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バーンスタインのブルックナー9番(DVD) [音楽]

どうもブルックナーの9番ばかり取り上げている傾向が強くて、誠に公平性を欠いているなと内心忸怩たるものがあるのですが、1990年3月のウィーン楽友協会大ホール(ムジークフェライン・グローサーザール)でのこのライブを聴いて(観て)しまっては、やはり何も書かずにはおられません。

思えばこの年の10月に、バーンスタインは肺がんのため72歳で亡くなってしまうのですから。

さて、このDVD、「黄金のホール」とも呼ばれるウィーン楽友協会大ホールの美しさに、まず目を奪われてしまうことでしょう。
私は残念ながら、その実物に接したことはありませんが、絢爛豪華な内装とともに大変響きがよいホールであろうことは、例えば毎年元旦に全世界でTV中継されるニューイヤーコンサートをこたつにあたりながら観ていても想像がつきます。

もうこのときには、病も相当に進んでいたのでしょう、顔色も余りさえず全身の疲労感が漂うようなバーンスタインの姿は、あの指揮台の上で飛び跳ねる元気印の指揮ぶりとはあまりにかけ離れたもののように感じました。
しかし、演奏が始まると、そのような懸念は遙か百万光年の彼方に飛び去り、全身全霊をかけてこの曲を演奏しようという強靱な意志がびんびんと伝わってきます。
ことに、第二楽章のものすごさはどうでしょう!
70歳を超えて、しかも病魔に冒され死の影が漂ってきていた人の演奏とはとても思えません。
特にティンパニの打ち込みの鋭さはものすごく、身の毛のよだつ想いにさせられました。
躍動感、というよりもむしろ死の舞踏という感じでしょうか。それでなくとも厳しさと深さを湛えたこのスケルツォをここまで凄絶に演奏した例を私は寡聞にして知りません。

そして、アダージョ。

恐らく現存するブルックナーの曲の中でもひときわ美しく深いこの曲を、バーンスタインは粘りに粘って大ホール全体に響きわたらせようとするかのように表現しました。

この曲は実に多くの貌を持ち、それは時間とともに刻々とその表情を変えていきます。
それ故に、ともすれば破綻しそうな懼れを抱えながら、危うい一点でかろうじてバランスを取っている、といった感が私はするのです。
従って、この曲ほど演奏者によって表情が大きく変化するものも少ないことでしょう。

この演奏は、正しくバーンスタインによってウィーン楽友協会大ホール内に構築された創造物であり、その巨大さには身震いがするほどでした。
混沌とする音の固まりの中でうごめきながら、破綻をぎりぎりのところで回避し、やがて透明な和音を奏でながら虚空に溶け込んでいく、そんな印象を受けました。

やがてバーンスタインが、憑き物が落ちたかのように指揮棒をおろすと、客席からは万雷の拍手が送られます。
バーンスタインやウィーン・フィルの楽団員がその拍手を浴びている中でブラボー・コールも起こりますが、日本の演奏会で良くありがちな「我先に」的ブラボー・拍手とは大きく異なるものでした。
もちろん、これはそうしたノイズをDVDにした折に取り除いた結果なのかもしれませんが、これも大変好もしいものでした。

さて、この演奏、評論家や一部のブルックナーファンからはさんざんな非難を浴びたそうです。
いわく「ブルックナーらしくない」「これではマーラーだ」などと。
ヴァントやレーグナーや朝比奈の演奏を以て、「これこそブルックナーだ!」と信奉する人々にとって、この演奏は恐らく我慢のならないものだろうと思われます。私自身、9番の演奏ではやはりシューリヒトとウィーン・フィルのコンビが最高と考えておりますので、その気持ちもわからなくはありません。
また、宗教観の違い、みたいなことをいう方もおられるそうです。
ユダヤ教徒の家庭に育ったバーンスタインには、この曲の持つカトリック的な精神性は理解できまい、ということなのでしょうか。
しかし、このことをいえば、例えば朝比奈隆さんがスイスで交響曲7番を演奏し観客に大感動を与えた時も、現地の方から演奏の前に「カトリックの信者でもない者がブルックナーのシンフォニーを演奏するなどということは信じられない」と言われたそうですから、これも言いがかりに近いような気がします。

しかし、遺された楽譜のみで作曲者の意図を完全に理解することは殆ど不可能に近いわけで、その意味で演奏という行為がその曲の再構築つまり新たなる創造であるとするのであれば、その楽譜の紙背を見通す眼力と努力の元でそれを表現しようとする人々には、それぞれに全く違った想いと演奏形態があっても当然なのではないでしょうか。
要はそれを受け取る観客の側にその判断は任されるわけで、例えば宗教観などを背景に聴きたい人は、それを感得させてくれる演奏を聴けばいいのであるし、ひたすらに音楽的な響きを追求する人はそのような意識で聴き、好みの演奏を選べばいいことなのです。

バーンスタインは(マーラーはあれほどまでに取り上げながら)、ブルックナーの曲は殆ど取り上げず、この演奏のほかにはニューヨークフィルとの9番と6番の演奏が録音で残されているだけだとのことです。
己の命の限界を認識していた可能性の高い彼が、ここでブルックナーの白鳥の歌を取り上げ、見事に歌いきった。そしてその映像が今ここにある…。
そのことだけでも、私には貴重な恩倖の一つだと思われてなりません。

最後に大変好ましくも不思議なことなのですが、このDVD、ものすごく音が透明で美しいのです。ノイズも殆どありません。
ライブであったことを最後の拍手で知るくらい(画像があるのでそれは極論ですが)です。
いい加減なビデオの粗製濫造もある中、この制作者の真摯な対応も特筆すべきと思う次第です。

