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LPレコードの処分 [音楽]

酷暑続きだったこの夏も、このところようやくその暑さも落ち着いてきた感があります。
異常なまでに早かった梅雨明け後、雨模様の日が続き、それが治まってからは猛暑がやってくる。
なんとも厳しく高齢者には辛い気候でした。

私事になりますが、7月から新たな職場で働くことになりました。
契約終了のため3月末で退職して無職となり、その後ハロワなどで職探しに勤しみましたが、さすがに65歳を超えると難しいものがあります。
そんな中、以前の職務経験をそれなりに生かせる仕事を見つけることができ、一息ついたところです。
収入確保も重要な要件の一つですが、無職の単身世帯では当の本人に何か事故が出来した場合のリスクが極端に高くなってしまうため、それを回避する意図もありました。
考えたくはないのですが、自宅で体調不良となり、結果として落命した場合に、その事故が明らかになるのに相当な時間を要してしまいます。
その間は放置されるわけで、周りの知るところとなった時の惨状を想像するだけでも背筋が寒くなりますね。
就職して新たな職場に通うことになれば、仮にそのような事態となっても登録した緊急連絡先(私の場合は郷里に住んでいる妹)を通じてタイムリーな対処が可能となることでしょう。
ほっと一息、とは正にそんな想いからです。

さて、八ヶ岳山麓にある私の実家で一人暮らしをしている母が、今年で90歳となりました。
足腰が極端に弱くなり、手もかなり不自由になってきたことから、調理器具をガスからIHに変えたりディサービスを利用したりと、様々な対処をしてきましたが、その一環でバリアフリーを中心とした実家のリホームに着手したところです。
ほぼ全面改築といってもいいほどなので、様々な家具や荷物を整理しなければならず、母も積極的に絡みながら、妹家族の強力な手助けもあって半年近く片付けに邁進しました。
私の荷物もかなりの量に上っており、大量の書籍のほか、オーディオ関連の機材も数多く残っています。
以前もこのブログに書きましたスピーカーやアンプなどもあり、作ったまま未調整で放置しているアンプも倉庫から引き釣りだし、一部は横浜の自宅に持ち帰ることにしました。

そんな中、大量のLPレコードの処分がかなりのネックになりました。
初めて自分の小遣いでレコードを買ったのは中学一年生の時で、購入の中心がCDに移行したのは30歳のころでしたので、20年近く買いあさったわけです。
これを廃棄するとなると、ジャケットからレコードを取り出して分別ごみとして処分しなければなりません。
しかし、それなりに思い入れも強くあり、そうした即物的な廃棄はやはり無念。

そんな中、このところCDなどを購入する際に利用していたHMVがLPレコードの買取も行っていることを思い出し、申し込みました。
本人確認に現住所との突合が必要なため、対象のLPレコードを自宅に車で持ち帰り選別。
これはどうしても捨てられない!、というものをそれでも5~60枚くらい残しましたが、200枚を出すことにしました。
record202208.jpg
結構な量です。
若いころはワグナーを夢中になって聴いていたこともあり、フルトヴェングラー指揮やカルロス・クライバー指揮の「トリスタンとイゾルデ」とかショルティ指揮の「さまよえるオランダ人」、クナッパーツブッシュ指揮の「パルジファル」なども、今回処分の対象としています。
「ニーベルンゲンの指輪」も、ベーム指揮とショルティ指揮のものをそれぞれ所持していますが、こちらはさすがに残しました。それぞれ18枚組と15枚組なので、果たしてこれからレコードで聴く気になるのか定かではないのですが。

ほかにも、ヴァルヒャ演奏のJ.S.BACHオルガン曲全集(7枚組)などもあり、搬送用の箱に詰めながら、やはり胸に迫るものがありました。
買取価格がどの程度になるのか見当もつきませんが、値段はともかく、もしかすればどこかでまた再生される可能性があると考えるだけで、少し気持ちが落ち着きます。
廃棄物として捨ててしまえば、これらの名演奏レコードが顧みられる可能性は全くなくなってしまいますから。

実家のリホームについては、先日、内部の取り壊しが始まりました。
私は仕事の関係で立ち会えませんでしたが、LINEで写真が送られてきて、ある程度現状を把握することができます。
便利な世の中になりました。

因みに、私がこの年で再就職を考えたのも、このリホームが一つの要因です。
かなりまとまった資金が必要となりますから、これからのことも考えると年金収入だけに頼るわけにはいきません。
これは大きなモチベーションでした。
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山の手空襲 [映画]

5月25日、77年前のこの日、太平洋戦争における最後の都心空襲となった山の手空襲がありました。

4000人余犠牲の山の手空襲から77年 小学生も参加し追悼の集い

広津和郎さんの著作「年月のあしおと」にもそれに関する記述があり、当時広津さんがお住まいになっていた世田谷四丁目までは来なかったものの、三軒茶屋は火の海になったそうです。

3月10日の東京大空襲(死者10万人以上)に比べれば少ない数かもしれませんが、焼夷弾によって焼き尽くされる恐怖は、想像するだに身の震える思いが致します。

空を悠々と飛行しながら焼夷弾を落とすB29の姿、そのうちのいくつかが高射砲などによって撃墜されることがあったそうですが、きりもみなどということはなく、大きく旋回しながら落ちていき、この世の物とは思えない印象があったとのことでした。

米軍による無差別爆撃のことを想うたびに、私は「メンフィスベル」というアメリカ映画を想起せざるを得ません。



これは、ウィリアム・ワイラー監督による同名の記録映画を劇映画化したものですが、敵地の上空を飛びながら爆弾を落とす爆撃機の恐怖と緊迫感をサスペンスフルに描いた映画です。

