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百日紅の花 [音楽]

sarusuberi01.jpg今日も強烈な暑さとなりました。
昨日、間欠的に起こる渋滞の中を、車ともども蒸し焼き状態みたいな感じで会津から帰宅しましたが、今日の暑さはそれ以上のような気もします。

それでも昼休みに日比谷公園へ出かけたら、百日紅の花が咲いていました。

私はこの花も大好きなのですが、なぜか「気づいたら咲いていた」という状況の時が多いのです。
今回もそうで、「いつ咲くのかな」と気にかけている私のすきをついて、あの桃色の可憐な花をつけてしまうのです。

なーんて、注意力が散漫な私の方に難があるのは言うまでもないことなのですが。

ところで、百日紅というと、私は福永武彦の「草の花」を思い出してしまいます。

私は福永武彦の大ファンなのですが、その作品の中でも、とりわけこの小説がお気に入りで、初めて読んだ19歳の頃から、もう何度読み返しているかわからないくらいです。

結核療養所の病棟でベッドを隣り合わせる「私」と「汐見茂思」が、雪の積もる冬の丘の上に立つ百日紅の木の前に佇んで、「私」はその滑らかな木の肌を撫でながら、葉を落としこの寒空にありながらなおも生きて、夏には葉を茂らせ花を咲かせるこの木の不思議な生命力に感嘆する。
しかし汐見は、そんな木のありようを「馬鹿げている」と一蹴し、こんな姿で生きながらえていて一体何の意味があるというのか、死んだふりをしやがって、と、文字通り、履いていた下駄で蹴りを入れる。

この二人の対比は、つまり、生きるということに対する意欲とそれにつながる未来への展望の違いを象徴するものなのですが、ご興味のある方は是非とも「草の花」をお読みいただければ、と思います。

福永さんは、小説の構成や背景に音楽とか絵画を具体的にイメージして書くことが多い(「風土」におけるベートーベンの月光、「告別」におけるマーラーの大地の歌、「死の島」におけるシベリウスの四つの伝説曲など)のですが、この小説もショパン、それもピアノ協奏曲第1番がモチーフとなっています。
小説の中で汐見は、ショパンを甘いなどという人がいるけれども、一つの芸術的作品を生み出す努力や苦しみがどれほどのものかわかっていないからそんなことを軽々しく言えるのだ、と語りますが、これは福永さんご自身の思いが投影されたものなのでしょうか。

さて、ショパンのピアノ協奏曲第1番は、私の大好きな曲の一つでありますが、残念なことに、「これは」という演奏になかなか出会うことがありません。
実演も何度か聴いたことがあるのですが、演奏者さえ思い出せないほどのものばかり(失礼!)。

因みに今まで聴いたレコードの中では、サンソン・フランソワのピアノ、ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団によるものが一番でした。
しかし、これはすでに廃番になっていて、CDで復刻されたときに買っておかなかった不明を今でも後悔しています。
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