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オクターブのこと [雑感(過去に書いたもの)]

私は中学校・高校時代を通じて吹奏楽部に所属しており、楽器に対してはかなり強い愛着があります。
吹奏楽以外でも、高校時代からリコーダー・アンサンブルなどを結成し、得意の肉体労働で木製のリコーダーを購入したりしておりました。
社会人となってからは、雅楽にも興味が湧いてきて、龍笛・篳篥の演奏も趣味の一つになっています。
篠笛やケーナなんかにも手を出していて、ちょっと収まりがつかないような状況ではありますが。

ところで我々は楽譜というとやはり五線譜を念頭に置いてしまいがちですが、いうまでもなくこれは数多ある筆記法のひとつでしかありません。
雅楽の楽譜や邦楽器の楽譜を見た人はわかると思いますが、要はそこで鳴らして欲しい「音」を、強弱や音色も含めて記すという基本的な目的にさえ合致しておれば、それを読むことによって作者の意図した音楽を再現することが可能となるわけです。

洋の東西を問わず、人が認識する音自体にそれほどの乖離があろうはずはないのだろうなと漠然と考えていたところ、宮城谷昌光さんの「史記の風景」を読み、やはりそうであったのかと得心し、その勢いで、次のような文章を書きました。

****** ここから ******

人はそれぞれの過ごしてきた環境から、さまざまな思いこみを有しているものであるが、それは音においてもおそらく同じものなのだろう。しかし、根本的なところはどれも同じく「感覚」よっているものなのかもしれない。

1オクターブを12音で区切る、その無調性という概念、これを私は現代音楽の一つの象徴的な理論だと思っていた。

中国の音階の中で黄鐘という基準音がある。この基準音を元に12律という概念があり、これはオクターブを12音で区切るということを指している。より正確に言えば、その12律の中の奇数の音を「律」といい、偶数の音を「呂」という。
つまり黄鐘はその6律の中の基準ということであり、そこから他の律の音が定められていくというのである。
雅楽はここから音階が作られており、当然のことながら、日本の陽旋法も陰旋法も、これら12律が元になっているわけだ。

つまり、人間の音に関する感覚は、オクターブを12音で区切るという面からいえば洋の東西を問わず共通しているということではないか。

オクターブの中で、ちょうど真ん中にあるのは嬰ヘ。そういえば、不思議にこの音は他の半音と違って取りやすい。もしかすればオクターブの感覚が人間の根元的な部分に依拠しているものであるからなのかもしれない。

「史記」の「天官書」によると、正月元旦の日差しが明るいとき、都に響く人民の声が宮音であればその年は良い年とされた。中国には五音というものがあり、それは、「宮・商・角・徴・羽」と呼ばれる。これは「ド・レ・ミ・ソ・ラ」に当たるとされ、従って、「宮」はドということになる。つまり、正月元旦の声がドに聞こえれば良い年ということなのだろう。
因みに、商(レ)では戦争の勃発、徴(ソ)なら旱害、羽(ラ)は水害、角(ミ)はそれ以外の凶事、ということらしい。

こんなことを知ると、人の心に安らぎを覚えさせる音と、そうではない音の存在は俄に現実味を帯びてくる。ドイツの音楽理論家ヨーハン・マッテゾンはそれぞれの調性に対して意味づけを行ったが、これに関してもやはり、人間の魂の根元に関わる感覚に帰されるところなのかもしれない。

いずれにしても、こと音に関する限り、人の感覚は同等なのだなと、当たり前といえば当たり前のことに、なぜか深い感慨を抱いてしまった。

****** ここまで ******

音楽の基本となるAの音、440Hrz。
音色を左右する倍音はここから展開していきますが、人が生まれるときに最初に発する産声は、このAの音であるといいます。
つまり、何ものにも染まっていない生まれたままの人の中で鳴っていた音はAだった、ということになり、それは母体にいるときのお母さんの心拍音だったり血液の流れる音だったり、もっと天上的・普遍的なものから発せられる音であったのかもしれません。
だから人は、その基本の音に反応し、そこからオクターブ、つまり倍音を認識していくのでしょう。

私は残念ながらピアノをきちんと習ったことがないこともあって、いわゆる絶対音感はないのですが、吹奏楽や合唱をやってきたおかげで相対音感は多少身についているような気がしています。
というよりも、ピアノのような鍵盤楽器での演奏以外で平均律を全うするのは通常困難なのではないかと思います。
私のような人間において最も重要なのはむしろ準正調の方でしょう。
雅楽や邦楽器はもちろん、声楽でも準正調の意識が欠落していては演奏ができません。
殊に合唱やアンサンブルでは必須の条件のように感じているのです。
その準正調も、やはり自分の心の中で鳴り続けてきた音(Aの音)が元になっているのであるとすれば、人間と音楽の関係とはなんという不思議なえにしなのでしょうか。

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Cecilia

準正調は純正調(純正律)だと思っていました。(苦笑)

>正月元旦の声がドに聞こえれば良い年ということなのだろう。

おもしろいですね!

どうも私は調性の感覚が鈍いようです。
声楽曲では移調は当たり前ですが、調性を重んじる方から見たらとんでもないことなのだと思います。
でも基本的に原調主義で、歌曲など自分にとっては低くても原調で歌うようにしています。(高い場合はあきらめます。)
絶対音感に関してですが、自分が音感がなくて苦労しているので娘たちに絶対音感を付けさせようと試みた時期があります。(通信教育)
by Cecilia (2010-06-13 09:06) 

伊閣蝶

Ceciliaさん、nice!とコメントありがとうございました。
宮城谷さんの「史記の風景」は非常に面白い本で、どの話題もなるほどと感心させられますが、この調の話はとりわけ興味深いものでした。

ところで調性に関してですが、アンサンブルを基本にする音楽活動をしていると、基本的に和声を重視する方向に行くような気がします。
特に合唱では、合わせているうちに往々にして音が下がっていく傾向がありますが、頑張って平均律に戻そうとすると、全体の和声が崩れてしまいます。
例えば、ゲネラルパウゼの後のような場合に、節目できちんとした絶対音感を持った人が平均律に戻すのであれば、和声的な混乱は生じないと思いますが、ずれていくのが気持ちが悪いからといって曲の流れの中で、現在鳴っている和音を無視して平均律に戻そうとするのは全体のアンサンブルを崩してしまうことになるのではないかと思います。
そんなこともあって、私は、ソロの場合でもアンサンブルの場合でも、最初の音をとるときには、必ずその音の主和音を頭の中に鳴らしてからとるように努めています。

それとは別に、独唱の場合、原調主義を守られることには私も大賛成です。
仰る通り、「この歌が好きで歌いたいけれども、私の音域では歌えないので移調して下さい」みたいなことを仰る方もおられますが、作曲する側からすれば、それなりの意味があってその調性を選んでいるのですから、原調を無視されるのはやはりかなり残念なものがありますね。
by 伊閣蝶 (2010-06-13 10:51) 

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