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市川雷蔵の「眠狂四郎・無頼剣」 [映画]

日中はまだかなり気温も高いのですが、朝晩はだいぶ涼しくなり、金木犀の香りも漂ってきています。
お彼岸も過ぎて、いよいよ季節は本格的な秋を迎えるのでしょう。

先日、市川雷蔵の「眠狂四郎・無頼剣」を何となく観たくなってしまい、確か撮りためていたDVDがあったはず、と探してみたら、かなり以前にNHKBS2で放送したものを録画してありました。


この映画、雷蔵の眠狂四郎シリーズの中ではかなり異色で、脚本が、このシリーズの常連でもあった星川清司ではなく、何と日本映画界の大巨匠ともいうべき伊藤大輔なのであります。
脚本家というよりも、戦前では「忠治旅日記」「大岡政談」「斬人斬馬剣」「一殺多生剣」「鞍馬天狗」「宮本武蔵」などを撮り、戦後は「王将」「反逆児」「素浪人罷通る」などをものにした、時代劇を語るにおいては閑却することを許されない大監督でした。

戦前より、筋金入りの傾向映画を撮ってきた方ですから、この「眠狂四郎・無頼剣」においても、その想いは色濃く反映されています。

まず、題材の背景に「大塩平八郎の乱」を持ってきているところ。
大塩平八郎による武力蜂起は結果として無残な失敗に終わり、貧苦にあえぐ庶民を救うべく立ち上がったのにもかかわらず、乱によって引き起こされた大火で却ってその庶民に大きな被害を与えてしまいました。
しかし、その意思そのものは広く喧伝され、大塩平八郎の残党やその意を酌んだ活動を生み出し、やがては倒幕につながっていくわけです。

この映画では、その大塩平八郎の養子であった格之助が、越後で採れる原油からペトローレ油を精製する方法を研究していたという話を織り込み、その研究成果を策を弄して盗み出した商人どもと、それに憤る大塩残党、そして格之助を慕うがゆえにその悪徳商人に恨みを持つ軽業師の勝美を配置、そこに狂四郎を絡ませるといった構造になっています。
さらに、大塩平八郎を嵌めた大阪東町奉行の跡部良弼の兄であり庶民困窮の原因でもある水野忠邦を襲撃する企てまで取り込む流れになっていて、90分にも満たない尺であるのにもかかわらず内容はかなり濃密です。

白眉は何と云っても、敵役である大塩残党の頭目「愛染」を天知茂が演じていること。
しかも、愛染も円月殺法を使い、この両者がクライマックスに屋根瓦の上で立ち会う。
二人の円月殺法が重なるシーンの美しさは息をのむばかりでした。
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市川雷蔵の黒、天知茂の白。そして江戸の町を焼く紅蓮の炎。
撮影・美術、そして三隅監督の美学が怪しく花開いておりました。

この映画では、様々なところに細工が施されていて、それを解析しながら観るのも興味深いところ。
中でも、軽業師の一味が姿を消したため、それを探索しようとする狂四郎と小鉄の、長屋に残されたメッセージを解く下りは秀逸でした。

盗人の小鉄が逆立ちをして長屋の天井に目をやると、そこには「裏見」という文字が逆さまに書かれています。
つまり、「うらみ」の逆さで「みうら」となりますね。
そして、行燈に書かれた半乾きの文字は、「恋」と「しくば」。

「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」

「葛の葉」は、信太妻と呼ばれた白狐のことで、稲荷大明神の第一の信徒です。
安倍晴明の母とされる信太妻が夫である安倍保名に残したという、これは有名な書置きですね。

この謎解きは、稲荷と和泉橋近くの三浦屋を指している、ということになり、それと察した狂四郎が勝美ら軽業師たちを救い出すために現場に向かうわけです。

広く人口に膾炙されたお話だという認識からか映画の中ではあまり詳しく解説されていませんが、こうした豆知識が必要になるというのも、ある意味乙なものですね。

さて、この映画における眠狂四郎は、それまで醸し出してきたニヒルさを少し内に含ませ、少々人間臭い描き方になっています。

ちょっと驚いたのは、狂四郎が釣りをしている傍らを愛染率いる大塩残党が通りかかる場面で、狂四郎は誤って釣り針をそのうちの一人の髻に引っかけてしまうのですが、激高する相手に対して「ひらにひらにご容赦を」と土下座をして謝るのです。
狂四郎が土下座をして謝るなどというのは、それまで記憶にないシーンでした。

