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冷え込んでいます [日記]

昨日から冷え込みが厳しくなっています。
北日本や日本海側だけでなく、近畿や東海地方でもかなりの降雪があって各地で車の立ち往生が発生したそうです。
日中は陽射しがあるのでなんとかなりますが、陽が落ちると途端に寒さが迫ってきますね。

そんなわけで昨日から火鉢を出しています。
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ヤカンをかけておくと湯気のおかげで乾燥を防ぐことができますし、寝床に入れる湯たんぽのお湯も確保できます。
何よりも遠赤外線効果で暖かさも格別です。

ただ問題があって、私の居室の密閉性がかなり高いため、一酸化炭素などが溜まりやすくなりガス警報機が作動してしまうこと。
窓を開け放って喚起すればいいのですが、せっかくの暖気も当然逃げてしまうので、その辺りはちょっと悩ましいところですね。

私は比較的、一酸化炭素中毒などにはなりにくい体質ですが、人によっては頭痛を引き起こしたりすることがあると思います。
その点については注意が必要ですね。
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ベランダの水仙の花 [日記]

今日も比較的暖かな日になりました。
明日からは猛烈な寒波がやってくるそうです。
この時期、新型コロナはもちろんですが、インフルエンザや流感にも感染しやすい季節となります。
特に体の冷えは大敵ですから用心したいものですね。

ベランダの水仙の花が咲きました。
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かなり以前に連れ合いが球根を植えたのですが、これまで花が咲かず残念な思いをしておりました。

それが、なんと、連れ合いが亡くなって三年目になろうかという今シーズンになって初めて花をつけたのです!

これにはさすがに歓喜しました。
連れ合いがあちらの世界から届けてくれたのかと思いました。

連れ合いの姉に写真を送って連絡したところ、「〇〇ちゃん(連れ合いの名前)からのクリスマスプレゼントだね」と返信があり、そうか、クリスマスなんだと、さらに胸がジーンとしてしまいました。

三年前のちょうどこの日(クリスマスイブ)、一時的に病院から退院していた連れ合いが、嫌がる私にこれからのこと(自分が旅立った後のこと)やこれまでのこと、自分の貯金や持ち物のことを語りました。
「そんな話は聞きたくない」と駄々をこねる私に、子供をあやすがごとく優しく言い聞かせていた姿が、今も眼交に浮かびます。

あれからもう三年。

今でも時折夢の中に出てきてくれ、いつも優しい笑顔を浮かべて私を見守ってくれております。
水仙の花は、もしかするとその想いの化身なのかもしれません。
末期のがんの痛みで、相当つらかったはずなのに、連れ合いは、(自分がいなくなってしまった後の)私のことをしきりに心配していました。
そばにいて支えてあげられなくて申し訳ない、と。

でも、夢の中で逢うことができたり、こうして水仙の花に身をゆだねて私の前に現れてくれたり、連れ合いはずっと私のそばにいてくれる。
そう思うことで、独り身の悲しさも癒される気がします。

一人で迎える三回目のクリスマスイブ。
「一人ではないよ」と、連れ合いがささやいてくれている気がしました。

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膝の痛みなど [日記]

12月も中旬となり、かなり冷え込んできました。
お天気がいいので、放射冷却の影響も強いのかもしれません。

この時期になると、スーパーなどでシイタケが安く出回るようになります。
先日も、行きつけのスーパーでひとふくろ138円などという値段がついていたので、衝動的に買ってしまいました。
単身ですから一気に食べてしまうなどということにはならず、煮物や炒め物で使った残りを干すことにしました。
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傍らに布団が写っているのは少々恥ずかしいところですが、こうして干しておくと、日光をたくさん浴びて程よく乾燥してくれます。
乾燥させたシイタケは良い出汁も出ますし、煮物にも最適となります。

また、季節柄、小松菜も安く出回りますので、こちらも使い残しを瓶などで再生栽培しています。
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冬は小松菜も良く育ちますし、根腐れなどもないので、毎日水を変えながら楽しんでいるところです。

さて、悩まされている膝痛ですが、リハビリなどを根気強く続けていることもあって、ようやくウォーキングができる程度までには快復してきました。
ただ、肘の痛みや肩の痛みなども出てきて、油断をすると腰に違和感が走ったりするので、動きには細心の注意を払っているところです。

結局、膝痛が一番ひどいとは言うものの、体全体のバランスが崩れているためにところどころで故障が発生するわけで、寒さが厳しくなってくるとそれがてきめんにでるということでしょう。
人間の体というものはかなり精巧な作りになっているのだなと、改めて思い返しました。
リハビリを担当してくださっている理学療法士の方によれば、膝痛の原因は次のような事ではないかとのこと。
あなたは自分が心配するほど筋力が衰えているわけでもないのに、恐々と動いていることもあって、膝に過度の負担がかかっているようです。
恐らくこれまでも安易に膝の動きでコントロールしてきたのでしょう。膝はずっとそれに耐えてきたわけですが、さすがに「ほかにサボっている奴もいるじゃないか!オレばっかり酷使するのはいい加減にしろ!」と怒っているのですよ。

これにはなるほどと頷きました。
つまりは一種のパワハラであり、使い勝手のいい膝にほとんどの動きを押し付けていた、ということなのでしょう。
これは多くの人に心当たりがあるのではないかと思うのですが、仕事をするうえで、事務処理能力の高い優秀な人間により多くの業務が集中してしまうきらいがかなり多く見受けられます。
というよりも、部下に仕事を担当させる際に、「能力を見極めている」といえば聞こえはいいのですが、デキるやつに任せてしまう、という安直な判断をしがちだということです。
そういう理不尽な扱いを跳ね返して能力を発揮できる人間はそれなりに伸びて要職についていくわけですが、往々にしてオーバーワークとなり潰れてしまうとか反抗するなどということにもなりがちでしょう。
また、それらを乗り越えて出世した人も、下手をすると同じようなことを自分の部下に強いてしまうこともあるわけで、組織全体のことを考えれば決してプラスにはなりません。

そういうことが今私の膝でも起こっていて、膝は怒り心頭に発し反旗を翻している、ということでしょうか?と理学療法士の方に感想を述べたところ、「それは分かりやすい表現ですね。その通りと思います」とのこと。

