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「立体感」と「藝」 [雑感(過去に書いたもの)]

かなり以前に、音楽や芸術に関する雑感などを綴ったウェブサイトを立ち上げようと考え、試しにいくつか拙文を書いてみたことがありました。
結局、様々な事情(HTML文書を書くのが面倒くさい、とか)があって、そのまま頓挫してしまったのですが、今回、ブログを始めるにあたり改めて目を通し、せっかくなので折に触れて掲載してみたいと思います。

そんなわけですから、文体や書いた時期などは特に変更せず、そのまま載せます。

最初に取り上げる記事は、2005年の年明け早々の頃のもので、当時、NHK総合テレビが土曜日の午前中に放送していた「土曜インタビュー」を観て、感動のあまり一気に書いたものでした。

因みに題名もそのときのままのものです。

****** ここから ******

先日の土曜日、NHKの土曜インタビューで桂米朝師匠が出演されていた。
NHKの土曜インタビューは、三宅アナウンサーの絶妙な呼吸もあって、実におもしろい番組だが、とりわけこの日のインタビューは興味深かった。

落語は、地の文のほとんどない会話体の中で、如何にその場面を的確に描写できるかが勝負所であるような気がする。

例えば、会話をしている場所が長屋の一室かお城の奥御殿であるか、はたまた道ばたの立ち話か、そうした情景を観客の脳みそにきちんと構築させるため必要となるのは、話術ももちろんのことながら、目線や仕草が大きくものをいうのだという。

そして、一番大切なことは「立体感」なのだ、と。それをどう表すか、これが一つの勘所である、とのことであった。

目から鱗が落ちる想いがした。

いや、考えてみればごく当たり前のことなのだ。だが、それがそれと観客に気づかせないうちにごく当たり前のように演ずるためには、どれほどの精進が必要であることだろう。

「立体感」、それを噺の中で構築する…。なんという世界なのか。

落語家は、手ぬぐいや扇子といったごく限られたアイテムをフル回転させて、火鉢を囲んでの世間話から、時には壮大な地獄絵図まで表現する。名人といわれる人たちのそのときの目線や仕草が毛筋一本ほどの油断もなく完璧に「演出」されていること、そのことに観客は全く気づくこともなく、ただただ構築されたその話術の中に想像の世界を、それこそ「立体的」に脹らませていくわけだ。

「藝」というものは、本質的に人々を幸せな気持ちにさせることを目的としている、これは能楽・大鼓方の大倉正之助の言葉だ。争いのない平和な世界を届けるためにこそ、「藝」は存在するのだ、とも。

落語が笑いの中に深遠な情の世界を描き出していること、上っ面ではない深いところに哀しみも含めた情が存在し、それを解放し高めることで、より満たされたカタルシスを与えてくれる…。

芸術とは本来こうしたものであるべきなのかもしれない。そして、そのために惜しみない精進を重ねる。決して観客にはそれと気づかせないようにして…。

翻って、大衆などに私の芸術がわかるはずがない、みたいな大きな勘違いをする御仁に時折遭遇することがあるが、そうした思い上がりや過剰な自意識が支配する限り、観客の心の中に壮大な構築物を築き上げるような表現を成し遂げることは全く不可能だろうと思う(たちの悪いことに、こうした似非芸術家をつけあがらせるような半可通の観客もいて、ペダンチックで晦渋なものこそが優れた芸術である、といった体の不毛な独りよがりを訳知り顔で開陳し、悦に入ったりしている)。

観客の心の中に、如何に自分の伝えたいものを想起させることが出来るか(それも「立体的」に)、そのために表現者としてどう取り組むべきか、そのことを考える上からも、誠に意義深い米朝師匠の言葉であった。

「藝」の精進は、決して一朝一夕には成し遂げられない。もしかすれば、一生それを追求しつつ、満足を得られぬままに最期の刻を迎えることになるのかもしれないのだ。しかし、それこそが芸術家が自ら選び取った道であり、神によって選ばれたが故の使命なのであろう。それは誰にでもできるようなことではないのであるから。

****** ここまで ******

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