この映画の中で、ドイツ軍の戦闘機工場を爆撃する目的で旋回しつつ、爆撃による煙などで視界不良となっていることから、工場の付近にある病院や小学校などを爆撃しないように注意を払う、という場面があります。
病院や学校を攻撃したくはない、という、実に人道的な行動で、そのために爆撃機は危機に陥ってしまう、という筋書き。

なんというご都合主義的かつ偽善的な描き方か、と、私はこの映画を観たときに憤りを禁じえませんでした。

いうまでもなく、米軍によって行われた絨緞爆撃は、その下に病院があろうが学校があろうが全く関係なく、むしろそうした場所には多くの人々が集まっているとばかりに集中的な攻撃をしてきたのではないか。
B29による絨緞爆撃のほか、P51などによる機銃掃射によって、「動くものはすべて標的」といった攻撃にさらされた当時の日本の庶民。
私の父母もそのときの恐怖を、常々語っておりました。

私は、毎年、三月くらいから、東京大空襲、沖縄の地上戦、日本各地に広がった空襲、広島・長崎への原爆投下、などへの想いを新たにしています。

こうした悲劇を招いた原因がどこにあるのか、そして、それでも(米国は)ここまでする必要があったのか、また、どさくさに紛れたこそ泥のような行為(ソ連による北方領土侵攻など)はどうなのか、考えてみても、なかなか納得はいきません。
ただ、忘れずにいたいなと、思うばかりです。

また、もう一つ忘れてはいけないことは、この 無差別爆撃の端緒を開いたのは日本軍による重慶爆撃であったということ。
大変嫌な言い方ですが「因果応報」という冷笑を浴びる虞もなしとしません。

このブログでは、こういうことを書かないように気を付けてきましたが、山の手空襲の記事を読み、つい愚痴をこぼしてしまいました。
いけませんね。
ちょっと反省しつつアップします。
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BS松竹東急 [映画]

今年のGWはお天気に恵まれ、新型コロナウィルス感染防止のための行動制限も解除されたことから、行楽地を中心に大変な人出となりました。
ニュースなどでは各地の高速道路の連日の大渋滞を繰り返し伝えておりました。

恥ずかしいことですがちょっと転倒して怪我をしたこともあって、連休は大人しく家で養生中です。
怪我をしたのが2日の晩でしたので、三連休中は病院にも行けず、6日に診察してもらったところ、残念なことに肋骨骨折との診断。
現役で山登りをしていた時には、結構この手の怪我はしていたので、恐らくやっちゃったんだろうなと思ってはいましたが、やはり無念でした。

尤も、私はこの三月末で、それまで勤務していた会社の雇用契約が終了し、現在ハロワに通う失業者となっておりますから、そもそも連休など何の関係もなかったのですが。

三月末に、衛星放送で「BS松竹東急」が開局されました。
松竹映画の名作などが放映され、私のようなオールド映画ファンにとっては大変うれしいチャンネルです。
このところテレビではほとんど放映されなくなった、野村芳太郎監督の「張込み」や山田洋二監督の「霧の旗」などが立て続けにラインナップされ、久しぶりに胸をときめかせながら観ました。



今年が没後三十年ということもあってか松本清張特集も組まれており、「張込み」や「霧の旗」に引き続き「わるいやつら」や「疑惑」も放映。
面白く観たところです。

「わるいやつら」は、片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)・藤田まこと・緒形拳・佐分利信といった実力派俳優を綺羅星のごとく集めた映画ですが、細部が詰め切れておらず散漫な印象が強く残る、野村芳太郎監督としては凡作の一つなのではないかとの感想をあらがえません。

それはともかく、片岡孝夫演ずる戸谷信一の情婦・寺島トヨの役を宮下順子が演じており、ちょっと時代を感じました。
宮下順子と云えば、私たちにとってはロマンポルノの女王としてゆるぎない地位を築いた類まれなる女優の一人です。
団地妻シリーズが有名ですが、私は、神代辰巳監督の「赫い髪の女」と田中登監督の「実録阿部定」がお気に入り。
何れも、ロマンポルノの枠組みを軽々と超越した名作だと思っています。
ご興味のある向きは是非とも一度ご鑑賞ください。



さて、医院を経営する戸谷信一は次から次へと女を誑し込んで金を巻き上げる悪徳医師であり、それ故にそうした女性たちとの情交のシーンが数多く出てきます。
その医院の看護師長であり情婦でもある寺島トヨとの間でももちろんそうした濃厚なシーンが展開されます。
そうした濡れ場のシーンで、宮下順子の裸の胸部がぼかされていました。
それ以前の、ナイトクラブのシーンで裸で踊る外人女性の胸部も同じくぼかされていましたので、あれ?と思ったのですが、私が映画館でこの映画を観た時にはそのような処置はされていなかったと記憶します。

なるほど、これは「BS松竹東急」の見識なのでしょう。
放送時間帯が20時前から、ということを鑑みれば、子供たちが観ることも当然ありうることですから。

この映画作品の性格上、情交シーンは不可欠なのでしょうが、そうしたシーンで女性の裸の胸部をさらけ出さなければならない必然性は果たしてあるのか。
先に取り上げたドライブ・マイ・カーでは、妻がニンフォマニアであるのかもしれないという疑いを視覚的に表す必要もあってそうしたシーンも登場しますが、裸体ではありつつも非常に抑制的だったと私は感じています。
ロマンポルノのように、それが基本的かつ重要な制作条件で一つの売り物となっている場合はいざ知らず、それが主たる目的ではない映画で、徒に女性が裸の胸部などあられもない姿を画面にさらす必要が果たしてあるのか。