安直な業務運営は組織の為にもなりませんが、自分の体も同じことなんだなと、改めて来し方を振り返り大いに反省させられました。

皆様の中にも部分的な関節の痛みなどで悩まれておられる方もいらっしゃると思いますが、バランスよく働かせるというマネジメントの原点に立ち返ることも、もしかすると有益な対処法なのではないかと、老婆心ながら申し述べさせていただく次第です。
ご用心ご用心、ですね。
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坪井直さんをとり上げたNHKクローズアップ現代プラス [音楽]

10月24日、被団協代表委員の坪井直さんが亡くなりました。
広島に原爆が投下された折、爆心地から1.5kmの地点で直接被爆して顔や両腕に大火傷という重症を負いながら、90歳を超えても第一線で活動され、96歳で逝去されたことに、やはり感慨を禁じえません。

私事になりますが、私は1980年代の初めの頃から足掛け10年近く原爆忌に合わせて、広島や長崎を毎年訪れていたことがあります。
米軍が撮影した原爆投下関連のフィルムを買い取るための市民活動である10フィート運動にも参加し、それらを基に作られた記録映画である「にんげんをかえせ」「予言」などの上映会も企画してきました。
当時は16mmフィルムでしたので、映写機を借りたり会場を手配するのにそれなりの苦労をしましたが、カラーで撮影された当時の惨状の映像記録は、観る者にとって大きな衝撃を与えたことを思い起こします。

そうした活動の中で広島を訪れた折、坪井さんをお見かけしたことが何度かあります。
もちろん個人的に言葉を交わすことなどできませんでしたが、核兵器に対する怒りを胸に核廃絶を希求する姿勢には、誠に頭の下がる思いでした。
その坪井さんが、5年前に米国大統領として初めて広島を訪れたオバマ大統領と対面し、米国への憎しみを抑え笑顔で語りかけた姿は忘れることができません。

11月11日の夜、NHKのクローズアップ現代プラスで、坪井さんのことを取り上げていました。

https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2021111101904?playlist_id=c62990e7-250f-4817-b8ed-8c3366df4c87

ご覧になった方も多いことと存じます。

以前、映画「地の群れ」でも触れていますが、原爆を落とされた側としてみれば、落とした側である米国を恨むのは当然の感情であると思います。
坪井さんも、番組の中でご子息が話しておられるように、米国に対する憤りの気持ちは終生お持ちだったことでしょう。
しかし、そうしたある意味では「個人的な」恨みを昇華し、この地上から核兵器を無くすという理想を追い求めようと決意されたことに、どれほどの葛藤や苦悩があったことか。
番組を見ていて思わず涙を流してしまいました。

原爆の投下から76年が経つ現在、直接的にその被害を受けた方々は次々に鬼籍に入られています。
この番組も含め、残された多くの記録をのちの世まで受け渡していくことが、残された私たちの使命であるのかもしれません。

先ほど紹介した記録映画ですが、二本ともその後はビデオテープとして販売され、なんとDVDで入手も可能なようです。

長崎原爆資料館ミュージアムショップ
https://nabmuseum.raku-uru.jp/

私は両方とも個人的にビデオテープで購入しましたが、当時、それぞれ35000円という価格でした。
高額ではありましたが、職場の仲間や後輩たちに見せることがこれで大変便利になり、様々な機会を通じてみんなに鑑賞してもらったことを思い出します。

今回、久しぶりに見返してみました。

これらのフィルムのないころ、私たちが見ることのできた原爆投下の映像はモノクロでした。
このモノクロフィルムは、戦後間もないころに映画プロデューサーだった岩崎昶さんが、GHQの目を盗んで隠し持っていた原爆記録フィルムであり、占領明けになって日の目をみたものです。
そのご苦労と果たされた役割を鑑みればこんなことを云うのは罰当たりとは思いますが、やはりカラーは迫力と迫真性の点で段違いですね。

「にんげんをかえせ」は10フィート運動の記念碑的な作品ですし、若かりし頃の大竹しのぶさんが語りを担当されたりと、大変話題になりました。
明日への伝言」という、山川啓介さん作詞いずみたくさん作曲のテーマ曲も大変印象的でした(この曲は以前から歌われていましたが)。

しかし、恐らく作品の質としては「予言」の方がはるかに優れていると思います。
ドキュメンタリー映画の旗手でもあった羽仁進さんが監督を務め、音楽は武満徹さんでした。
武満さんは、反核・反戦平和に対して大変強い思いを持っておられ、例えば今村昌平監督の「黒い雨」でも音楽を担当されています。
NHKで放映された「夢千代日記」の音楽もそうでしたね。

国連が核廃絶に向けた決議を採択する中で、唯一の被爆国である日本はそれに参加しませんでした。
日本が今後どのような行動をとるのか目を離すことはできませんが、坪井さんの思いは是非とも継承していきたいと、個人的にはさらに想いを強くした次第です。

キューバ危機など核戦争一触即発の可能性はあったものの、多くの住民が普通に暮らしていた市街地のど真ん中に原爆が落とすという蛮行は長崎以来ありません。
その意味を改めてかみしめるべきなのかなとも感じています。

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霧島東神社から高千穂峰 [山登り]

冷たい雨はやみましたが、それを機に気温がかなり下がっています。
首都圏では晴天にもかかわらず最高気温が18度くらい、朝方は10度届かずと、11月くらいの気候となりました。
今シーズンで初めて掛け布団を出しましたが、正解でした。

ここ数か月、ぎっくり腰を契機に膝や股関節の痛みが続き、ウォーキングもままならない状況が続いています。
少し痛みが和らぐと、ついつい焦りから頑張ってウォーキングやスクワットをしてしまい、元の木阿弥という、実に頭の悪いことばかりしてきました。
さすがにこれはまずいと、脚の方の運動は控え、代わりに腕の方の運動を中心としてきたところ、今度は懸垂のやりすぎで両手の肘が痛くなってしまう始末。
年寄りの冷や水とはよく言ったものですね。

そんな中ですが、緊急事態宣言も解除され、仕事の方も少しずつアクティブになってきています。
先日は、なんと宮崎の都城市で用務ができ、短い時間ですが出張することになりました。
仕事のためとはいえ、せっかく足を延ばすのです。
前々から登ってみたかった、霧島東神社から高千穂峰に登るコースを訪ねてみることにしました。

朝早くの便で宮崎空港まで飛び、レンタカーを借りて用務先へ。
仕事の打ち合わせその他の用務を済ませて、その日は都城のビジネスホテルに宿泊。
このホテルは、朝の6時からバイキングで朝食が取れるので、早立ちには大変便利でした。