それから、軽業師の勝美(藤村志保が好演)が悪徳商人の用心棒に襲われそうになったとき、それに立ち向かう狂四郎が次のような啖呵を切ります。

「俺はな、産みの母親は顔さえ知らんが、女の腹から生まれてきたに相違ないのだ。お袋様と同じ女性(にょしょう)に理不尽を働く輩は、理非曲直を問わんぞ」

このあと円月殺法を振るい用心棒らをばっさばっさと切り倒すのですが、なんだか狂四郎らしくないセリフだなと思ってしまいました。

さらに、愛染が、師である大塩平八郎の無念を晴らすために老中の水野忠邦を討ち、悪徳商人らを焼打ちにするとともに、江戸の町を焼きつくすと宣言した時、狂四郎は「それは許さぬ。幕府の政道に対する恨みを、無辜の庶民の犠牲でもって晴らそうなどと、そうした非道は断じて許さん」と応ずる。
また、屋根の上での決闘の際も「城も焼け。大名屋敷、問屋、札差、焼きたくば焼け。ただ罪科もなく、焼きたてられて住むに家なく、食うに明日のたつきも絶えた八十万庶民を何とするのだ。主義が、主張が、どうであろうと、この暴挙は愛染、許されんぞ」と叫ぶ。
ここにおける狂四郎の姿は、正に伊藤大輔の思い描くヒーローの姿なのではないか。
こんなに熱い狂四郎は、他の回ではあまりみられなかったような気がします。

大塩平八郎に如何に大義があろうとも、その恨みを晴らすために無辜の庶民を巻き添えにするのはテロリズムです。
愛染は、己に大塩中斎(平八郎)譲りの大義があると考えていたのかもしれませんが、取ろうとした手段はテロリストのそれでした。
狂四郎は、見方によっては幕府を守る側についたようにも見えますが、劇中、それを明確に否定している下りがあることに鑑み、あくまでも庶民の側に立って愛染のテロリズムを食い止めようと考えたのでしょう。

この映画では、敵役の天知茂が入魂の演技を見せていることもあり、雷蔵をして「どちらが主役かわからない」と言わしめ、原作者の柴田練三郎は試写を観て、「これは眠狂四郎ではない」と語ったそうです。

天知茂の存在感はそれほど素晴らしいものがありましたが、もちろんそれは雷蔵の比ではありません。
ラスト、江戸の町を焼く炎を眺めながら、それを止められなかった痛恨と虚無感の入り混じった眠狂四郎の顔が赤く染まっていくシーン。
これは正に息をのむばかりの美しさでしたから。
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音楽は伊福部昭。
これは絶品です。
京琴のような撥弦楽器の紡ぎだす繊細なリリシズムが全編を覆い、実にツボをおさえた表現となっていました。
映画音楽にも数々の名作を残した伊福部氏ですが、その中でも一二を争う出来栄えと、個人的には思います。

この作品はレンタルもされているようです。
ご興味のある向きはぜひともご覧ください。

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「私はロボットではありません」 [PC関連]

台風18号の動向が大変気がかりです。
実は、今週末の三連休、久しぶりに八ヶ岳(地獄谷)に行こうと考えていたのですが、強力な台風と秋雨前線の影響で、どうみても悪天は避けられそうもなく、見送ることにしました。
単独行の予定でしたから気楽なものですが。

9月の中旬ともなり、彼岸花が咲いています。
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さて、先日、たまたまwindows10のPCのブラウザで定期的に閲覧しているサイトにアクセスしログインしようとしたところ、次のような画面が挿入されたことに気が付きました。
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「私はロボットではありません」?

なんだなんだ?と思いつつ、左のボックスをクリックすると、こんな画面が出ました。
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タイルを全て選択しろ、とのことですので、それに従ってすべてのタイルをクリックしました。
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すると、次の画面が登場。
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同じようにタイルを選択しろ、とのこと。

またやるのかよ、おい!と舌打ちしつつ、それでも同じように全部クリック。

すると、またまた次の画面が登場。
何度やっても先に進まず、自動車や交通標識の「タイル」写真が現れます。

蟻地獄のような無限連鎖に陥ってしまいました。

Macで行ってみたところ、こういう現象は起こりません。

「今日はWinの調子が悪いんだろう。Macで行けるからいいや」

などといって、中途で放棄してしまいました。

翌日、それでもとWinで行ったらやっぱりこれに引っかかり、先に進みません。

もしかするとCookieの問題かもしれないと考え、履歴だとか保存してあるパスワードなども含めてブラウザの設定をすべてクリアにしてみました。

しかし、それでもやはり同じです。
完全に煮詰まってしまいましたが、念のため、もう一度画面を調べてみます。

すると、「自動車のタイルを全て選択してください」となっているではありませんか!