溝口健二の「祇園囃子」という映画があります。
木暮実千代演ずる芸妓の美代春が、若尾文子演ずる舞妓の栄子(美代栄)を救うために、贔屓先企業の事業認可担当である役所の神崎課長に(それまで拒み続けてきた)身をゆだねるシーン。
神崎の寝ている寝室の隣部屋で着物を脱ぎ襦袢姿となった美代春は、そっと足袋を脱ぎます。
それだけのしぐさで全てを表した溝口監督の演出力に感嘆したことをふと思い返しました。
たまたま手元にその映画があったので改めて見返しましたが、今観ても切なさと哀れさのほかになんとも云えない艶を感じたものです。
意に沿わない相手の男に抱かれる理不尽さは、想像するに余りありますね。

そう、別に即物的な映像を見せつけられなくても、観客は流れの中でそうした行為も感じ取るものなのでしょう。

もちろん、女性にしても男性にしても、一糸まとわぬ姿にならなければ表現の核心に迫れない作品もあることは私も認めます。

しかし、そうした必然的な理由がないのであれば、表現者はもう少し観客の想像力を信ずるべきだとも思います。

因みに、「わるいやつら」の中での宮下順子以外の女優さんは、情交シーンでも彼女ほど「サービス(?)」はしておりません。
女優さんと監督の判断の問題なのでしょうが、そのあたりの差異を論ずるのは、これまたなかなかやっかいなものがありそうですね。

映画というものは一種のエンターテインメントですから、観客の興味を引くためにエロ・グロ・バイオレンスをふんだんに盛り込むという行き方も当然にあります。
ハリウッドなどでもそういう映画はたくさんありますし、もちろん邦画でも。
従って、最初からそれを当て込んだ映画製作も当然あってしかるべきでしょうし、そういう映画が大好きだという観客が存在する以上、商業映画としてはそれを無視するわけにはいきません。

ただ、映画というものを一つの表現芸術だと考えた場合、そうしたある意味あからさまな表現を用いることの必然性、そのことによって表現したいもっと奥深いものを観客に訴えかけるという目的、そうした表現者としての確固たる視点も求められるように思います(先にあげたロマンポルノの作品には、そうした視点がありました)。
「観客もそういうシーンを求めているから」というところに安直に寄りかかって映画作りをする、そういう姿勢がもしもあるとするのであれば、それは表現者として一種の限界に至っているのではないか。
私はそのように考えてしまいます。

もちろんこれは私の大いなる偏見ではありますが。
妄言多謝。
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映画界の性加害問題 [映画]

四月という時期にもよるのでしょうか、このところ天候が安定せず、気温の変化も大きくなっています。
どうも体調を崩しがちで、先日も大腸憩室炎が再発してしまい、早めに対処したので抗生物質の投薬だけで治りましたが、念のため大腸内視鏡検査を受けることにしています。
やはり年齢を重ねるとともに、あちこち体にガタが来てしまうようですね。
適切なメンテナンスが必要だなと、改めて痛感しているところです。

映画界の性加害に関し、地獄の釜の蓋が開いたような状況になっています。

水原希子が告白、新たに女優3人も告発…映画界の性加害者たちに共通する「悪辣手口」

この問題に関していえば、2007年に米国の性暴力被害者支援の草の根活動のスローガンとして提唱された「Me Too」運動が思い起こされます。
2017年、ハリウッドで「大物プロデューサーによる性加害」が被害女優によって告発された際、この運動が爆発的な広がりを見せたことは記憶に新しいところです。

もちろん日本でも例外ではなく、様々な局面や媒体で隠然と語られてきた話でしたから、恐らく早晩そうした問題が明るみ出ることだろうと思っておりました。
一世を風靡した女優の有馬稲子さんが、その著作の中である映画監督との不倫・堕胎で苦しんだことを告白しており、「あれほどの女優さんでも…」と慨嘆したことを思い起こします。

これに対して、是枝裕和監督を中心とした6名の映画監督有志が声明文を発表しました。

是枝裕和監督、俳優演出に関し持論つづる 背景には反対声明を出した映画監督ハラスメント問題

「特に映画監督は個々の能力や性格に関わらず、他者を演出するという性質上、そこには潜在的な暴力性を孕み、強い権力を背景にした加害を容易に可能にする立場にあることを強く自覚しなくてはなりません。だからこそ、映画監督はその暴力性を常に意識し、俳優やスタッフに対し最大限の配慮をし、抑制しなくてはならず、その地位を濫用し、他者を不当にコントロールすべきではありません。ましてや性加害は断じてあってはならないことです」

全く仰る通りと思いますし、これが当の監督さんたちの集まりの中から発せられたことは大変有意義なことだと思います。
完全な形で改善されていくのかどうかはかなり難しいものと思われますが、恐らくこれからもこうした声は続々と上がってくることでしょう。
脛に傷を持つ人たちは、もしかすると戦々恐々としているのかもしません。

ところで、私はこのことに関して、個人的にある疑問を感じています。
映画監督は、いわば己の表現世界を映像と音響のもとに具現化させることを目指すアーティストなのであり、そのためにはその作品に関し、そのすべてを俯瞰し透徹した目で精査することが求められているのではないかと考えます。
それにもかかわらず、もしも仮に、その中の特定の演技者に肩入れするようなことがあれば、その段階で表現者としては失格なのではないか。
これに関し、私は次のような森谷司郎監督(故人)の言葉を思い起こします。
(監督デビュー作である「ゼロ・ファイター/大空中戦」を撮影していたとき)八丈島でロケーションをしたんだけれど、その中に、加山雄三の隊長が、飛行機で基地に飛んでくるのを、八人の航空隊員が待っている、というシーンがあった。

