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安全ということについて [山登り]

このところ、時ならぬ豪雨が日本列島を襲い、各地で甚大なる被害を出しております。
気候変動の影響も大きいのでしょうが、これまではあまり土砂崩れなどの災害に見舞われてこなかったところが、このところ立て続けに発生していることに、やはり恐怖を感じます。

安全(あるいは危険)、という概念は、本当に曖昧で定義の難しいものだと、近頃とみに痛感します。
最終的には個人的な感覚なのではないか、などという、少し諦念めいたものも感じます。
本人が思う安全と、一般的なレベルでの安全の感覚が、互いに食い違ったことによって引き起こされる事故は、何も豪雨などの災害に限りません。
山登りでは殊に象徴的に表れてくるのではないかと思います。

今年の夏は、現在までにかなりの夏山登山での事故が発生しているようです。

夏山で遭難“多発”過去3年で最多ペース

新型コロナウィルスの感染回避から密を避け、場所を山に求める人が増えているのでしょう。
いわゆる「ソロキャンプ」も急増していて、なんと女性の間でも人気とのこと。
「単独幕営山行」といえば、私たちの世代の印象ではかなりハイレベルな山行形態であり、一般的な山の装備の他に天幕や寝具などの生活用品を担ぎ、かつ、食料や水も相当量のものが必要となるため、体力的にも技術的にも、そしてなんといっても経験と場数が必要なものであったと思います。
テントやシュラフをはじめとする装備の軽量化や高性能化が進んだこともあり、相対的にハードルが低くなってきていることは喜ばしいことですが、それによって、何か山そのものが簡単になっていると誤解される虞があることにはいささかの危惧を感じざるを得ません。
いうまでもないことですが、山そのものは変わらないのです。
もちろん季節や天候によって、その相貌は大きく変化しますが、山に登るということはそれらの変化も含めて自覚し対処していくものだと考えます。

クライマーでありライターでもある菊地敏之さんは著作「最新クライミング技術」の中で次のように述べていました。
高尾山あたりの登山道と、アルプスの両端が切れ落ちた稜線とではどうだろう?アルプスの稜線といっても中にはただ穏やかなリッジを辿るといった程度の場所もなくはない。そうした場合、両者の間にやるべきことのの差は、実のところあまり見られない。極端な言い方をすれば、両方とも足を交互に出してさえいれば、何とか終わってしまう。
ではこれらは両方易しい“登山なのかと言うと、もちろんそんなことはない。前者と後者とでは”使った“技術や体力はさほど変わらなかったとしても、”使うかもしれなかった”技術の量が格段に違う。そしてもちろん、失敗に対する許容度もたいへんに違う。高尾山の登山道で石に躓いてもどうということはないが、4000mのナイフリッジで同じことをしたらたいへんなことになる。
例えが極端すぎるかもしれないが、要は難しい易しいという言葉の意味は、”使った”技術の量だけでは決まらない。そこに内包されるものごとと、そのために必要な技術こそが問題だということだ。

古くからの山屋にとっては当たり前のことだとは思いますが、こうした基本的な認識が近頃だいぶないがしろにされているような気もします。
多くの経験を積むことによって、より多くの技術を身に着け、山を登るときには、その中から最良のものを選択する。
あまり危険性のないところ(この判断も経験によるところ大なのですが)では、それらのチョイスは半ば無意識に行われますが、それは山登りにおいて最もハイリスク的な要因となる時間の無駄遣いを防ぐ、という自覚に基づくものでもありましょう。

しかしそうした技術の中でも、個人的な「思い込み」が入り込む虞なしとしません。

例を上げれば、現在、ハーネスにメインロープを結合するとき、恐らくほとんどの人は8の字結びをしていると思います。
しかし、私がクライミングを知った40年以上前のそれはブーリン結びが主流でした。
暗闇でも結べるようにと、目をつむってもできるまで練習したものです。
また、実際には恐らく使わないと思われる肩がらみでの懸垂下降を練習したり、止められる可能性がかなり低いのではないかと思われるトップの肩がらみビレイを練習させられ(トップが落ちて確保すると肩や背中に蚯蚓腫れができるほど痛い)たりもしました。
結局その頃の鉄則は「トップは絶対に落ちてはならない」というもので、果敢に攻めて滑落し何度も挑戦することが当たり前の現在のフリークライミングの世界とはまさに隔世の感があります。
このような背景もあって、結び目が緩む可能性の高いブーリン結びは、少なくともフリークライミングの世界では使われなくなっています(これに関しては、「岳人」誌で展開された「ブーリン論争」を思い起こされる方も多いのではないでしょうか)。

また、トップのビレイにおいてはボディビレイを基本とする、というのも、滑落の可能性を鑑みれば当然の行き方となりました。
殊にインドアクライミングを経験されている方は異論のないところと思います。

しかし、こうした新しい行き方、ある意味ではより安全性が高いとされる行き方に背を向けて、これまでのご自身の経験則にこだわり続ける方もかなりの数おられました。

危険が内包される確率が高いことをしていたとしても実際に事故などに遭わなければ、本人にとってはそれは危険な行為ではないと認識されて、むしろ安全な方法だと勘違いしてしまうこともあります。
頑なに前例踏襲をし続ける姿が、ある意味そうした「ついていた」経験の累積によって引き起こされるとするのであれば、とても看過できるものではないと思われますが、下手に指摘すると喧嘩になってしまう。

安全と危険という感覚は、やはり想像力をどのような形で働かせることができるか、ということではないかと私は考えます。
山は基本的に危険地帯であるという認識に基づいて想像力をたくましくする。
それは、その時に辿るルートに関しても同様で、特にアルパインの既存ルートでは残置支点を使用することが前提となることがほとんどですが、その支点は初登者が自分が登るために必要だから打ったピトンでありボルトであることを忘れてはなりません。
赤の他人が登るためにわざわざ打って差し上げたものではない。
従って、その支点を全面的に信用するということ自体、ある意味では他人に自分の命を(無防備に)預けているようなものなのではないでしょうか。

ところで誤解がないように改めて付け加えますが、私はブーリン結びを全面的に否定する立場はとりません。簡単に結べて締まっても解きやすく、用途によっては大変便利な結び方だからです。
例えば、予想しなかった悪場に直面し、アンザイレンが必要になったときなど、ハーネスがない場合は直接体にロープを結ばなくてはなりませんが、そんな折にブーリン結びは非常に有効です。
緩みやすいという欠点についても、変形ブーリンとか二重ブーリンにしてきちんと末端処理をすれば、かなりの部分安心感が増しますし。
その意味では知識として知っておくことは非常に有益だと思います。
そういう判断も、ある意味では想像力を生かすべき点なのかもしれませんね。

思えば、私が趣味として登山を始めた20歳くらいの頃(45年位前ですね)、両親を始め身内からは強烈な反対をされました。
山といえば遭難、遭難すれば命にかかわる、そういう連想がその頃にはかなり支配的だったのかもしれません。
登山が、だれでも楽しめるメジャーで明るいイメージのレクリエーションとなっている現在ではちょっと想像がつきませんね。

しかし、繰り返しますが、山が易しくなったわけではないと、私は思っています。
余計な事ばかりつらつらと書いてしまいましたが、不用意な遭難が多発していることが、やはり大変気がかりでついつい駄弁を弄してしまいました。妄言多謝ですね。

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