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実演とレコード(CD) [音楽]

今日は久しぶりに曇天の一日でした。
気温も低く陽射しもないので、食料の買い出しなどの用事がない限り、外に出るのは億劫なもの。

そんな日は、家で音楽を聴くのに限ります。
お気に入りのCDをかけて、その音の中に浸るとき、何ともいえない愉悦を味わいますが、こうしたことを可能にしてくれたエジソン様に感謝したい気持ちになりますね。

とはいっても、もちろん私も感動的な実演を数多く聴きたい気持ちが強いことは否めません。
しかし、こんなことを言うのは情けないことですが、実演での当たり外れという感覚からどうしても自由になれないのです。
はっきりいって、それなりの演奏家や指揮者やオーケストラの実演を、最高の音響で楽しもうとすれば、それ相応のコストがかかりますし、物理的な演奏日程に縛られることにもなります。
それでも、その演奏が本当に感動的なものであれば全く問題などないのですが、そうした期待はしばしば裏切られますし、私が思う音響的に最高のポジションというのは、演奏会場においては空中(マイクなどがセットされている辺り)になってしまうことが多いので、これも難しい。

さらに最も我慢がならないのは、観客の態度です。
特にメジャーな曲の演奏に顕著なフライング的拍手とブラボーコールは犯罪的行為ではないかとも思います。
演奏が終わってしばらくの間、ホールには響きが残り、聴き終わった観客の心の中にもまだその余韻が鳴り響いているのに、指揮者が指揮棒をおろさないうちから「ブラボー!」「パチパチパチ」と先を争うような雑音をたてる。
「オレはこの曲が終わったことを知っているのだ」とでも自己顕示的にアピールしたいのでしょうか(そんなもの、楽譜の上だけなら誰でも知っていますよね)。
そうではないという人もいるのかもしれませんが、あまり有名ではない曲の場合は、指揮者が指揮棒をおろして後ろを振り返るまでは拍手が起こらなかったりするので、私はやっぱり自己顕示欲によるものだと考えています。

交響曲や協奏曲などの楽章の間での咳払いも結構耳障りですね。
生理現象なのだから仕方がないのかもしれませんが、それならフォルテシモで全楽器が響き渡っているときにこっそりやれば、あまり他の人の気にはならないのではないかと思います。

近頃では、演奏の真っ最中に私語を交わしたり、ビニール袋をガサガサさせてペットボトルのお茶を飲む、なんていう人もいるのだそうです。

演奏を純粋に楽しみたいと思い、決して安くはないお金を払って演奏会に足を運んだのに、こんな低レベルなことで気持ちをささくれ立たされるのではとてもがまんがなりません。

そんなわけで、私はだんだん実演に足を向けることが少なくなり、今では下手をすると数ヶ月に一度くらいしか行かなくなってしまいました。
そんな時間があるのなら、お気に入りの演奏のCDを家で思う存分聴いていた方が精神衛生上もよほど健全ですから。

でも、そうやって何度も録音で演奏を聴かれてしまう演奏家の気持ちはどうなのでしょうね。
能に限らず、舞台などの再現芸術は、基本的には一期一会の表現であります。
そのときその舞台に立ち会うことの出来た人たちのみが共有できるもの、なのではないでしょうか。
だから、CDなどに録音されている演奏といっても、最初から録音を企図して製作されるスタジオ録音とライブ録音とでは大分事情が異なってくるような気もします。
どうも演奏家というのは古くさいことをいうようだけれども、その瞬間で消えることを追求してやっているんで、レコードのみなさん、なんで死んだあとまで、せめて家族がそのあと潤うならばいいけれども、本来の瞬間の演奏家を死なせてやらないんだろう。要するに死なさせてやるべきじゃないかと思うんです。

これは「名指揮者50人(芸術現代社)」に掲載された鼎談での岩城宏之さんのお言葉です。
全く仰る通りで、チェリビダッケが録音を許さなかったことも当然のことではないでしょうか。

ライブ演奏には、当たり前のことですが、どうしても多少のキズはつきものになります。
まともな演奏家なら、そのキズのことをきっと引きずってしまうことでしょう。
全体としてどれほど感動的な演奏であったとしても、また、それを観客が喝采をもって受け入れたとしても、演奏家はやはり完璧を目指すものなのです。
また、そうでなければプロとはいえません。
そんな真のプロフェッショナルである彼らにとって、一期一会で終わるはずの演奏がいつまでも残されるのはかなり耐え難いことなのだろうと思います。

また、さらに根源的なこととして、演奏は、その時その場所のホールの響き、客層、オーケストラのレベル、そしてその精神状態などの状況において全く異なる表現手段をそれぞれに選択しなければならず、それは再現芸術の宿命であるという事情が横たわっています。
それらの要素が変われば、当然にテンポも各パートの強弱も響きもそれに合わせて変えていかなければならないわけです。
その演奏はその時限り、ただ一度のもの。
そう考えるとすれば、ライブ録音などというものは、そうした再現芸術としての音楽のありようと基本的に相容れないものではないでしょうか。

でも、私たちは、それでもそうした演奏の録音を求めてしまう。純粋に感動を得たいがために。
難しいものですね。
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