──中略──

その八カット目を撮っていたときに、撮っているぼくには、そのシーンに出てる人間八人の内の一人しか、見えなくなってしまったのね。「こりゃ、いかん」と思いましたね。つまり監督というのは、ある画面の中に八人の人間が入っているとしたら、その八人の総体を見てなきゃ、いけないわけだよね。

そのため、森谷監督は「今までのカットは全部リテークする。これは自分のミスだ」とみんなに頭を下げて全カットを撮り直しました。
新人監督ではありましたが、それまで黒澤明監督の下でチーフ助監督を務めるなどの実績を積んできていたわけで、周りからの反発や冷笑を一斉に浴びることになったそうです。
それでも「なんでもいい、もう一回やらせてくれ」と言ったことで、その後が変わったとのこと。
もし、あの時、そのまま撮り進んでいたら、その後のぼくの映画作りは、かなり駄目だったんじゃないか、というね、気持はあるな。
(出典:白井佳夫著「監督の椅子」)

森谷監督の言葉にもあるように、一つの作品の制作に取り組んでいる時の監督の立場は非常に厳しいものが要求され、俳優はもとより、スタッフ全般、ロケ地の天候など、様々な事象に対して細心の注意を払わなければなりません。
特定の俳優にちょっかいを出して、それで作品をまともなものに仕上げることなど、果たしてできるのでしょうか。

現在告発されている監督たちは、ある方面ではそれなりの評価をされているようですが、実は私はいずれも未見です。
そして、この問題が起きたことから、さらに彼らの作品を観たいという気持ちが失せました。
これはあくまでも独断と偏見による思い込みではありますが、恐らくそこにはかなり粗雑なものを感ずることになると思われますので。

なお、こうした性加害に関することは、啻に映画界のみならず、音楽でも演劇でも絵画でもスポーツでも起きています。
それらについて書き始めると際限がなくなりますので、今回はここで収めたいと思います。

いずれにしても、指導・監督するなどの絶対的な立場にいる人間が、それを受ける立場の人に対して強権的にふるまう。
そうしたことが当然のように繰り返されていることに、私たちは問題意識を持ちきちんと目を向けねばならないと考えます。

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ドライブ・マイ・カー [映画]

ソメイヨシノが満開となり、散り始めています。
今シーズンの寒さは格別でしたが、寒波が収まってからは急速に気温が上がり、開花はむしろ早まったくらいという気がしますね。

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」が、カンヌ国際映画祭の脚本賞・国際映画批評家連盟賞、ゴールデングローブ賞の非英語映画賞などの受賞に続いて、アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞しました。



先日、ウォーキングのついでにツタヤに立ち寄ったところ(シン・エヴァンゲリオンリピートがDVD化されていないかな、と思って)、この映画のDVDがリリースされていたので、早速借りてきて鑑賞。

大変評判になっている映画でしたので、胸を躍らせながら観たのですが、予想にたがわぬ素晴らしい作品でした。

「サーブ900ターボ」が重要なアイテムになっていることから、一種のロードムービーということもいえましょうが、その意味からすれば、人の深層心理をたどる旅、という点にこそ着目すべきと感じます。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の舞台演出が物語の中心に据えられ、その劇中劇における「そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。」というソーニャのセリフ(この映画では手話)に収斂されていく。

悲しみや苦しみや辛い想いを心の中に押しとどめて生きていこうとする人々が、最後にその桎梏から解放されることによって大きく深い癒しと魂の救済に到達する。

非常に壮大な魂の旅路を描いた映画だと、私は感じました。

西島秀俊が演ずる家福悠介の心の痛みや苦しみ。
それは共に深く愛し合っていると信じていた妻がほかの男と激しく抱き合っている姿を偶然見てしまったことから始まります(妻は夫にその様子を見られたことに気づいていないと思われる)。
悠介は深く傷つきますが、それを妻に話すことはできない。なぜなら、それをすれば二人のこれまでの「幸せで満ち足りた」関係を壊すことにつながるから。
つまりこれは現実逃避であり、カタストロフを見たくない気持ちから出ているのでしょう。
ある日、妻が改まった口調で「あなたの帰宅後に話す時間をとってほしい」と夫に告げます。
夫はその言葉に怯えたかのように深夜に帰宅すると、妻はくも膜下出血で倒れておりそのまま帰らぬ人となりました。
その妻と深い関係にあった一人ではないかと悠介が疑っている高槻耕史(岡田将生が好演)が狂言回しのような役どころで、悠介の知らなかった妻の想いの一部分を彼に語ります(サーブ900ターボの車内でのことですから運転手の渡利みさきも聞いている)。
悠介は、自分の全く知らない妻の中にある深い闇にたじろぎ、さらなる深淵に叩き込まれる。
高槻はそんな悠介を見据えながら、それでも皆を取り巻くこの世界は表面上まったく変りなく平穏に過ぎていくように見える、しかし、内面は既に禍々しい何かに代わってしまっている、と語ります。

一方、サーブ900ターボの運転手である渡利みさき(三浦透子がこれまた好演)にも、胸に秘めた暗い過去があり、悠介とともに向かう彼女の郷里への車中旅の中でそれも明かされます。