私は全部のタイルを選択していたわけですから、これでは突破できるはずがありません。

ということで、自動車の写っているタイルのみを選択すると、

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ようやくこのメッセージのチェックボックスにチェックが入り、先に進むことができました。

自分の間抜けさ加減にさすがに忸怩たる思いがしましたが、いきなり登場した上に、きちんとした説明もなく、還暦越えのオヤヂを戸惑わせるのは酷い話だと、思わず逆恨みをしてしまった次第です。

こんな阿呆なことに引っかかる人は少数かもしれませんが、自戒と備忘を込めて、恥ずかしながらアップさせていただきました。


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浄瑠璃「生写朝顔話」 [音楽]

9月に入っても曇り空の雨勝ちで、秋の気配も濃厚になってきています。
近所の垣根ではムラサキシキブが紫色の実をつけていました。
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先日、国立劇場に「第200回文楽公演」をに観に行ってまいりました。

当日の演目は「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)」です。
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仮名手本忠臣蔵を観てから、連れ合いも文楽に興味を持ち始めたようで、今回の提案もすんなりと受け入れてくれました。
今回の演目はどんな芝居なのか予め知っておこうと、自分からネットを検索し、あらすじを頭に入れて臨んだくらいで、私としては嬉しくもありちょっと驚きもしたところです。

この物語は儒者・熊沢蕃山作といわれる琴唄の今様歌

「露の干ぬ間の朝顔を照らす日かげのつれなきにあはれ一村雨のはらはらと降れかし」

から着想されたものです。
朝露を受けて咲く朝顔は誠に瑞々しく美しい花ですが、陽が昇ればたちまちに干上がって萎れてしまいます。
その姿が哀れなので、せめて一叢の村雨(驟雨)よ降れ、さすれば花の萎れることもなかろうものを、と歌ったものなのでしょう。
零細農民など庶民の側に立って藩政改革を行うことを提言し、治山・治水に尽力した蕃山の優しさがにじみ出てくるような唄ですね。

「生写朝顔話」の中ではこの今様が非常に重要な物語の鍵を握っており、冒頭の「宇治川蛍狩りの段」において宮城阿曾次郎が深雪の差し出す扇子に記した詞が、「宿屋の段」で瞽女の朝顔(深雪)によって歌われ、駒沢次郎左衛門(宮城阿曾次郎)はこの瞽女の朝顔こそが行方知れずとなった妻(云い交した女)の深雪であることを知る、というものです。
この今様を朝顔(深雪)が歌うシーンは、鳴り物にも琴が用意され、もちろん人形も琴を奏でます。
このシーンの人形の手は、このために指が一本一本動くようにしつらえられており、演者の吉田蓑助入魂の遣いで、正に深雪の人形が琴を奏でながら歌っているように感ぜられました。

筋を詳らかにするのはやはり無粋ですからここでは省略いたしますが、悲劇的な結末を迎えることの多い浄瑠璃の中では大団円を予感させる終わり方で、その点では比較的珍しい展開だと思います。
そうはいっても非業の死を遂げる役柄(深雪の乳母である浅香と戎屋徳右衛門ら)もおりますが、これは浄瑠璃の劇的展開の上では一つのお約束事、というべきもの。
盲目となった深雪の目を命を捨てて開かせる重要な役割を担う戎屋徳右衛門が、実は乳母・浅香の父親の古部三郎兵衛であり、娘の浅香が身を挺して深雪を暴漢から守って絶命する(その際に親子の証拠の守り刀を深雪に渡す)という、いわば主筋の姫のために一命をささげる主従の契りを体現した展開にも心を動かされます。

阿曾次郎と深雪が別れ別れになるのも、大風や大雨によって氾濫した川のせい、というところも一貫した物語の流れとなっております。

涙を誘うのは、深雪と浅香の邂逅と非情な別れを描く「浜松小屋の段」。
ここでは、深雪を吉田蓑助が、浅香を吉田和生が、それぞれ演じ、さすがに当代人形遣いの無形文化財お二人による遣いを心行くまで堪能させてもらいました。

また、チャリ場である「嶋田宿笑い薬の段」では、萩の祐仙を遣った桐竹勘十郎の超絶的な演技と豊竹咲太夫のこれまた入魂の語りがものすごく、ただただ驚嘆するばかりです。
時折、太棹の演奏が途切れる場面がありますが、そこは恐らく太夫のアドリブで、それに人形遣いが一糸乱れぬ連携を見せてくれました。
正に真剣勝負の一期一会の舞台!
互いの呼吸を計りあいながら全体の演技をより高めていこうとする気合がひしひし感ぜられます。

深い感動を味わいながら、連れ合いと二人で国立劇場を後にしました。
9月初旬とは思えないほど肌寒い日ではありましたが、話の結末に一筋の希望の光が見えたこともあって満足しつつも、それにしても冒頭の蛍狩りの段で舞台を飛んでいた蛍らしき緑の光は凄かった、どうやって飛ばしたんだろうと、帰りの電車の車中での話題しながら帰路に着いたところです。

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