霧島東神社への参道から右に少し登ったところに駐車場があり、そこに車を止めた後、せっかくなので神社の方面に出向いてみました。
鳥居の手前にちょっとした展望スペースがあり、そこから御池が望まれます。
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九州自然歩道に指定された登山道を登っていきます。
照葉樹林に囲まれた静かな山道です。
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緩やかに登っていくと、石碑がありました。
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梵字が彫られていますが、神社なのになぜだろうと、ちょっと疑問。
お賽銭も捧げられており、今でもお参りに来る人がおられるのでしょう。

ヨメナが咲いていました。
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この辺りから傾斜はかなりきつくなり、痛む膝になるべく負担をかけないようにしながら登ります。
ミヤマキリシマの灌木がたくさん目につきましたから、花の時期は見事なものではないかと思います。

やがて双子岩に到着。
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途中から見上げると、何だか上州二子山をかなり小ぶりにしたような感じに見えました。

ここからは高千穂峰山頂まで続く眺望が広がります。
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ヤマラッキョウの花が残っていました。
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リンドウの花も見頃です。
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そこから下って最低鞍部に着くと、左に御池小学校からの登山道を合わせます。

ここから最後の登りを頑張ると、待望の高千穂峰の山頂に至ります。

有名な天の逆鉾です。
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ここは霧島神宮の奥宮でもあります。
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霧島東神社からの登山道では、出会った登山者は一人きりでしたが、山頂は夥しい人出です。
皆さん、きっと高千穂河原の方から登ってこられたのでしょう。
霧島東神社から登りますと、標高差で1300m近くありますが、高千穂河原からは500mくらい。
圧倒的にこちらの方が楽ですから。

眺望を楽しみながらゆっくり昼食をとり、膝を休ませました。

帰路は往路を戻ります。

この山は神域ですから、登山道の途中にしめ縄が張られています。
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山頂を振り返って写真を撮りました。

霧島東神社や御池方面を見下ろします。
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天候にも恵まれ、気分は最高でした。

因みに帰路では一人も出会いませんでした。
山頂の喧騒が嘘のようです。
私は高千穂河原からも登ったことがありますが、間違いなくこの霧島東神社からのルートの方が優れていますし歩き甲斐があります。
もちろん、歩行距離や時間はかなり長くなりますし、標高差も大きいので少々体力的にはきついかもしれませんが、何とももったいない話だと思いました。

ただしこのルート、双子岩までの樹林帯はヤマヒルがかなり生息しています。
私はお陰様でヒルとかダニなどにはあまり食われない質ですが、それでも下山後、腰のあたりに一匹見つけました。
幸い血は吸われていませんでしたが、いろいろな報告によると、被害に遭った人はかなりいるようです。
丹沢の早戸川水系などには結構ヒルがいますので、この辺りの沢登りの時にはサロンパスを持参していました。
ヒルにかけると非常に嫌がってすぐに落ちますので即効性があります。
今回は10月ということもあり、そこまでする必要もなかろうと思っておりましたが、気温が高かったせいか、やはりいましたね。
もしかすると、このルートの人気のなさはそのあたりに原因があるのかもしれません。

さて、今回は用務のついでに山に登るという些か不埒な行動でしたし、膝の痛みなどを抱えていたので、荷物に関してはいろいろと考えました。

まず、足回りですが、私は冬季を除いて、普通の山歩きでは長靴か地下足袋を使います。
しかし、今回は膝の具合が悪いため、本当に久々に山靴を履きました。
とはいえ、大層なものではなく、ディスカウント通販で有名なヒラキの、価格4900円のトレッキングシューズです。
安価ではありますが、くるぶしを包み込んでくれるデザインの上、非常に軽く丈夫でした。
街歩きでもつかえるかどうか事前に試したところ、全く問題なく、おかげで今回の行程ではずっとこの靴で間に合いました。
蒸れずに撥水効果もかなり高く、ソールのグリップもちゃんと効きます。
長時間履いていても、足指などが当たるようなこともなく、その点でもかなりの優れものと感じました。
山道具屋で登山靴とかをみると結構な値段がしていて、こんなことを云っては何ですが、初心者の方はきっとカモにされているのだろうな、といつも感じてしまいます。
中途半端な山靴にはかなりの疑いを持っていましたが、この値段でこれだけの性能なら合格点でしょう。

膝の痛みや腰の痛みは、ありがたいことに山行中はほとんど気になりませんでした。
しかし、その日の夜から翌日・翌々日まで脚にひどい筋肉痛がおき、これには面食らったところです。
山登りをして筋肉痛がおきるなど、本当に久方ぶりの経験で、運動不足(特に足回りの)によってよほど脚の筋力が落ちていたのでしょう。
人間の体というものは誠に正直なものだとつくづく感じています。

その後、筋肉痛も多少収まったので帰宅してからウォーキングに出かけたのですが、途中、青信号に間に合わせようと走ったら、またもや膝に激痛が走り、その痛みは今でも治まってはいません。
調子に乗った自分が悪いので、何たる馬鹿者かと自分自身を責め続けている状況です。

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赤狩り [映画]

お彼岸となりましたが、真夏のような暑さとなっています。
8月には、晩秋を思わせるような寒さがあったことを思うと、なんとも不可解なお天気が続きます。
9月7日には富士山に初冠雪があったとの驚天動地的な報道がありましたが、さすがにこれは取り消されたもようです
体調管理にはくれぐれも気を付けたいものです。

山本おさむさんが渾身の力を込めて描いた「赤狩り」が完結し、単行本10巻もこのほど全巻が揃いました。



私は第1巻から読み始め、新刊が出るたびに順次購入して読んできましたが、このほど第10巻を読み終えて、感動を新たにしているところです。

この作品は、「ローマの休日」「スパルタカス」「栄光への脱出」「いそしぎ」「パピヨン」などの名作・話題作の脚本を担当し、「ジョニーは戦場へ行った」を監督(原作・脚本も自身)したドルトン・トランボを主役として、1950年代を中心にハリウッドに吹き荒れた「赤狩り」を克明に描いたものです。
因みに、HUAC(House Committee on Un-American Activities=下院非米活動委員会)の活動の一環として取り調べを受け、召喚や証言拒否などを理由に刑務所に収監された映画関係者のことをハリウッド・テンといいますが、トランボはその中の一人です。