こうしたテーマが進展していく中で、多国籍の俳優による「ワーニャ伯父さん」の公演に向けたやり取りが挟まれ、それが不思議な連携をしつつラストに向かいます。

感動したところがあまりに多く、ネタバレにつながってしまう虞が大きいため、内容についてはこの程度で止めておきましょう。

いずれにしても、非常に優れた脚本であり、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しアカデミー賞でもそれにノミネートされた理由は誠に納得のいくものでした。

それから、映像、特に色彩の美しさには目を奪われます。
悠介の愛車「サーブ900ターボ」は赤で、これに対比させる色の使い方が素晴らしい。
接触事故を起こしたときの相手の車は紺色で、その二台を真上から撮っているシーンは配置も含めてハッとさせられるほど美しいものでした。
トンネルの内部は、私も時折運転するたびに、ああ、美しいな、と感ずることがあるのですが、このトンネルを車で走り抜けるシーンの美しさも印象に残ります。
そして、倒壊したみさきの実家の残骸を前に佇んで抱擁する二人を包み込むように、それまで冬の曇天だった空から陽射しが舞い降りてあたりを柔らかな黄金色に変えていくシーン、停車していたサーブも同じように光に包まれていく、ここは正に息を飲むような美しさです。

さらに、音楽も含めた音響効果も特筆すべき高いレベルにありました。
特に音楽の用い方は非常に抑制的で、それ故に効果も抜群です。
また、例えばモーツァルトのロンド・ニ長調やベートーヴェンの弦楽四重奏曲などの用いられ方にも見られるように、大変細やかな音響設定がなされています。

今の日本でも、このように丁寧に作られる映画があり、それがきちんと評価されていること。
そのことに満腔の喜びを感じております。
細部にわたっても大変丁寧に作られており、例えば、みさきの郷里である北海道の積雪を考慮して、途中のコメリで長靴を買ったり、車で通過したところに花を売る産地あったのに気付いてバックし、花束を買う、などという細かな描写もきちんとインサートされています。

このブログでも再三再四書いてきたことですが、私は、人が百人いれば百の思想があり百の偏見がある、と思っています。
つまり、人の数だけその人にとっての真実があるわけであり、他の人がそれの全てを知ることは完全なる不可能事。良くて一部に同調するとか理解はできる部分がある、というところが関の山でしょう。
それどころか、自分の深層心理さえも、状況によっては自分自身で把握することが難しいのではないか。
この映画の中では、解離性同一性障害を暗示する部分があります(みさきの母もそうであった可能性が高い)。
妻の「不貞」を許すことができずにそれによる苦しみに呻吟する悠介にみさきが問いかけます。
夫を深く愛している奥さんも、夫の他に男を求めてやまない奥さんも、両方とも奥さんなのであり、奥さんとしてはそこに何らの嘘も矛盾もない、そういう人だったということを認めてあげることはできないのですか、と。
これにはさすがにうならされました。
悠介は妻一筋で、妻だけを深く愛しており、他の女の人と関係をもつなどということは考えられなかったわけですが、恐らく知らず知らずのうちにそれを妻にまで求めていた、ということなのでしょう。
そのことで彼は深く傷つき苦しんだ。
その気持ちを正直に妻にぶつけるべきだった。
それによって寛解できるわだかまりもあったのかもしれない、ということなのかもしれません。

深く感動しつつも、やはり考え込んでしまいました。
もしも自分だったどうだろうか、そう問いかけることも含めて、この映画は様々なことを考えさせてくれます。

観返せば観返すほどに、また新たな想いが沸き起こる。
久々に接した、そういう映画であったことをうれしく思っています。
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ウルトラセブン4Kリマスター版 [音楽]

このところようやく気温が平年並みとなる日が多くなり、梅の花が盛りとなりました。
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例年ですと、白梅のほうが先に咲き始めるのですが、今年はほぼ同じ時期に花をつけているようです。
梅のさわやかな香りが漂い、嬉しくなりました。

ミツマタの花も蕾をつけ始め、この週末はぐんと気温も上がる予報ですので春の花も見ごろを迎えそうですね。

先日、日曜日の朝8時からNHKBSプレミアムで放送されてきた「ウルトラセブン4Kリマスター版」の放映が終わりました。
約一年間にわたる全49作(ただし第12話「遊星より愛をこめて」は欠番)の放映で、これはNHK地上波において先に実施されていたものです。

TBS系で最初にテレビ放映がされたころ私は小学校の5年生で、自宅のある地域で受信できる放送局では放映されなかったため、観ることができませんでした。
受信できる地域に住んでいた同級生などから内容を聞くにつけ無念の想いにかられたことを思い出します。

いくつかの回は、たまたま受信できる地域に住んでいる親戚の家で観ましたが、なぜかポインターの印象がより強く残っていて、番組がどのような内容だったのか、どうにもはっきりと思い出せません。
ポインターのデザインは当時としては斬新なもので、のちにギャランGTOとかセリカLBなどを見て、そのポインターのシルエットに似ているところからファンになった記憶があります。

また、三つの機体が合体するといったウルトラホークのアイデアもなかなか面白く、今回改めて見直しつつ、よく考えられているなと感心しました。

その後、何度か再放送されましたが、私はすでに就職をしており、またビデオなども所持していなかったことから、ほんのつまみ食い程度で観た、という感じでした。

ウルトラマンの大成功を受けて作られたウルトラセブン。

視聴者の拡大を図るという意図もあってか、内容的にはかなり大人の観客も意識して作られています。

宇宙からの侵略者から地球を守る「地球防衛軍」の活躍が主体であり、ウルトラセブンという命名も、「七番目のウルトラ警備隊員」という意味合いがあってのことでした。
内容的に非常に考えさせられる回も多く、当時小学5年生だった私には理解に及ばないニュアンスもあったのかなと感じます。

