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ブルックナーの5番 [音楽]

ブルックナーの交響曲では、後期の7・8・9番が圧倒的な高みにある、というような意味のことを先日ここに書いたばかりですが、もちろん、そのほかの曲も大変魅力的なものばかりです。
弦楽五重奏曲や宗教曲ももちろんですが、交響曲でも、例えば3番や5番などは特に強く印象に残りますね。

とりわけ5番の存在は大きく、後期(殊に9番)に行くほど形骸化が進む各楽章の形式も、ここではかなり厳密に守られており、終楽章の壮大な二重フーガに象徴されるような厳格な対位法的構築に魅了されてしまうのです。

第一楽章の、低弦のピッツィカートにヴァイオリンやヴィオラの弱音がモーツァルトのレクイエムのIntroitus(入祭唱)を想起させる旋律を載せて出てくる序奏。ゲネラルパウゼの後、金管のコラールが咆吼し、やがてヴィオラとチェロによる流れるような第一主題が提示されてくる。
このように書いているだけで、その壮麗な音の流れが頭の中を巡ってきます。

そして、2楽章のアダージョ。
2/2拍子で低弦のピッツィカートが三連符を響かせる中、オーボエによるうら悲しいA主題が出てくるのですが、一瞬どちらが主体的な拍子なのかわからなくなってしまいそうになります。
事実、初めて聞いたときには手元にスコアがなかったので、大いに狼狽えたものでした。
ゲネラルパウゼの後、弦によって甘美なB主題が歌われると曲想はにわかに大きく広がっていきます。
もう四半世紀以前の話になりますが、日頃クラシック音楽などには縁遠い妹がこの楽章を聴いて感に堪えないようなため息を漏らしたことを思い出します。

などと長々書くのも烏滸がましい話でありますので、蛇足的な物言いはこの辺でやめにしますが、こうした各楽章の総決算が終楽章であり、ベートーベンの9番と同じく、終楽章においてそれまでの楽章の主題が次々に提示され、それがやがて壮大な二重フーガとなって最高潮に達しながらその頂点で終結する様の見事さは筆舌に尽くしがたいものだと思います。

さて、5番のレコード(CD)です。

様々な名盤が居並ぶ中で、毀誉褒貶が著しいながらも、私はマタチッチが手兵チェコ・フィルを指揮した1970年11月の録音が忘れられません。

「こんなに楽しいブルックナーの交響曲があってもいいのか!」というのが、最初に聴いたときの素直な感想でした。
悪名高きシャルク改訂版の残滓が残る部分に多少の受け入れがたさはありますが、終楽章のクライマックスに向けて増強した金管とシンバルなどの打楽器を追加した効果はものすごく、正に息をのむ演奏です。
70年以降、ハース版やノヴァーク版など原典版での演奏が一般化され、もちろん、こちらの方がよりブルックナーの意図に合致していることは否めませんが、マタチッチはきっとそれを百も承知で、シャルク改訂版のつまみ食いをしたのではないか、などと思ってしまいました。
そうした別の意味での興味深い部分は除いたとしても、このCDは第2楽章のすばらしさだけで他の演奏を圧倒していると思います。
正に自然体。何らの技巧に走ることなく、淡々と美しい旋律が体の中を流れていく、そんな想いにさせられました。

※蛇足ついでですが、1980年12月のマタチッチとチェコ・フィルによるブルックナー9番のライブ録音CDには正直がっかりさせられました。演奏自体はすばらしかったのではないかと思われるのですが、音質が悪いことと録音の音量レベルが低いことに起因する(と思われる)ライブ特有の雑音が耳について楽しめなかったのです。
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