シェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」 [音楽]
春めいてきた、と思ったら一気に初夏のような陽気となっています。
陽もだいぶ長くなり、初夏のようなとは云い条、湿度も低くて過ごしやすい気候だなとしみじみ感ずる今日この頃です。
前回の記事でも書きましたように、このブログを更新するモチベーションがなかなか保てず、そうした自分の現在のありようにも不満と焦燥を感じ、どうにも先に進む気持ちが出てきません。
連れ合いの抗がん剤治療も二度目の投与を終え、やはりかなり体調的にダメージが大きく、これでもしもあまり効果がなかったら…、などと、やはりろくでもないことを考えてしまいます。
常では支えてもらうことの方がはるかに多い私のことですから、支えなければならない側に回っている今こそ、弱音を吐いている場合ではない、と自分に言い聞かせている次第です。
先日、ブーレーズの指揮BBC響によるシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」を聴きながら、そのあまりの美しさと厳しい演奏に改めて胸を打たれました。
周知のとおり、この曲はオーケストラのために書かれた12音技法による音楽の嚆矢ともいえるもの。
しかし、指揮者であるブーレーズの作品ほどには冷徹に突き詰めているという感はなく、そこにはロマン派の名残も色濃く残っているように思われます。
とはいいつつも、20世紀の音楽の新しい在り方を指し示すべく、その旗幟を鮮明にしていることは間違いありません。
ソロとオケが交互に主題を展開していきながら、最後にすべての音を鳴らすという構成力も、さすがにシェーンベルクならではですね。
この曲の初演は1928年で、なんとフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによる演奏でした。
因みに日本での初演は1974年のことで、こちらは朝比奈隆&大フィルによるものです。
朝比奈先生のチャレンジャーぶりが彷彿とさせられますね。
ところでこのCDでは、この曲の次に「浄夜」が入っており、終曲が終わった後、しばらくの静寂ののち「浄夜」が始まると、なんだかほっとします。
云うまでもなく、この初期の名曲はシェーンベルクが紛れもないロマン派の後継者であることを示しており、機能和声の枠組みの中にありながらトリスタン和音をベースとした半音階進行を多用するなど斬新な試みもなされていました。
しかし、聴いている側としては、分厚い弦楽合奏の響きの中にそのまま浸っていれば心地よく、何も考えずに身をゆだねることもできます。
「管弦楽のための変奏曲」を聴いているときは、やはりこの曲が12音技法によるものだと思うためか、旋律が現れるたびに、それがきちんと12音階になっているかどうかを確かめてしまうのでしょう。
もちろん、そういう制約の中にありながら、これだけ凝縮したそれでいて美しい響きを作り上げ、5分間に及ぶ終曲に向けて私たちを拉致していく技量に感動もするのですが、どこかしら左脳で聴いている部分があるような気がするわけです。
20世紀の前衛音楽のベースともいえる無調主義への扉を開いたシェーンベルクですが、もともとはワーグナーやブラームスに傾倒してその音楽的な基礎を学んだこともあり、伝統的な機能和声というメチエは彼の音楽的底流をなしていたのではないかと考えます。
例えばピカソが、青の時代、バラ色の時代、キュビズムへと進み抽象画の世界へと至りつつも、そのベースには古典的な絵画技法のメチエが完成されていたことと、なんだかつながるようなものもあるのかもしれません。
芸術というものが過去から連綿と続く伝統の上に成り立つものであるとするのであれば、これはある種当然のことといえましょうが、そこには新たな表現を模索する創造者の苦しみも当然に横たわっていることでしょう。
シェーンベルクの初期の作品、とりわけ、先に述べた「浄夜」や「グレの歌」などを聴くと、その苦悩がひしひしと感ぜられます。
私が「管弦楽のための変奏曲」を聴きながら胸を打たれ、なんとも云えない感慨にふけってしまうのも、もしかすると、そのシェーンベルクの苦悩がそこに見え隠れするからなのかな、とも思ってしまいます。
音楽にしても絵画にしても演劇にしても、凡そ芸術というものによって糧を得ようとするのであれば、それを受け止める側(観客など)の心に如何に響くようなものを作り出すことができるか、少なくとも身銭を切ってそれを聴きたい・観たいとする想いをどれだけ喚起できるかが切実な問題となることでしょう。
伝統から学ぶ、という姿勢がどうしても必要となるのは、畢竟、そういう切実感が出発点となっているのかもしれません。失礼な云い条とは思うのですが。
などと、かなり失礼かつ支離滅裂なことを書きましたが、この、ブーレーズによるシェーンベルクの全集CDは聴きものです。
この値段で、これだけ網羅的にこれだけ本質を突いた素晴らしい演奏を聴けるのは本当にありがたいことだと感じます。
お薦めです。
陽もだいぶ長くなり、初夏のようなとは云い条、湿度も低くて過ごしやすい気候だなとしみじみ感ずる今日この頃です。