その中でも、強力な新兵器「R1号」を開発した地球防衛軍が、その実験を行うことによって他の星に恐怖を与え、結果としてギエロン星獣を犠牲にするという第26話「超兵器R1号」。
あるいは、地球人自体が侵略者の末裔ではないかという疑問を投げかけた第42話「ノンマルトの使者」などは、強烈に印象に残っています。
また、第30話「栄光は誰れのために」では、功名心にかられた新任の隊員が、功を焦るあまりにウルトラ警備隊を危機に陥れてしまうという、非常に生臭い描写が行われました。

著名な俳優がたびたびゲスト出演していましたが、その中でも、第31話「悪魔の住む花」での松坂慶子にはちょっと驚きました。セブンが極小までに小型化し、その体内に入って戦うという展開も斬新でしたね。

音楽では、いわゆるクラシックがかなり多用されていたという印象があり、第47話ではヨハン・シュトラウス二世の皇帝円舞曲が、最終話でダンがアンヌに「自分はセブンだ」と告白し別れを告げるシーンではシューマンのピアノ協奏曲の第1楽章が響き渡っていました。
音楽を担当されたのが冬木透さんであったことも大きかったのでしょう。
冬木さんは、実相寺昭雄監督とのタッグが多くあり、映画では「無常」「曼荼羅」「哥」で音楽を担当され、素晴らしい効果を上げていました。
私は特に「無常」の音楽が強く印象に残っていて、モチーフとして使われたJ.S.BACHの無伴奏ヴァイオリンソナタのシャコンヌが今でも耳朶によみがえります。
実相寺監督はクラシック音楽にも造詣が深く、特にバッハが大好きだったとのことですから、正に宜なるかな、というところでしょうか。

今回はすべての回を録画しておりますので、これからゆっくり鑑賞しようと思っております。
現在のVFXやCGなどに慣らされている眼には、いかにも時代遅れな特撮作品に見えるかもしれませんが、あの当時、テレビでの連続放映(しかも一年間)で、毎回飽きることのないシーンを提供し続けた努力には本当に頭が下がります。

先ほども述べましたように、監督や脚本家がストーリー展開でかなりの冒険を試みてもおります。
見直すことで、きっとまた新しい発見がありそうな予感にワクワクしています。

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自分のパスワードやデータなどがネットに漏洩していないか調べる方法 [PC関連]

新型コロナウィルス感染拡大以降、自宅にこもる人も多くなり、様々なやり取りにネットを介することが多くなってきています。
こうした現状を反映してか、ネットを通じたサービスも非常に充実し、大変便利になりました。

しかし、それゆえにそこに付け込んだ犯罪も多発しています。

分かりやすいものとしては、金融機関やクレジットカード会社になりすました詐欺メールなどがありますが、個人名で間違ったふりをして送りつけられ、「人違いですよ」などと返信したりすることにより、おかしなサイトに誘導されるなどというものもあったりします。
Amazonやメルカリのアカウントの停止、などと、不安を煽り立て、偽サイトに誘導する手口もかなり広まっていますね。

また、自分としては全く心当たりがないのに、クレジットカードの情報などが抜かれて多額の請求が来たりする例もあります。。
ネットバンクが急速に普及していることもあり、口座番号や暗証番号などを抜かれて不正な振込の被害も多発しているとのこと。

全く油断がなりません。

このサイトのことは、恐らくすでにご存じの方も多いと思いますが、恥ずかしながら私は最近知ったので、ご参考までにご紹介します。

Have I been Pwned


ここに自分の電子メールアドレスや電話番号を入力すると、そこから何らかの個人情報やパスワードなどが漏洩した場合、流出元や日時、パスワードや生年月日など流出した個人情報なども確認できるそうです。
不幸にしてヒットしてしまった場合、そのメールアドレスを使用した取引内容などを確認し、可及的速やかに利用停止・変更などの対策を取るべきでしょう。

私も早速試しましたが、幸いなことに漏洩はなかった模様で安堵しました。

詳細は、以下のサイトをご覧ください。

パスワード漏洩をチェック「Have I Been Pwned?」の使い方
https://wind-mill.co.jp/hibp-password-breach-pwned/

転ばぬ先の杖、という俚諺もあります。
用心に越したことはありませんね。
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猪肉 [日記]

相変わらず寒い日が続いています。
オミクロン株の影響もあり、すっかり巣ごもり状態となってしまいました。
先月の初めに顧客のところに出向いて以来、基本的に在宅ワークで、周辺のスーパーなどへの買い出しや散歩くらいしか、外出をしていません。
それでも、ありがたいことに、Web会議やメールや電話などである程度の打ち合わせや意思の疎通が図れますので助かっています。
こうなると、エッセンシャルワーカーなど、私たちの生活や健康維持のために現場で働く人たちへの感染リスクを極力避けるためにも、在宅ワークが可能な職種は率先してそれに取り組む姿勢が必要になろうかと思います。

