いに掻き立てられたりもしました。

そんなことから、ジュースマイヤーの補作を軽々に扱う風潮もかなり顕著で、甚だしきは、ジュースマイヤー版の楽譜であるのにも拘わらず、曲の解説を担当した作曲家が「以下のジュースマイヤー補作部分については解説の必要はあるまい」などと書いてしまう度し難い態度を取る例まである始末です。
初めてこの下りを読んだときには、さすがに怒りで手が震え、名前は存じ上げておりましたが、特にこれといった特別の印象を持っていなかったその作曲家(日本人)に対してかなりの悪感情を持つに至りました。

requiem01.jpgモーツァルトのレクイエムといえば、カール・ベームとウィーン・フィルによる1971年の演奏がすぐに思い出されますが、この演奏においては、後半のジュースマイヤーによる補作部分がとりわけ感動的ではないかと思っております。
今から36年くらい前の高校三年生の時に、このレコードを聴き、感動のあまり涙を流したことが忘れられません。
自分がこの曲の演奏に拘わるようになって何度か聴き返したのですが、恐らくベームは、ジュースマイヤーが抱いていたであろう恐怖に近いプレッシャーに対して相当深い同情心を抱いていたのではないかと感じたものです。
神とも崇めた不世出の天才である師匠の曲と、それには及びもつかない自分の曲が、これから先、様々な機会において比較され、その比較論の中では間違いなく自分の曲が貶められることになる…。
もしも、私がジュースマイヤーの立場であったとしたならば、その想像を絶するような恐怖にとても耐えられそうにはありません。如何に未亡人からの強い依頼があったとしても、です。

requiem.jpgさて、そのレクイエムの演奏ですが、先に述べたベームのほかに、私としてはどうしても閑却できないレコードがあります。

カール・リヒターとミュンハン・バッハ管弦楽団・合唱団による1960年の演奏です。

当時のリヒターとミュンハン・バッハの面々は、バッハのマタイ受難曲やヨハネ受難曲、ロ短調ミサなどの大曲を次々に発表し、世界を驚嘆の渦に巻き込んできた存在でありましたが、その脂ののりきった時期に録音されたのが、この演奏です。

些かも無駄なところのない筋肉質な演奏。
正しく宗教曲としての王道ともいうべき演奏でしょう。
特に合唱のすばらしさは特筆もので、無用なビブラートは一切使わず、必要な部分は恐るべき正確さで揃えている。
いったいどれほど鍛え上げればこんな演奏ができるのだろうと、初めて聴いたときにはため息が出るほどでした。
しかし、これほど厳しい演奏も他には例を見ません。
ベーム演奏によって心を癒される人は数多く存在すると思いますが、リヒターのこの演奏は、その透徹した厳しさに耐えられる人のみに感動を呼び覚ますのではないか、とまで思ってしまいます。

だから私は、このレクイエムの演奏に参加する際において必ず繰り返し繰り返し、このリヒターの演奏を聴きました。曖昧なところが一切ないからです。
そして、そうして繰り返し聴くことにより、当初あまりにも厳しすぎると思っていたこの演奏こそが、真の意味での魂の安らぎにつながってくるということを実感したのでありました。

今の私にとって、これを超える「モツレク」は存在しません。
ただし、その厳しさゆえのことでしょうか、師匠と弟子の実力の差が、これほど残酷に歴然と感得される演奏もちょっと例を見ないところではあり、ジュースマイヤーにとって誠に気の毒な限りではありますが。

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