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アニメ「君の名は。」 [映画]

8月ももう下旬となりますが、相変わらず雨ばかりのお天気です。
若い頃は、「どうせ濡れるのは同じ」とかいっちゃって沢に出かけたりしたものですが、もうそういう覇気はかなり減退しています。

そんな中、連れ合いが、昨年話題になったアニメ「君の名は。」のビデオを借りてこないか、と提案。
私個人としても少し気にはなっていたので、良い機会でもあるし、それでは、ということで近所のツタヤで借りてきました。



一見した感想。

とにかく予想以上の美しさです。驚愕しました。

今のアニメーションは、セル画ではなくデジタル画像によるモーションコントロールが主流とは聞いてはいましたが、余りに自然な画面の動きで、これは本当にアニメーションなのかと疑ったくらいです。
洋画に良くあるモーションキャプチャーではなく、明らかに日本独特のアニメーションの世界なのですが、それでいてこの完成度!
この、「アニメーションである」というところが、やはり嬉しくなりました。

肝心のストーリーは、緻密なアニメーションと若さ溢れる恋愛や友情シーンを追うことばかりに気を取られ、結末に至るまでの展開が今ひとつしっくりこなかったというのが、初めの感想です。
もう一つ、画面の随所に挿入されたRADWIMPSの音楽(歌)がどうにも耳障りで、正直にいって我慢がならなかった。
画面の流れは実に映画的なのに、どうしてこんな無神経な音楽の使い方をするのか!と腹立たしい想いに駆られた、というのが本音です。

ということで、当然のごとくもう一度鑑賞。

瀧と三葉との入れ替わりという形を採ったタイムスリップの使い方が、実はかなり綿密な構想によって作られていることがわかりました。
ネタバレになるので細かなところを書くのは控えますが、瀧と三葉が入れ替わる時点で設定される三年間というギャップが、非常に視覚的かつわかりやすく描かれています。

タイムスリップを題材にした映画や小説などの創作は、それこそ数多く存在しますが、所詮は空想の産物としていい加減に扱われる場合がかなり多いようにも思われます。
時間というものが、何故に過去から未来にしか流れないのか。
そのことを解明した人を私は寡聞にして知りませんが、創作物におけるタイムスリップの扱いのほとんどが過去に遡っているのは、その根本的な時間の流れを想像力によって覆したい、と考えたため、ともいえるのではないでしょうか。
過去というものは取り返しのつかないものであることを分かりつつも、もしもできることならば過去に戻ってやり直したい、という欲求を持つ人はきっとかなりの数に上っていると思います。
その反面、未来については、「できれば知りたくはない」と考えるのではないでしょうか。
少なくとも私はそうで、ドラえもんの中でのび太君が自分の未来の姿に関してあまり積極的に知りたがらない(肯定したくない、できれば抗いたい)という描写も宜なるかなと思うのです。
未来は放っておいても到来するものであり、そんなものを現時点で知ってしまったら、それこそ未知の中にあるからこそ持つことの出来る希望を失うことになるような気がしますがどうでしょう(もちろん、「より良き未来」を作るために努力をする、という前向きに未来を考える、という視点を持つということはこれとは別次元のものですが)。

どうも話がかなりズレてしまいました。妄言多謝。

とにかく、創作物でタイムスリップを扱う場合、それに接している人に、その現象をどれだけ信憑性のあるものとして届けられるか、その辺がコアとなるのではないか。
この「君の名は。」においては、それを瀧と三葉との入れ替わりという形で表現しています。
その間の三年のギャップについても、例えば三葉が瀧に逢おうと決心して東京にやってきた時、当の瀧は中学生(三年前なので)で、当然のことながら三葉のことなど知る由もない。
それを、二人の身長がほとんど変わらないという形と制服と単語帳(瀧は高校入試を控えていたのでしょう)というところで表現し、絶望した三葉が髪の毛を結んでいた紐を瀧に手渡すことで印を残す、などというシーン。
ティアマト彗星の配置と扱い(因に「ティアマト」は上半身が女性で下半身が蛇である古代エジプトの神)、月の描き方(三日月、満月、半月)。
そして、映画の中では「かたわれ時」といわれる黄昏時の描き方。
黄昏は、泉鏡花の夜叉ケ池の中でも触れられていますが、落日の残照と行燈の灯りなどが重なるときすなわち「ふたあかり」の中で怪異は起きる、と定義された時間です。
恐らく、新海監督はそのことを念頭においてこういうシチュエーションの中での展開を考えたのでしょう。
口噛み酒とかたわれ時が、瀧と三葉の、本来ならば逢えるはずもない出逢いを可能にし、しかも、それはかたわれ時の終焉とともに失われる。お互いの記憶の中からも。

こうしたオーソドックスなタイムスリップの描き方の上に、主人公たちを取り巻く友人たちとの篤い友情を絡ませ、一つのスペクタクルを形作る。
実にうまい作り方だなと感心しました。
二人の入れ替わりが「眠り」という行為によって生ずることも、よく考えられた設定だと思います。
創作物で描かれるタイムスリップは、現在の自分が存在する世界の時間軸とは違う世界(パラレル・ワールド)に移ることによってパラドックスを回避するという手法がとられます。
この映画では、入れ替わっている間をお互いが実体験であるという認識の元に行動することによって上手に表現しているようにも思われます。
個人的なことですが、私は、かなりしばしばみる夢の情景を、自分にとって相当にリアルで連続性のあるものとして感得しています。
その夢の中に現れる情景、家であったり道路であったり職場であったり、それらは連続する同じ夢の中では完全に一致している。
もしかすると、今、現に生きていると思っている世界が夢であり、夢であると思っている世界が実態なのかもしれない、と感じたりもするのです。
もしかすれば、自分を取り巻く世界の様々な事象は、自分の頭の中に展開された仮想空間なのかもしれない、それゆえにそれは一つの宇宙なのかもしれない、などと考えたりしました。

そういう不思議な感覚を、この映画は想起させてくれます。
その意味では、ビデオをレンタルして、何度か繰り返し観ることが、ある意味必要なのかもしれません。
この映画が公開されているときに、何度も映画館に足を運んだ人がいたということを聞きましたが、それについては非常に納得がいきます。
劇場で一度観ただけでは、恐らく「映像の美しさ」に圧倒されるだけで終わってしまうことでしょう。

さて、この映画では、そのあまりの描写の精緻さから、題材となった場所への「巡礼」が話題となりました。
瀧と三葉が最後に出逢うことになる四谷の須賀神社。
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この境内には、一時、高校生が大挙として押し寄せたようです。

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この階段が、映画の中では印象的に現れますね。

この前のショットで、小雪の舞う中を二人がすれ違うシーン。
これは、1950年代に一世を風靡した菊田一夫の「君の名は」のオマージュなのだろうなと感じました。
少なくとも、新海監督はこの作品をリスペクトしておられたのでしょう。
勝手な感想ですが、私はそう感じました。

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