いつのころからか、「ジビエ」などという言葉とともに、野生の動物の肉などを料理して食べることの話題を頻繁に見聞きするようになりました。

私たちのような山村で育った人間は、いわゆる山のケモノの肉にはそれなりのなじみを持っておりますので、「ジビエ」などというハイカラな名前を聞くとちょっと居心地の悪い思いをしてしまいます。
子供のころ、わなを仕掛けて野ウサギを捕ろうとしたりしたこともありました(なかなか成功しませんでしたが)し、狐を崖に追い込んで捕ってきたこともありました。
狐の肉は臭くてとても食べられないので、毛皮をはいで座布団かなんかにしてもらった記憶があります。
家ウサギを飼うのも子供の役割でしたが、これは毛皮をとるためと食料のためであり、ペットなどという扱いではありません。
今はウサギのペットも流行っているそうですが、なんか違うな、というのが実感です。

そんな私の、以前の職場での一年後輩が、定年後に鳥取の山間部に移り住み、現在は猪とか鹿など、農作物や植林などに被害を及ぼす野生動物の駆除に当たっています。
専ら空気銃を使うそうですが、これが結構な殺傷能力があるそうで、50mくらいの距離があっても眉間を狙えば一発で仕留められるとのこと。

その後輩が、猪肉を送ってきてくれました。
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これはもも肉で、ほかにロースとランプです。
キッチンペーパーに包んで丁寧に血をふき取ります。

早速焼いて食べました。
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塩・胡椒を擦り込んで、タレはポン酢にニンニクを混ぜたもの。
抜群の美味さです。

実は、長火鉢があるので炭で焼こうと思ったのですが、厚さが3mmと薄いこともあり、これは断念して、セラミック混合の金網を用いガスレンジ焼きました。
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盛大に炎が上がりましたが、うまく焼けました。

猪肉は、なんといっても脂が美味しく、その歯ごたえといい甘さといい、とても豚肉の及ぶところではありません。
まだ食べないでとってあるロースはその脂肪がたっぷりと乗っていますので、こらからの楽しみにしようと思います。
熊本に単身赴任していた折、猟師もしていた山仲間が分厚く切った猪肉を持ち込み、これを炭火で焼きながら焼酎を飲んだことがあります。
それまでは味噌ベースの猪肉鍋くらいしか経験しておりませんでしたから、その圧倒的な美味さにはうなりました。

鳥取在住の後輩は、また送りますと言ってくれているので、次を楽しみに待ちましょう。

因みに、鹿肉も大変美味しく、特に私は刺身で食べた時の味が忘れられません。

猪も鹿も、「害獣」とか言われて駆除されるのはひどい話だなと思いますが、農業や林業に携わっている人たちからすればこれはやむを得ないことと考えます。
せめてこうやって(感謝しながら)ちゃんと頂くことで、彼らの命を全うさせて上げられれば、などとちょっとご都合主義的なことも考えてしまいました。
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天井桟敷の人々、4K修復版 [映画]

新型コロナウィルス・オミクロン株の脅威はとどまるところを知らず、未曽有の感染者を出しております。
デルタ株などに比べ重症化率は低い、などと言われていましたが、高齢感染者が増大するにつれて亡くなる方も増えてきたとのことです。
しかもたちの悪いことに若年層ことに子供たちへの感染が広がっていて、予断を許しません。
有効といわれている対策の一つとされるワクチンのブースター接種もなかなか進んでおらず、結局、現状では個人個人がこれまで有効とされてきた感染対策に努めるほかはないようですね。

そんな状況の中、北京冬季五輪が始まりました。
新疆ウィグル自治区の人権侵害問題もあり、とかくの批判もある中での開催。
まあ、私としてはこれまでも何度も書いてきたように、こうしたスポーツイベントには全く興味はありませんので、ある意味白けた目線で眺めざるを得ないのですが、予想通りテレビなどがこれ一色になるのは実に度し難いことです。

そんなわけで、これまで録り貯めてきた映画のビデオを観ることにしましょう。

先日、NHKBSプレミアムで「天井桟敷の人々」の4K修復版が放映されました。
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この映画を最初に観たのはもう40年位前のことですが、深く感動し、その後も何度も観返しています。
そしてその都度新しい発見があるのですが、今回もやはり同じくありました。
これは誠に迂闊な事でしたが、ジョセフ・コスマによる音楽でオーケストラを指揮していたのはシャルル・ミュンシュであったことを初めて知ったのです。
クレジットにしっかりと載っていたのに、なぜこれまで気づかなかったのか。
当時、彼はパリ音楽院管弦楽団の指揮者であったはずですから、恐らくこの演奏もそのコンビなのでしょう。
いずれにしても、あの流麗で美しいメインテーマの印象がさらに強く私の心に刻まれたことに変わりはありません。
そう思って聴き返すと、感動がまた新たになりますね。

この映画の公開は1945年ですが、撮影・制作には三年三月かかっており(費用は16億円かかったそうです)ますから、ナチス占領下(ヴィシー政権)のパリで作られています。
非常に有名な映画ですから、恐らく内容をご存知の方は多いことでしょう。
当時の抑圧体制の中で、時局に全くおもねることなくこのような映画を作ったマルセル・カルネ監督。
ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャン・ルノワールといった当時のフランス映画界の監督たちのほとんどが米国などに亡命していた中で、彼はパリにとどまり、映画を製作することによって反ファシズムを貫いたわけです。
そういえば、ミュンシュもパリにとどまって指揮者を続けていたのですね。

こういう非時局的な映画にしぶとくかかりきりだったマルセル・カルネのレジスタンスは、芸術家としてこれ以上もない熱い行動であり、心の底からの尊敬を禁じえません。

さて、4K修復版ということで、細部に至るまで実に念入りで丁寧な補修がなされいます。
ガランスがバチストを評して「目がきれい」とつぶやく、そのバチストの目の輝きが、この修復によってより鮮やかに浮かび上がってきていたりします。
「白」が基調となる作品なのですが、この修復版でその微妙なコントラストもくっきりと蘇っております。
技術の進展は誠に素晴らしいものだなと改めて感心しました。