山本さんは、このトランボがHUACに召喚され、法廷侮辱罪で刑務所に収監されてから、様々な辛酸を舐めつくしつつ脚本家としての使命・矜持を貫き通し、その生涯を全うしたことを克明に描こうとしました。
しかし、ご自身もその過程で言及されているように、トランボのみの軌跡を追うだけではすまされなくなり、原爆、スパイ・諜報活動、冷戦、キューバ危機、公民権運動、ケネディ大統領・キング牧師・ケネディ上院議員暗殺、ベトナム戦争といった、米国の暗黒歴史にまで踏み込むこととなったのです。
それ故にこの作品は、啻に映画ファンのみならず世界を揺るがした時代の背景に興味を持つ人にも訴えかける力を有しているものと考えます。

私自身、先ほど記載した出来事のアウトラインは辛うじて承知していましたが、細部における様々な背景についてはこの作品によって目を開かれた感がありました。

一番大きかったのは、もちろん漠然とは感じておりましたが、理想としての社会主義・共産主義と、それを国家の形で体現したとするソ連や中国・北朝鮮などの諸国の現実的な体制との間の、絶望的なまでの乖離と欺瞞です。

私が中学生や高校生だったころ、70年安保の嵐が吹き荒れ、学生運動の盛り上がりは年端もいかない中高生ですら強烈な刺激を受けました。
働く者の権利を第一とし、労働者から搾取した金で潤っている資産家や資本家からそれを吐き出させ、貧富の差を無くし万人が平等に富を分かち合う世界。
そんな理想郷を子供ながらに思い描いていたことを思い出します。
この本の中でもかなり克明に描かれていますが、ローゼンバーグ夫妻のスパイ容疑と死刑の執行に関しても、当時は冤罪であると固く信じ、サッコ・ヴァンゼッティ事件と同様の偏見と敵意に基づいた唾棄すべき事件と考えていました。
しかし、米ソ冷戦終結後に漸次明らかとなってきたヴェノナ・プロジェクト及びヴェノナ文書により、夫妻が実際にスパイ行為をを働いていたことが裏付けられ、それを知った当時、やはり私はかなりの衝撃を受けたものです。

結局、共産主義・社会主義であれ資本主義であれ民主主義であれ、権力を握ったものはそれに執着しさらに強大なものにしようとする。
しかも、それを成し遂げさせるため陰で陰謀を巡らせた者どもは、それをネタに権力の座にある者を自在に操ろうとする。
その動きや流れの中にある限り、時の権力者や陰謀を巡らす人間・組織は肥え太りますます権力や富を強大化していく。

やりきれない話ですが、その理想に感化を受けラポールした人間は、その理想を実現するためとあらば一点の疑問を挟むことなく、その道をまい進する。
恐らくローゼンバーグ夫妻も、原爆に関する資料をソ連に流すことで米国一強による覇権主義を防ぐことができると本気で信じ込んでいたのでしょう。

このほか、モンゴメリー・バス・ボイコット事件やその後に続く公民権運動の盛り上がり、もともと反共でマフィアとのつながりもあったケネディが大統領就任を機にリベラルへと変わり世界の平和と安定を模索するようになる経緯、などなどが膨大な資料に基づき丹念に描写されております。

もちろん、主人公たるトランボを巡るドラマも感動的に描かれ、私は各巻を読みながらその都度涙にくれたものです。
それらをいちいち書き留めることはやめますが、例えば次のような場面。

トランボが法廷侮辱罪で刑務所に収監されたことから、子供たちは様々ないじめに遭い、そのことで子供たちはトランボを責める。
その子供たちに、目を真っ赤にしながらかけたトランボの言葉。
君たちに誓って言う。パパは悪い事は何もしていない。
君たちに対して恥ずべきことは断じてしていない。
パパはごく平凡な人間だ。何か変わった特別な信念があるわけじゃない。
一生懸命仕事をし、人を裏切らず、人間として為すべきことを為し…そして何よりも、君たちから愛される人間でありたいと思っている。それに値する人間でありたいと思っている。
君たちが成長し、結婚し、子供を持ち…その時、パパは死んでるかもしれないが…パパをフッと思い出してくれた時、そのことを理解してもらえれば、とても嬉しい。
それだけなんだよ…本当に…ただそれだけなんだ。

トランボが家族を非常に大切にしていたことは事実ですから、このくだりはとりわけ胸にしみました。

さて、この調子で内容を開陳することはさすがに避けたいと思いますが、トランボ監督の映画「ジョニーは戦場へ行った」に関しては少しだけ触れることに致します。


1971年の映画ですが、原作である「ジョニーは銃をとった」は1939年にトランボによって書かれ出版されています。
原作は第一次世界大戦を背景としていますが、出版当時は第二次世界大戦勃発時であり、戦争の激化によって絶版(事実上の発禁)。
その後も、朝鮮戦争など、米国がかかわった戦争の勃発などに影響され、その都度、復刊・絶版が繰り返されたいわくつきの「反戦小説」です。
第一次世界大戦で志願兵となったジョーは、塹壕の中で砲撃に遭い、目・鼻・口・耳を失い運び込まれた病院で両手・両足を切断されてしまいます。
医者たちは、延髄と小脳くらいしか機能していないと判断し、意識も感覚もないただの肉塊だと判断。
研究材料として生かす方針とします。
しかし、ジョーには意識が存在した…。

この映画はあまりにも有名なので、恐らく多くの方はその内容をご存知のことと思います。
私も久しぶりに観返しましたが、カラーの回想シーンの美しさがひときわ印象的で、モノクロによる病室の陰惨さとの間でのギャップを否応なく感じさせました。
カテゴリーとしては「ヒューマン」ということになるそうですが、戦争の悲惨さと、ひときわ重い厭世観に引き込まれます。
特にジョーが訴えかける次の言葉(モールス信号による)は極めて重い。
僕を見世物にしろ
海水浴場やお祭りや独立記念日に巡回しろ
宣伝するんだ「頭で話をする肉の塊」だと、君たちが宣伝するんだ、僕を作ったのは君たちなんだから
戦争には兵士が必要で、軍は僕のような人間も作るんだと…

この映画をトランボは大変な苦労を重ねて撮り上げます。
そして、同年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞し、欧州や日本ではヒットしますが、当の米国では泥沼のようなベトナム戦争のさなかであったこともあり全く受け入れられなかったそうです。

さて、第10巻に次のような描写があります。
陰謀家が忌み嫌うものは“平和”だ。富を生み続ける“冷戦”を手放すわけにはいかない。
若い兵士に血を流させ、途上国の罪なき農民を踏みにじり、蛭のように民主主義の裏に吸い付いて血を吸い、陰で政治を私物化しながら、国民にはゆがんだ忠誠心と愛国心を喧伝する。
共産主義への憎悪、つまり赤狩りとは…そのような冷戦を維持するための装置なのだ。