前回の記事でも書きましたように、このブログを更新するモチベーションがなかなか保てず、そうした自分の現在のありようにも不満と焦燥を感じ、どうにも先に進む気持ちが出てきません。
連れ合いの抗がん剤治療も二度目の投与を終え、やはりかなり体調的にダメージが大きく、これでもしもあまり効果がなかったら…、などと、やはりろくでもないことを考えてしまいます。
常では支えてもらうことの方がはるかに多い私のことですから、支えなければならない側に回っている今こそ、弱音を吐いている場合ではない、と自分に言い聞かせている次第です。
先日、ブーレーズの指揮BBC響によるシェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」を聴きながら、そのあまりの美しさと厳しい演奏に改めて胸を打たれました。
周知のとおり、この曲はオーケストラのために書かれた12音技法による音楽の嚆矢ともいえるもの。
しかし、指揮者であるブーレーズの作品ほどには冷徹に突き詰めているという感はなく、そこにはロマン派の名残も色濃く残っているように思われます。
とはいいつつも、20世紀の音楽の新しい在り方を指し示すべく、その旗幟を鮮明にしていることは間違いありません。
ソロとオケが交互に主題を展開していきながら、最後にすべての音を鳴らすという構成力も、さすがにシェーンベルクならではですね。
この曲の初演は1928年で、なんとフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによる演奏でした。
因みに日本での初演は1974年のことで、こちらは朝比奈隆&大フィルによるものです。
朝比奈先生のチャレンジャーぶりが彷彿とさせられますね。
ところでこのCDでは、この曲の次に「浄夜」が入っており、終曲が終わった後、しばらくの静寂ののち「浄夜」が始まると、なんだかほっとします。
云うまでもなく、この初期の名曲はシェーンベルクが紛れもないロマン派の後継者であることを示しており、機能和声の枠組みの中にありながらトリスタン和音をベースとした半音階進行を多用するなど斬新な試みもなされていました。
しかし、聴いている側としては、分厚い弦楽合奏の響きの中にそのまま浸っていれば心地よく、何も考えずに身をゆだねることもできます。
「管弦楽のための変奏曲」を聴いているときは、やはりこの曲が12音技法によるものだと思うためか、旋律が現れるたびに、それがきちんと12音階になっているかどうかを確かめてしまうのでしょう。
もちろん、そういう制約の中にありながら、これだけ凝縮したそれでいて美しい響きを作り上げ、5分間に及ぶ終曲に向けて私たちを拉致していく技量に感動もするのですが、どこかしら左脳で聴いている部分があるような気がするわけです。
20世紀の前衛音楽のベースともいえる無調主義への扉を開いたシェーンベルクですが、もともとはワーグナーやブラームスに傾倒してその音楽的な基礎を学んだこともあり、伝統的な機能和声というメチエは彼の音楽的底流をなしていたのではないかと考えます。
例えばピカソが、青の時代、バラ色の時代、キュビズムへと進み抽象画の世界へと至りつつも、そのベースには古典的な絵画技法のメチエが完成されていたことと、なんだかつながるようなものもあるのかもしれません。
芸術というものが過去から連綿と続く伝統の上に成り立つものであるとするのであれば、これはある種当然のことといえましょうが、そこには新たな表現を模索する創造者の苦しみも当然に横たわっていることでしょう。
シェーンベルクの初期の作品、とりわけ、先に述べた「浄夜」や「グレの歌」などを聴くと、その苦悩がひしひしと感ぜられます。
私が「管弦楽のための変奏曲」を聴きながら胸を打たれ、なんとも云えない感慨にふけってしまうのも、もしかすると、そのシェーンベルクの苦悩がそこに見え隠れするからなのかな、とも思ってしまいます。
音楽にしても絵画にしても演劇にしても、凡そ芸術というものによって糧を得ようとするのであれば、それを受け止める側(観客など)の心に如何に響くようなものを作り出すことができるか、少なくとも身銭を切ってそれを聴きたい・観たいとする想いをどれだけ喚起できるかが切実な問題となることでしょう。
伝統から学ぶ、という姿勢がどうしても必要となるのは、畢竟、そういう切実感が出発点となっているのかもしれません。失礼な云い条とは思うのですが。
などと、かなり失礼かつ支離滅裂なことを書きましたが、この、ブーレーズによるシェーンベルクの全集CDは聴きものです。
この値段で、これだけ網羅的にこれだけ本質を突いた素晴らしい演奏を聴けるのは本当にありがたいことだと感じます。
お薦めです。
いい作品を入手されましたね。最近はダウンロードばかりですが、クラシック・名曲はCDで楽しむに限るでしょう。なかなか気が晴れないとは察しますが、今は長年の恩返しと思って頑張ってください。
by Jetstream (2018-04-21 12:10)
ブーレーズ....ニューヨーク・フィルの定期演奏会でも指揮しています...