主な登場人物にはほとんどモデルが存在し、主役のパチスト、俳優のルメートル、劇作家・詩人でかつ犯罪者でもあるラスネールなどは実在の人物とされております。
ガランスを演じたアルレッティを含め、いずれも素晴らしい演技を見せてくれますが、やはりバチストを演じたジャン=ルイ・バローの存在感と美しさには胸をうたれます。

彼のパントマイム。

ルメートルが感に堪えたように「君のマイムは言葉を超えて観る人の目に突き刺さる」とつぶやく気持ちが、映画を観ている私たちにも伝わってくるようです。
マイケル・ジャクソンで有名になったムーン・ウォーク、これをバローはいとも自然にこなしていますが、このような些細な部分からもその確かな演技力に瞠目させられます。

バローは、1960年の初めての来日の際に華の会の能を鑑賞しました。
その折の演目で、観世寿夫の演ずる「半蔀」に接し、「死ぬほど感動した」と感想を述べています。
「能の静止は息づいている」という彼の秀句が残されていますが、さすがに一流の舞台人の言葉だなと、その能の本質を見抜いた慧眼には感嘆を禁じえません。

「半蔀」は、私も何度も観たことがありますが、源氏物語の「夕顔」を題材にとっており、光源氏と夕顔の上との間の短くも情熱的な恋の物語です。
前場の前シテはゆったりと歩いたり回ったりするくらいで、ほとんど動きはなくじっと舞台の上で囃子や地謡からの圧力に耐えながら静止しています。
後場では後シテによる舞が見られますが、これも激しい動きはなく優美でむしろ静寂さを感じさせるもの。
光源氏の詠んだ歌「折りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見えし花の夕顔」を語りつつ昔の恋を懐かしみながら舞う姿は、観る者の心の中に静とした感動を与えます。

能の重要な構成要素として「クセ」があり、これは言うまでもなく「曲舞(くせまい)」から観阿弥が確立させたものです。
クセには「舞グセ」と「居グセ」があって、後者は、舞うという身体的表現を凝縮し集約して型を捨て去り、演者の心の中で昇華させた表現ともいえるのでしょう。動かずにいながら表現するということの困難さは想像を絶するものがあります。

華の会では、桜間龍馬(当時、後の桜間金太郎)が「熊坂」を舞いました。
これは、大盗賊熊坂長範の亡霊が薙刀を手に舞台狭しと飛び跳ね回る、非常に激しい演目です。
その意味では先に挙げた「半蔀」の対極にあるものともいえましょう。
しかし、この「熊坂」の中にも、薙刀を立てたままじっと動かずにいる表現もあり、それゆえに爆発的な舞が却って印象付けられるような気もします。

バローは、この二つの対極的な演技が同一の訓練体系のもとに確立されたものであることに、特に注目したそうです。
じっと動かずにいる表現は、どれほどにでも動きうる役者によってのみ演ずることができるということを、さすがにフランス演劇界きっての名優である彼は見抜いていたのでしょう。

このバローの感動は、のちにフランス政府招聘の芸術留学生制度を生むきっかけともなったとのこと(因みに観世寿夫は1962年にこの留学生として渡仏しバローの教えを受けています)。
実に感慨深いことではないでしょうか。

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2022年になりました [日記]

新年あけましておめでとうございます。
遅ればせながらではありますが、2022年の年頭に当たり、改めまして新年のご挨拶をさせていただきます。
今年もどうぞ相変わらずのご愛顧のほど、お願い申し上げます。

今シーズンの冬は、とりわけ冷え込みが厳しい印象があります。
年末年始は実家のある八ヶ岳山麓の町に帰省しておりましたが、連日、最低気温が氷点下10度を下回るありさまで、真冬日が続きました。

八ヶ岳もこんな感じです。
2022yatu.jpg

緊急事態宣言も明けたことから、八ヶ岳にはかなりの入山者があった模様ですが、年末年始はかなり荒れていたと思われます。
事故などが起きていなければ良いのですが。

新型コロナの影響もあって、なかなか帰省も叶いません。
昨年は今回も含めて4回にとどまりました。
高齢の母は、頭はしっかりしているのですが手足の動きがかなり厳しくなっております。
それゆえ、帰省した時は家事全般私がしております。
もちろんこの時期ですからおせち料理の用意もしていきました。
尤も、自分で作ったのは煮卵と昆布巻きくらいで、あとはスーパーで購入したものですが、重箱などに盛り付け、それなりの体裁を整えたところです。
母とはいえ、自分以外の人のために料理や掃除や様々な介添えなどをしていると、多少ながらも「人の役に立っている」という気持ちになり、気持ちが楽になるようです(ただ、母がしきりに申し訳ながることには閉口しますが)。

食事の支度などは、自分一人でいると、朝晩はそれなりにきちんとしたものを作ろうと思いますが、昼食などは結構いい加減になってしまいます。
母にきちんと食べさせなければならないと思うとさすがに三食とも手抜きはできませんので、その意味でもこれまでのいい加減な対応を自省する気持ちが涌いてきました。

さて、初日の出ではありませんが、自宅に戻ってきてからの朝日です。
2022sinnen.jpeg

実家では、あまりの寒さに、外に出て写真を撮ることも厭いました。
何しろ、私の寝ていた部屋に干しておいたタオルが凍ってしまうくらいの冷え込みでしたので。
子供の頃の冬の寒さを久しぶりに思い起こしました。

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