これは今に至るまで延々と繰り返されており、例えばミャンマーでの軍によるクーデターも全く同じような構造からきているのだと言われています。
軍産複合体は、戦争がなくなってしまえば利益を得る術を失うわけですから、自分に火の粉が降りかからない地点にいて紛争を煽り立てる。そういう体制を維持しようとする。
そしてその際には、民衆に対して愛国心をあおり、仮想であれ何であれ敵を見繕って攻撃することを煽動する。
あおられた民衆は民衆同士で互いに牽制・監視しあい、密告や排外的な行動に走っていくことになるのでしょう。

もちろん日本も例外とは言えません。
五味川純平の小説「御前会議」の最後は次のような文章で締めくくられています。
国家の名において民族的野望を遂げるべく戦争を企てた者、それを許可した者、それを支持した者は、裁かれたと否とにかかわりなく、邪悪を犯した事実から逃れることは出来ない。
まことに、愛国心とは、あまりに屡々、邪悪の隠れ蓑なのであった。



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カバレフスキー交響曲全集 [音楽]

金木犀の花が咲いています。
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この頃、香りに出会うことが多かったのですが、時期的にはまだ早いような気がしていたところ、近所の公園で花を見つけたのです。
お恥ずかしい話ですが、ここ数週間、ひざの痛みが酷く、長時間のウォーキングもままならない状況でした。
若いころから山やスキーなどで結構たくさん怪我をしてきたこともあり、どうやらその影響で足首とか股関節が変な風に固まっているようです。
その様な形でバランスが崩れ、それを補修するために膝への負担が増した結果、ということらしく、年齢を重ねるとともに顕在化してきたのでしょう。
仕方がないので、自宅ではラジオ体操と腹筋・腕立て伏せ、近所の公園では簡単なクライミングや懸垂などの運動をしております。
背景はがっかりするようなものですが、こうして金木犀の花に出会えたのはそのおかげかなと、気を取り直しているところです。

ドミトリー・カバレフスキー、20世紀のソ連における非常に著名な作曲家で、様々なジャンルの作品を数多く残し、また、青少年への音楽教育でも大変に功績のあった人ですが、教則本や子供のためのピアノ曲集のようなものの他は、例えば組曲「道化師」くらいが比較的知られているような状況です。
道化師の中の「ギャロップ」は運動会の音楽としてよく使われていましたから、恐らくお聞きになった方も多いものと思われます。

https://www.youtube.com/watch?v=BIkcSZFInaY

2001年と2001年にかけて、大植英次さんがNDRと共にカバレフスキーの交響曲全曲録音を行いました。
それが二枚組のCDとなって販売されています。

カバレフスキー:交響曲全集
CD1
・交響曲第1番 Op.18
・交響曲第2番 Op.19
CD2
・交響曲第3番 Op.22『レーニンのためのレクイエム』
・交響曲第4番 Op.54
 ハノーファー北ドイツ放送合唱団
 ハンガリー放送合唱団
 ハノーファー北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団
 大植英次(指揮)

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

カバレフスキー:交響曲全集
価格:4890円(税込、送料別) (2021/9/12時点)





大植さんはこれらの交響曲にかなりの思い入れがあったようで、時間をかけて研究し満を持して録音に取り組んだとのことです。
どの演奏からもその気迫のほどがうかがえ、実に充実した時間をもらえました。

第3番は、「レーニンのためのレクイエム」という副題が示す通り、レーニン没後10周年を記念して作曲されたもの。
死者の魂を慰撫するという本来的な鎮魂曲というよりも、歌詞に用いられた「ニコライ・アセーエフによる、レーニンの死を悼み、その遺志に従って前進しようと呼びかける詩」をもとにした力強さを感じさせるもので、合唱が入る第2楽章は三連符が堂々と響く行進曲風に仕上げられています。

第4番は唯一の4楽章制の交響曲で、序奏付きの第1楽章、緩徐楽章、スケルツォ、序奏付きソナタ形式の第4楽章と、オーソドックスな交響曲の形式を保っています。
大変聴きごたえのある曲で、第4楽章ではフーガも展開され、和声や対位法や管弦楽法に秀でたカバレフスキーならではの巧みさを味わわせてくれます。
ただし、第1楽章がかなり壮大な構えで作られているのにもかかわらず、第4楽章がなんとなく軽い印象で、失礼な言い方ですが「竜頭蛇尾」のような印象もうけてしまいました

第1番と第2番も、非常に耳に入りやすい曲で、ソ連における社会主義リアリズムとはこういうものなんだなと、変に納得させられました。
こういう曲は、戦中戦後時代の映画音楽によくありそうな感じで、そういえばカバレフスキーも多くの(映画音楽を含む)劇伴音楽や歌劇・オペレッタを作曲していましたね。

いずれにしても、19世紀後半から20世紀にかけて様々な形式の破壊や冒険を試みた当時の作曲家の行き方とは真っ向から対立する曲で、その意味では多くの一般的な聴衆には何らの葛藤も与えなかったのかもしれません。

これまで、お膝元のソ連=ロシアにおいてもメジャーな録音がなかったこと。
それは、そうした時代の中で先端走り切り開こうとしていた表現者=作曲家や指揮者やオケにとってあまりにも物足りないものであったからなのかもしれません。
ある意味では聴衆や観客を蔑視しているのではないか、という疑念も感じられたことでしょう。
同じく、社会主義リアリズムの作曲家の典型みたいに言われることのあるショスタコーヴィチの場合、あの第5番の交響曲でさえも、それを超える冒険が随所でなされており、それが息長く演奏会で取り上げられる要因になっているのだなと、改めて感じたところです。

なんだか貶めるようなことを書いてしまいましたが、カバレフスキーのこの交響曲全集は、自己模倣がはびこり新しいインスピレーションの閃きなどが見出しにくくなった21世紀の音楽の現状にある意味での警句を与えるものではないかとも考えます。
大植さんがどのようなお考えでこの全集録音に取り組まれたのか、日本語版のライナーノートなどが手元にありませんのでわからないのですが、様々に訴える力を持った熱演だと思います。

ご興味ある向きには力強くお勧めします。
少なくとも、運動会や子供のための音楽ばかりではないカバレフスキーの真骨頂のようなものを感ずることができると思われますので。


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安全ということについて [山登り]