http://archives.nyphil.org/index.php/artifact/89dda574-bcc7-4253-a9d1-05f7896c239a-0.1?search-type=singleFilter&search-text=Schoenberg+boulez&search-dates-from=&search-dates-to=
by サンフランシスコ人 (2018-04-22 06:08)
Jetstreamさん、こんにちは。
これは本当に良い買い物だったと思っています。
シェーンベルグの「管弦楽のための変奏曲」をレパートリーにしているオケはそれほど多くはないと思うので、この演奏は感動しました。
連れ合いにはこれまでもたくさん支えてきてもらったので、今度は私が頑張らなくてはと思っています。
by 伊閣蝶 (2018-04-22 10:28)
サンフランシスコ人さん、こんにちは。
ブーレーズは、ニューヨークフィルでも、この曲を演奏したのですね。
by 伊閣蝶 (2018-04-22 10:29)
なんともお声を掛け辛いですが、引き続き頑張ってください。
テレビ&新聞を全く見なくなったのみならず、最近は音楽さえ遠のいています。^^;
by のら人 (2018-04-22 14:38)
朝は管弦楽などの「声」でない音楽がいいです。
by 夏炉冬扇 (2018-04-22 19:18)
お辛い日々を過ごされているのですね。先が見えない状況では言葉もかけ難いですが快方に向かうよう願っております。
by tochimochi (2018-04-22 22:08)
Program Note Details
「ブーレーズは、ニューヨークフィルでも、この曲を演奏した...」
ブーレーズは、クリーヴランド管でも、この曲を演奏した....
Season: 1970-1971
Date(s): March 18, 1971
March 19, 1971
March 20, 1971
Composer(s): Arnold Schoenberg
Title: Variations, orchestra, op. 31
Conductor: Pierre Boulez
by サンフランシスコ人 (2018-04-23 02:46)
のら人さん、こんばんは。
ありがとうございます。私が折れるわけにはいかないので頑張るつもりです。
音楽、私もじっくり聴き込む時間がなかなか取れなくなりました。
by 伊閣蝶 (2018-04-24 21:59)
夏炉冬扇さん、こんばんは。
声楽は、どうしても歌詞を意識が行き、左脳で聴いてしまう嫌いがありそうです。
by 伊閣蝶 (2018-04-24 22:01)
tochimochiさん、こんばんは。
ありがとうございます。
現在の治療の結果が分かるまで、このもやもやとした不安感は解消されないのかもしれません。
今はとにかく前を向いて頑張るのみと思っております。
by 伊閣蝶 (2018-04-24 22:02)
サンフランシスコ人さん、こんばんは。
いつもながら貴重な情報をありがとうございます。
by 伊閣蝶 (2018-04-24 22:03)
「そのあまりの美しさと厳しい演奏に改めて胸を打たれました..」
http://okkoclassical.blog.so-net.ne.jp/2016-01-15
"ブーレーズ/クリーヴランドは極醜の美音でした....
by サンフランシスコ人 (2017-11-09 04:28) "
「ピカソが、青の時代、バラ色の時代、キュビズムへと進み抽象画の世界へと至りつつも、そのベースには古典的な絵画技法のメチエが完成されていた」
最近サンフランシスコのスペイン人に教えてもらったのですが、ピカソの絵画のベースは、スペインの古典絵画の伝統美術の底流らしいです.....
by サンフランシスコ人 (2018-04-25 01:58)