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シューマン交響曲第4番 [音楽]

関東地方は梅雨入りとなりました。
紫陽花の花が競うように美しく咲いています。
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5月は結局一つも記事をアップできませんでした。
書きたいことがないわけではないのですが、どうにもまとめる気力が湧いてこない。
こういうときは無理をしないのが肝要だろうと思っています。
現在でもその状況に対して変わりはありませんが、何かを書くことでもしかすると自分の中のスイッチも再度入ることがあるのではないかと、思い直したりもして、久しぶりのアップとなりました。

このところ、何となくなのですがシューマンの交響曲を聴くことが多くなりました。
私はもともとシューマンが好きで、以前にも書いたと思いますが、中学生のときにはじめて自分の小遣いで買ったLPレコードはシューマンのピアノ協奏曲(裏面はグリーグのピアノ協奏曲)であったくらいです。
シューマンの交響曲を初めて聴いたのは、高校生の時のNHK教育テレビでのN響の演奏会の放映で、曲目は第4番でした。
指揮者はスウィトナーだったかサヴァリシュだったか判然とはしませんが、第3楽章スケルツォの第1主題が耳についてはなれなかったことを思い起こします。
高校を卒業して就職し、給料をもらえるようになって、少しずつレコードを買いそろえていた折、セル指揮クリーブランド管のレコードを買い、感動を新たにしたものです。

そんな中、第4番で、フルトヴェングラー指揮によるベルリンフィルの演奏に出会いました。



1953年の録音で、正に円熟の極みともいうべき演奏だと思います。
私がこのところずっと聴いているのももちろんこの演奏で、リマスタリングの性能が向上していることもあって、音質も非常によろしい。
私見ではありますが、第4番の演奏ではこれが最高だと、私は思っております。
ただ、この曲(第4番)の演奏に当たっては4つの楽章を切れ目なく演奏することがシューマンの意図であり、事実、そのように演奏されることが多い中で、このレコード(CD)では第1楽章と第2楽章の楽章間に空白が設定されているように聞こえます。
フルトヴェングラー自身は、様々な記録から鑑みて切れ目なく演奏していたはずなので、これはどういうことなのか。
(ベートーヴェンの第5番に触発されたといわれる)第3楽章と第4楽章は切れ目なく続いていますから、もしかすると録音として編集する際に編集側が「気を利かせて」パウゼを入れたのかもしません。
あるいは、そもそもフルトヴェングラーが楽章間にパウゼを入れたのか、ちょっと気になるところではあります。

フルトヴェングラーの演奏では、第4番のほかには第1番のみが残されていますが、先ほどのセルを始め、クレンペラー、クーベリック、サヴァリッシュ、スウィトナー、バレンボイム、バーンスタイン、シャイーなど錚々たる指揮者がシューマンの交響曲の全曲録音を残しています。
その割には、あまり実演で取り上げられることが少ないような気もしています。
理由はいろいろと考えられますが、一部にはシューマンのオーケストレーションが(ショパンと同じく)稚拙だから、などという乱暴な意見もあるようですね。
私はそのようには感じませんが、確かにブラームスなどと比べれば、演奏による響きの効果をあまり深く考えていなかったということもあるのかもしれません。
シューマンは、練習のし過ぎ(自分で考案した練習機械まで使った)で指を壊すほどピアノに熱中していましたから、楽想はピアノの鍵盤上のものをそのままに移し替えていたのかな、と。
短い音符で半音階のターンを繰り返すみたいな旋律は、ピアノの鍵盤上では何ということもないのですが、管楽器では結構大変だったりしますし、シューマンが創作活動にいそしんでいた当時の管楽器の性能を鑑みると、それが奏者を辟易とさせた可能性もあります。
金管楽器では、ベーム式のバルブが発明される以前など、基本的にC・G・C・E・G・Cくらいの音しか出せず、それ以外の音を出せるのは、スライド式であったトロンボーンやベル中の右手で音をコントロールできるホルンくらいのものでした。
木管楽器でも、嬰(#)や変(♭)記号の音を安定して出すのは、キーシステム導入前はかなり困難だったはずです(リコーダーやトラベルソなどを想像していただければお分かりかと)。
ベートーヴェンのようにオーケストラの楽器の性能を熟知していた人は、そのあたりの呼吸をわきまえていて、各パートに無理なく旋律を振り、演奏効果を奏者が自覚できるような書き方を心得ていました。
シューマンは、情熱的でほとばしり出るような霊感の持ち主であったらしく、その作曲速度は大変な速さだったそうですから、頭の中に浮かんだ楽想そのままに五線譜を埋めていったのかもしれませんね。

現代の楽器の性能は飛躍的に向上していますから、先に述べたようなパッセージなど、奏者は苦も無く演奏することができるでしょう。
しかし辟易とさせられるのはそれほど変わりはなく、「同じ苦労をするのならブラームスの方がそこから得られる響きの実現と深みにおいてはるかに効果的だ」と発言する指揮者や奏者もいるのだそうです。

ただ、裏を返せば、それでもシューマンの交響曲を演奏しようとする人たちはそうした労力を惜しまないわけで、従って「外れ」はかなり少ないのではないか、そんな風にも思います。

カール・ベームの回想録である「回想のロンド」の中に次のような箇所があります。
指揮者はたえず、ホルン奏者たちに、「大きすぎる。みなさん、もっとピアノで、ピアノで」と叫んでいる。彼がそれを三回繰り返すと、首席演奏者は仲間のホルンたちの顔を見る。それで同僚はその旨を了解して、また練習にかかる。さて、その箇所の練習が終わって、指揮者は満足して、「やあ、結構でした。今度は正確でした」というと、ホルンの首席が立ち上がって、「今は誰も何も吹きませんでしたよ」といった。

これはどうやらフルトヴェングラーがシューマンの第4番を取り上げた際の練習(プローベ)でのできごとのようです。
このホルン奏者の「告白」を聞いたフルトヴェングラーは、即座にその個所のホルンのパートを削除することとし、そこの音は休符に代えられました。
それがどの個所であるのか、CDを聴いていても私のような素人にはもちろんわかりません。
しかし、ワインガルトナーも同じような指摘を複数箇所でしており、「余計な」管楽器の音を消して演奏していたとのこと。それによって響きはさらに純粋なものとなり、初期のシューマンの曲にちりばめられていたピュアで清冽な響きが生まれることになる。

晩年のシューマンは、精神的な病の影響もあってオーケストレーションにある種の「濁り」が生じていたのではないかという指摘もあります。
その当否は措くとしても、該当箇所を見る限り、ワインガルトナーの指摘は的を射ているようにも思えました。

以前にも書いたことがありますが、作曲者の頭の中で響いている音楽を記すツールとしての五線譜は誠に不完全なもので、作者の想いのほんの一部分を探す手掛かり以上のものにはなり得ません。
マーラーやプッチーニが楽譜にどれほど多くの指示や願いを書き込もうとも、それが百パーセント実現できる保証はないわけで、逆説的に言えば、それ故にこそ、演奏は千差万別、一期一会の喜びに出会える場所となるのでしょう。

シューマン交響曲全集 サヴァリッシュ&シュターツカペレ・ドレスデン(2CD)

シューマン:交響曲全集 セル&クリーヴランド管弦楽団

シューマン交響曲第4番 フルトヴェングラー&ベルリン・フィル(1953 モノラル)


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