このところ、時ならぬ豪雨が日本列島を襲い、各地で甚大なる被害を出しております。
気候変動の影響も大きいのでしょうが、これまではあまり土砂崩れなどの災害に見舞われてこなかったところが、このところ立て続けに発生していることに、やはり恐怖を感じます。

安全(あるいは危険)、という概念は、本当に曖昧で定義の難しいものだと、近頃とみに痛感します。
最終的には個人的な感覚なのではないか、などという、少し諦念めいたものも感じます。
本人が思う安全と、一般的なレベルでの安全の感覚が、互いに食い違ったことによって引き起こされる事故は、何も豪雨などの災害に限りません。
山登りでは殊に象徴的に表れてくるのではないかと思います。

今年の夏は、現在までにかなりの夏山登山での事故が発生しているようです。

夏山で遭難“多発”過去3年で最多ペース

新型コロナウィルスの感染回避から密を避け、場所を山に求める人が増えているのでしょう。
いわゆる「ソロキャンプ」も急増していて、なんと女性の間でも人気とのこと。
「単独幕営山行」といえば、私たちの世代の印象ではかなりハイレベルな山行形態であり、一般的な山の装備の他に天幕や寝具などの生活用品を担ぎ、かつ、食料や水も相当量のものが必要となるため、体力的にも技術的にも、そしてなんといっても経験と場数が必要なものであったと思います。
テントやシュラフをはじめとする装備の軽量化や高性能化が進んだこともあり、相対的にハードルが低くなってきていることは喜ばしいことですが、それによって、何か山そのものが簡単になっていると誤解される虞があることにはいささかの危惧を感じざるを得ません。
いうまでもないことですが、山そのものは変わらないのです。
もちろん季節や天候によって、その相貌は大きく変化しますが、山に登るということはそれらの変化も含めて自覚し対処していくものだと考えます。

クライマーでありライターでもある菊地敏之さんは著作「最新クライミング技術」の中で次のように述べていました。
高尾山あたりの登山道と、アルプスの両端が切れ落ちた稜線とではどうだろう?アルプスの稜線といっても中にはただ穏やかなリッジを辿るといった程度の場所もなくはない。そうした場合、両者の間にやるべきことのの差は、実のところあまり見られない。極端な言い方をすれば、両方とも足を交互に出してさえいれば、何とか終わってしまう。
ではこれらは両方易しい“登山なのかと言うと、もちろんそんなことはない。前者と後者とでは”使った“技術や体力はさほど変わらなかったとしても、”使うかもしれなかった”技術の量が格段に違う。そしてもちろん、失敗に対する許容度もたいへんに違う。高尾山の登山道で石に躓いてもどうということはないが、4000mのナイフリッジで同じことをしたらたいへんなことになる。
例えが極端すぎるかもしれないが、要は難しい易しいという言葉の意味は、”使った”技術の量だけでは決まらない。そこに内包されるものごとと、そのために必要な技術こそが問題だということだ。

古くからの山屋にとっては当たり前のことだとは思いますが、こうした基本的な認識が近頃だいぶないがしろにされているような気もします。
多くの経験を積むことによって、より多くの技術を身に着け、山を登るときには、その中から最良のものを選択する。
あまり危険性のないところ(この判断も経験によるところ大なのですが)では、それらのチョイスは半ば無意識に行われますが、それは山登りにおいて最もハイリスク的な要因となる時間の無駄遣いを防ぐ、という自覚に基づくものでもありましょう。

しかしそうした技術の中でも、個人的な「思い込み」が入り込む虞なしとしません。

例を上げれば、現在、ハーネスにメインロープを結合するとき、恐らくほとんどの人は8の字結びをしていると思います。
しかし、私がクライミングを知った40年以上前のそれはブーリン結びが主流でした。
暗闇でも結べるようにと、目をつむってもできるまで練習したものです。
また、実際には恐らく使わないと思われる肩がらみでの懸垂下降を練習したり、止められる可能性がかなり低いのではないかと思われるトップの肩がらみビレイを練習させられ(トップが落ちて確保すると肩や背中に蚯蚓腫れができるほど痛い)たりもしました。
結局その頃の鉄則は「トップは絶対に落ちてはならない」というもので、果敢に攻めて滑落し何度も挑戦することが当たり前の現在のフリークライミングの世界とはまさに隔世の感があります。
このような背景もあって、結び目が緩む可能性の高いブーリン結びは、少なくともフリークライミングの世界では使われなくなっています(これに関しては、「岳人」誌で展開された「ブーリン論争」を思い起こされる方も多いのではないでしょうか)。

また、トップのビレイにおいてはボディビレイを基本とする、というのも、滑落の可能性を鑑みれば当然の行き方となりました。
殊にインドアクライミングを経験されている方は異論のないところと思います。

しかし、こうした新しい行き方、ある意味ではより安全性が高いとされる行き方に背を向けて、これまでのご自身の経験則にこだわり続ける方もかなりの数おられました。

危険が内包される確率が高いことをしていたとしても実際に事故などに遭わなければ、本人にとってはそれは危険な行為ではないと認識されて、むしろ安全な方法だと勘違いしてしまうこともあります。
頑なに前例踏襲をし続ける姿が、ある意味そうした「ついていた」経験の累積によって引き起こされるとするのであれば、とても看過できるものではないと思われますが、下手に指摘すると喧嘩になってしまう。

安全と危険という感覚は、やはり想像力をどのような形で働かせることができるか、ということではないかと私は考えます。
山は基本的に危険地帯であるという認識に基づいて想像力をたくましくする。
それは、その時に辿るルートに関しても同様で、特にアルパインの既存ルートでは残置支点を使用することが前提となることがほとんどですが、その支点は初登者が自分が登るために必要だから打ったピトンでありボルトであることを忘れてはなりません。
赤の他人が登るためにわざわざ打って差し上げたものではない。
従って、その支点を全面的に信用するということ自体、ある意味では他人に自分の命を(無防備に)預けているようなものなのではないでしょうか。

ところで誤解がないように改めて付け加えますが、私はブーリン結びを全面的に否定する立場はとりません。簡単に結べて締まっても解きやすく、用途によっては大変便利な結び方だからです。
例えば、予想しなかった悪場に直面し、アンザイレンが必要になったときなど、ハーネスがない場合は直接体にロープを結ばなくてはなりませんが、そんな折にブーリン結びは非常に有効です。
緩みやすいという欠点についても、変形ブーリンとか二重ブーリンにしてきちんと末端処理をすれば、かなりの部分安心感が増しますし。
その意味では知識として知っておくことは非常に有益だと思います。
そういう判断も、ある意味では想像力を生かすべき点なのかもしれませんね。