もう一つ。書き忘れましたが、このDVD、なんと1500円ちょっとで買えてしまうのです!
嘘だと思われたら、上の画像リンクをクリックしてみて下さい。
ね!びっくりでしょ!
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コメント 6

cfp

バーンスタインというとやはり、マーラーのイメージが強く、
ブルックナーはほとんど振っていないのが現実です。

ウィーン楽友会協会大ホールは新婚旅行で訪れました。
名門ウイーンフィルのホームグランドでもあり、
残響音も含めて、すばらしいホールだと思いました。
(残念ながらウィーンフィルではありませんでしたが)

言われてあらためてバーンスタインのブルックナーに
興味が湧きました。

一度、聴いてみます。

by cfp (2010-02-13 18:38) 

伊閣蝶

cfpさん、こんばんは。コメントありがとうございます。

バーンスタインほど深くマーラーにラポールしていた指揮者は少ないことでしょうし、ワルターやクレンペラーやテンシュテットのように、ユダヤ系とはいえ、出身及び活動の拠点が欧州だった指揮者とは違って、やはりマーラーと同様にブルックナーを取り上げる気持ちがそれほど強くなかったのかもしれません。
それが、いよいよの時を迎え、ブルックナーの、それも第9番をウィーン・フィルで演奏した、というところが何ともいえず感慨深いものを感じます。
ブルックナー的な、という観点からは違和感もあるかもしれません。
それでも、この演奏はお聴きになって後悔はないと思います。
この演奏はCDも発売されておりますが、価格的にはこのDVDの方がむしろ安いくらいです。
また、映像で観るバーンスタインとウィーン・フィルの真剣勝負は、実に見応え十分で、当日の演奏が如何に凄絶なものであったかが手に取るように判ります。
おすすめです。
by 伊閣蝶 (2010-02-13 21:53) 

cora

初めまして。実は《岡林信康「レクイエム-麦畑のひばり-」》を検索していたのですけど、すぐ前の記事が「バーンスタインのブルックナー9番」だったので、大喜びでこちらへ飛んできました。

私は12歳の時からバーンスタインの大ファンで、もうすぐ「ファン歴30年」に近づこうとしています。21歳の秋に訪れたショックで、長い間放心状態の年月を送りました。ドイツ・グラモフォンに残された録音を「遺作リスト」と呼び、最後のリリースとなったブルックナーの第9番を待ち焦がれました。だから、この演奏は「ブルックナー愛好家が何と言おうと」私の最大の宝物です。

後に第6番が見つかった時「なぜ第9番と第6番を?」と考えました。唯一の共通点は「ブルックナー特有の版問題がないこと」。それで、バーンスタインにブルックナー演奏が少なかった“答えのない質問”に、私なりの答えを見つけることができました。たとえ第8番のような名作であっても、版問題の「あるもの」は自らのレパートリーに含めなかった。彼自身も作曲家として「キャンディード」やオペラ「静かな場所」(後に「クワイエット・プレイス」となる)、交響曲第3番「カディッシュ」などで改訂問題を抱えていたから、ブルックナーの版問題も作曲家の見地からとらえていたのではないか。苦手だったのではなく、試行錯誤のもどかしさを理解できたから…今はそう考えています。(大変長々と失礼致しました。)
by cora (2010-03-21 00:04) 

伊閣蝶

coraさん、コメントありがとうございました。

12歳からバーンスタインの大ファンとのことで、これはまた大変なことと感動しました。
それ故に、その秋の出来事のショックの大きさは忖度するにあまりあります。

ところで、なにゆえにバーンスタインが取り上げたブルックナーの交響曲は6番と9番であったのかに関するご高察、なるほどと存じます。
確かに、この二つの交響曲には、あの煩わしい版の選択の必要はありません。
バーンスタインが作曲家としての見地からそれを捉えていたのではないかとのご意見も大変頷けるところでした。
by 伊閣蝶 (2010-03-21 00:34) 

cora

申し訳ございません。上記コメントに一部誤りがありました。
オペラ「タヒチ島の騒動」(後に「静かな場所」となる)でございます。前身の1幕オペラを書き違えました。
これは「初期の作品を、後期の様式に作り替えようとした」点が、ブルックナーの交響曲第1番との共通点を感じさせるケースだと思いました。

by cora (2010-03-21 06:24) 

伊閣蝶

coraさん、おはようございます。
ご丁寧な訂正コメント、ありがとうございました。

「初期の作品を、後期の様式に作り替えようとした」、この点は、作曲家として恐らく当然の欲求ではないかと思います。
マーラーも、いったん作り上げた作品を、実演を通じて響きを再確認し必要な加筆・訂正を行ったそうですし。
特に、そのマーラーの系列(オーケストラの指揮をメインとしつつ作曲も精力的に行う)にあるバーンスタインやブーレーズ、日本では外山雄三といった人たちは、自分の作品を自分の耳で実際にチェック出来るわけですから、可能な限り手を入れたくなる気持ちも理解出来ますね。
本文でも書きましたが、演奏という行為は、楽譜という「ヒント」を元に作品を再構築・創造していくものでありましょうから、そこにはやはり創造者としての才能は不可欠なのでしょう。
バーンスタインは、特にその作曲家としての才能が指揮のクオリティを高めていくという相乗効果を遺憾なく発揮出来た希有の存在ではないかと思います。
私は、バーンスタインの演奏に接するたびに、新たな作品を聴かせてもらえるような喜びを感じてしまうのです。
ライバルともいわれたカラヤンとの決定的な違いは、この辺りにあるのでしょうか。
by 伊閣蝶 (2010-03-21 09:54) 

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