思えば、私が趣味として登山を始めた20歳くらいの頃(45年位前ですね)、両親を始め身内からは強烈な反対をされました。
山といえば遭難、遭難すれば命にかかわる、そういう連想がその頃にはかなり支配的だったのかもしれません。
登山が、だれでも楽しめるメジャーで明るいイメージのレクリエーションとなっている現在ではちょっと想像がつきませんね。

しかし、繰り返しますが、山が易しくなったわけではないと、私は思っています。
余計な事ばかりつらつらと書いてしまいましたが、不用意な遭難が多発していることが、やはり大変気がかりでついつい駄弁を弄してしまいました。妄言多謝ですね。

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劇場版 鬼滅の刃 無限列車編 [映画]

活発化した秋雨前線の影響で、日本列島は大雨の被害に見舞われています。
新型コロナの感染爆発とも相俟って、何とも重苦しい日々が続くこととなりました。

8月13日、「劇場版 鬼滅の刃 無限列車編」のビデオレンタルが開始。
気になっていた映画でもありましたから、早速、借りてきて視聴しました。

夏休みの時期でもありましたから、近所のツタヤの営業が始まる頃に合わせて出向いたのですが、大量の在庫が確保されていたのにも関わらず、既にかなりの本数が貸し出されていました。
因みに、本日、返却に出向くと、一本だけがレンタル可能として残っているような状況で、想像以上の人気のようです。

なお、今回このビデオをレンタルすると、こんな団扇がおまけとしてついてきます。

kimetu.jpg

「日輪刀診断」ができるとのことなので、早速挑戦。
私の場合は「獣の呼吸」つまり嘴平伊之助で、少しがっかりしてしまいました(汗)

この映画は、興行収入において400億円を超え、観客動員数でも2900万人を超えて、それまで20年以上にわたって首位であった「千と千尋の神隠し」の記録を塗り替えたことでも話題となっています。
新型コロナウィルスの蔓延という、映画館にとっては非常に由々しき環境の中での記録ですから、やはり驚くべきものがありますね。

私は臆病者ですので、そんな状況下、さすがに映画館に足を運ぶ気にはなれませんでした。

しかし、このビデオを観て、これはやはり一度、映画館で観るべきだったなと感じております。
音楽を担当したのは椎名豪さんですが、彼は、楽曲のみならず効果音の使い方や、それの劇場における再生の仕方(スピーカの位置やそのスピーカーで鳴らす楽器の音なども含めて)に至るまで、担当スタッフと綿密に打ち合わせを行ったとのこと。
ライトモチーフのような使い方も随所に見られ、映画館のような映像・音響空間でこれに接したとすれば、相当に興奮したことは間違いないことでしょう。
自宅のテレビでは、残念ながらその片鱗すらもうかがい知ることはできません。

劇場アニメ化するにあたって、入り組んだ背景などもかなり分かりやすく表現することに努めているように感ぜられたので、コミックを読んでいない観客(前提知識を持たない人たち)にも、この物語の感動的な内容はきっと伝わったことでしょう。
以前の記事にも書きましたが、ufotableはこの原作に相当入れ込んで制作しているのだなということが感ぜられ、コミックを読んで、その中で想像をたくましくした場面(鬼との格闘場面など)が、驚くべき精緻さと迫力を以て画面に展開されていく様には驚嘆せずにはおられませんでした。

この作品(コミック)、本編での展開を出来る限りスムーズにものにするため、説明が必要な部分を本編以外の「大正コソコソ話」や少し長めのテキストなどで補完しています。
作者である吾峠呼世晴さんは、作家的な観点からこのコミックを書いており、漫画のみではなくそこに至る背景もきちんと描きたいという想いを大切にしているのではないかと考えます。
その意味では、全てを映像によって表現しなければならないアニメの世界との間での制約がどうしても存在し、その点での不足はあるように感じました。
(これは、手塚治虫さんの「火の鳥」などとも共通するものがあるのかもしれません。「火の鳥」も実写やアニメで何度か映画化されましたが、やはり原作では漫画に付随された丁寧なテキストが非常に重要な位置を占めていて、それを的確に映像表現できなかったこともあり、どれもとても原作には及ばない出来でしたから。)

例えば、魘夢が自らの血をしみこませた切符と縄によって深い眠りに落とし込んだ鬼殺隊のメンバーを覚醒させたのは、禰豆子が爆血によってそれらを燃やしたから、という説明が本編以外で(本編に入らなくてごめんなさいという作者の断りとともに)書かれているのですが、映画の方では、善逸たちに火を放つ、という形での表現にとどまる部分など。
それから、炭治郎の無意識領域の美しさ、コミックを読んで私はきっとウユニ塩湖のような景色なのだろうなと想像しておりましたが、映画の方でも正しくそのような世界で描かれています。
炭治郎の「精神の核」を破壊しようとした結核の青年は、そのあまりの美しさと温かさ、そして、炭治郎の心を映し出したような光の小人の存在に感動し、優しかった自分自身を取り戻すのですが、現実に引き戻される折に、その光の小人の一人をつかんで自分の心の中に移し込む。
ここの下りはコミックを読んでいる中でも感動的な場面でしたが、映画では具体的に表現されていませんでした。

そういった細かな気になる点はありましたが、先にも書きましたように全体としては原作の世界を忠実に描こうとした意欲は伝わってきます。

多くの観客が涙したという杏寿郎の最期。
私は、コミックを読んだときに、あの何とも言えない美しい笑顔に言葉を失いボロ泣きしてしまったので、そこは想いを同じうします(コミックでは、ページをめくった最初のコマがそれでした)。
映画では、その後に静かに逝ってしまう杏寿郎の満足げな表情、さらに彼の訃報を伝える鎹鴉の目に浮かぶ涙が付け加えられ、これにはうならされました。

さて、アニメの世界では、もう一つ「シン・エヴァンゲリオン劇場版(リピート記号)」がやはり大評判となっています。
様々な解釈を生んだ同作の、庵野監督による完結編であり、劇場での上映は終了しましたが、Amazonプライムでの放映が開始されたようですね。

「エヴァ」は多くの視聴者や観客などに大きな影響を与え、ことに漫画家とかアニメーション作家が受けた影響は計り知れないものがあると思います。
私の勝手な解釈ではありますが「鬼滅の刃」でも、それは随所に見られるような気がしており、この「無限列車編」でも、「それを壊すと廃人になる」といわれた精神の核が、使徒の急所である「コア」と似ているように感じました。それを守っている「A.T.フィールド」を切り裂く(破壊する)必要があることも含めて。
もっと大きな視点でいえば、人類補完計画の為に知恵の実と生命の実を取り込んで「神」になろうとする碇ゲンドウは、太陽を克服し永遠の存在を希求した鬼舞辻無惨(自分では果たせず炭治郎に託す)に、それにとりこまれる寸前でそれを阻止することになる碇シンジは炭治郎に、私の中では重なって見えてしまうのです。

などとつらつら述べてきましたが、以前も書きましたように、アニメやコミックは時として非常に深い世界観を表出しております。
そうした世界を創出してきた作者たちに、改めて満腔の敬意を払いたいと思います。

最後に、どうでもいいことではありますが、一点だけ。

テレビでも放映された「那田蜘蛛山編」で、兄鬼に蜘蛛にされかかった善逸に兄鬼が示す懐中時計の秒針の動きがクオーツのそれでした。
いうまでもないことですが、大正時代にクオーツは存在しません。
従って、秒針の動きは機械式時計のそれのように、発条の動きに合わせてチッチッチッチと細かく刻まれるはずです。
大正時代の世情などを相当程度丹念に描いていたのにもかかわらず、この点はかなり迂闊だったのではないかと残念に思いました。
些細な事ではありますが。

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新型コロナについて [日記]

新型コロナウィルス新規感染者が、幾何級数的に激増しています。
検査件数がかなり増加していることも要因の一つかもしれませんが、やはりデルタ株への置き換わりが急速に進んだことによるところが大きいのでしょう。
報道などによれば、一人の感染者から移る人数が、以前は一人だったのが8~9人くらいに拡大されているとのこと。
数字的な真偽は検証できませんが、感染力の強さはかなりのものがあるようです。
東京都では重症者も増えているということですから、医療スタッフの方々のご労苦いかばかりかと危惧しております。
たとえ無症状や軽症であっても、陽性となれば隔離をしなくてはならないわけですから、感染者が爆発的に拡大し、緊急事態宣言の対象となっている都府県での医療崩壊は正に目睫に迫っていることでしょう。

因みに、私の知人にも感染を経験した者がおりますが、軽症者は高熱と怠さに苛まれ味覚障害が出ました。中等症レベルの感染者は肺炎を発症したため酸素吸入を施され、本人曰く「死ぬのではないか」というほど苦しかったそうです。
元プロ野球選手の長嶋一茂さんのお友達で、やはり中等症レベルに至った方は、入院できずに自宅で酸素吸入をし、重症化すれば死ぬかもしれない、そのときには意識はなくなるだろうと「遺書」を書いたそうです。

若い人たちの中には、仮に新型コロナウィルスに感染しても大したことはないと高を括って感染リスクの高い行動を続けている人もいるようですが、舐めてかかるのは非常に剣呑と思います。

ところでワクチンの接種、私は7月の初旬までに二回目も終えました。
幸い翌日の筋肉痛程度の副反応ですみました。

ワクチンは、基本的にメッセンジャーRNA(mRNA)型であり、開発期間も非常に短かったことから、現在は、全世界的な「治験」の段階にあるものと思われます。
その意味では、効果がどの程度のものか、また接種による人体への中長期的な影響はどうなのか、そのあたりは全く分かっておりません。
あくまでも「希望者」への接種ですから、現在いわれている副反応や将来的な懸念などを危惧し、「受けない」という選択肢は当然に保障されるべきでしょう。

なお、新型コロナワクチンの効果は次のようなものとされています。

日本で接種が進められている新型コロナワクチンにはどのような効果(発症予防、持続期間)がありますか。

これによると、厚生労働省の公式見解は以下のもののようです。
日本で接種が行われている新型コロナワクチンは、いずれも、新型コロナウイルス感染症の発症を予防する高い効果があり、また、重症化を予防する効果が期待されています。効果の持続期間や、感染を予防する効果についても、時間の経過や接種者数の増加に伴い、研究が進んでいます。

感染はしにくくなり重症化を予防する効果も期待されるとのこと。

接種をすることによって一定の安心感は得られるようですね。

しかし、感染を100%防ぐことはできない。
この場合、感染しても重症化しにくいということは、感染後無症状でいることも当然にありうるわけです。
とすれば、感染に気付かない人もいることになり、状況によってはサイレントキャリアとなってしまう危険性もなしとしません。

私事で恐縮ですが、前回東京オリンピックが開催された1964年の10月、正に開催期間中に私は通っていた小学校で発生した集団赤痢に罹患し、クラスの仲間たちと一緒に二週間ほど山の中の施設に隔離されました。
楽しみにしていた聖火ランナーを見ることはできず、もちろん競技を生で見ることもできませんでした。
当時、小学二年生だったこともあり、子供心にも残念に思った記憶があります。
それはともかく、それから一年間、私たち罹患者は「健康保菌者」とされ、定期的な検便、消毒や手洗いの徹底など、日常生活においても様々な制約を受けたものです。

新型コロナの恐ろしさは、肺炎への進行の確率が高いことでしょう。

巷では、「インフルエンザ程度」などと嘯き軽視する人を見かけるようですが、インフルエンザから肺炎に進行し死に至る人はごく少数と聞きます。
単純な致死率の比較でも、新型コロナはインフルエンザとは桁違いに高いことを忘れてはいけないと思います。

私は、連れ合いを肺がんで、父を肺炎で、立て続けに亡くしました。
肺に起因する疾病の苛烈さを間近で見ていますので、新型コロナウィルスの恐ろしさをとても軽視できません。

先に新型コロナワクチンを二回接種済みと書きましたが、人混みに出ることを極力避ける、やむを得ずそうした場所に出かけなければならない場合は必ずマスクを着用する、手洗いやうがいなどを励行する、飲食店への出入りは極限までに控える、帰省や旅行もしばらくあきらめる、などの対策は継続中です。
自分が罹患することよりも、万が一サイレントキャリアとなってほかの人に移すようなことがあってはならないと考えている部分が強く、それは小学生の頃のつらい体験がもとになっているのでしょう。

机上の空論ではありますが、すべての人々が他人との接触を100%抑えれば、一週間程度で感染は収束するのだろうと私は考えます。

もちろんそんなことはできようはずもありませんが、新型コロナの感染はそういう性格のものだとの認識を持ち、一人一人が感染のリスク(感染させるリスクも含めて)をきちんと分かったうえで慎重な行動をとることが必要なのではないかと、老婆心ながら思う次第です。

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