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フルトヴェングラーのマタイ受難曲 [音楽]

大型連休となりましたが、勤務形態の関係から私は長期的な休暇が取れず、5月1日・2日はもとより6日の土曜日も出勤です。
そんなわけで、遠方に出かけるには中途半端となり、専ら近隣での行動に終始することになりそうです。
ある意味では残念でもありますが、こういう時に、これまで落ち着いて聴けなかったCDをまとめて聴く、という方向に意識を転換するのもまた良いのかもしれませんね。

そういう背景があったわけでもありませんが、昨年末に購入した「フルトヴェングラー/ザ・レガシー(CD107枚組)」の中から、これまで楽しみにとっておいた大曲を聴き始めています。


まずは何と云ってもJ.S.Bachの「マタイ受難曲」。
なにしろ以前「お気に入りの十曲」の筆頭に挙げた曲。フルトヴェングラーによる1954年ライブ録音を通しで聴くのは初めてのことであり、このボックスセットを購入した理由の大きな一つはこの演奏が含まれているからでもありました。
40年近く前に抜粋版のLPを買ったのですが、余りにも音が悪く、我慢して聴くほどの魅力も(そのときには)感じなかったので、遺憾ながらそのまま実家の倉庫に眠っている状況です。

しかしながらこの演奏はフルトヴェングラーが亡くなる1954年のライブ録音であり、ある意味での記念碑的演奏でもあります。
というのも、フルトヴェングラーのバッハに対する愛情と尊敬の念は極めて高いものがあり、彼の著作を読んでみてもそれがひしひしと伝わってきますから、前年に死線をさまよう大病を患い聴覚に異常をきたすほどになっていた状況の中にありながら、どのような心境でこの演奏に臨んだのか、是非ともライブ全体を通して聴くことによって感得してみたいと思ったわけです。
実際、フルトヴェングラーによるバッハの演奏では、例えば管弦楽組曲などを聴いてみる限り、相当突っ込んだ解釈に基づく演奏を展開していて、生半可な共感では果たし得ない境地があろうと想像できるのですから。
因に、このマタイ受難曲の演奏は、1954年4月14日から17日にかけて4日連続の4公演行われたとのこと。
この大曲を四日連続4公演で演奏するとは、今考えてみても相当な気力が必要だと思います
それだけの強い想いを、恐らくフルトヴェングラーは持ち続けたのでしょう。

フルトヴェングラーは、ドイツの音楽、それもバッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスへと連綿と続く正統なドイツ音楽こそが「真の音楽」なのだという強い信念があり、それゆえに、あれほどひどい目に遭いながらもナチス政権下のドイツを離れることをしませんでした。
ユダヤ人音楽家を保護したり、彼らを守るための論陣を張ったり、ヒンデミットの「画家マチス」を擁護したり、と、そこまでするのであれば、他の指揮者や音楽家のようにさっさとナチスドイツなど見限って新天地を目指すべきではなかったかと傍から見れば思われるのに、なぜ恋々とドイツに未練を感じて残ったのか。
フルトヴェングラーにいわせれば、輝かしいドイツの音楽や芸術をドイツ本国に残ったまま守ろうとする人々がいる限り、その人たちのためにも自分はドイツに残ってできる限りのことをしたいのだ、ということなのです。
あっぱれではありますが、戦後、ナチスの協力者だなどといわれのない中傷を受け続け、結果としてさらなる飛躍の機会を奪われたことを鑑みれば、いささかドン・キホーテ的ではなかったかとの感もありますね。

しかし、そういう人であるからこそ、今でも衰えない人気があるのでしょう。
打算に流されずに、自分の信ずる道を歩いた、エキスパート中のエキスパートとして。

ながながと書いてしまいましたが、そんなこともつらつら思いつつ早速聴いてみました。

………。

音の方は、先に書きました抜粋版のLPからは想像もつかないほど素晴らしいものとなっています。
もちろんモノラル・ライブ録音ですから、それを念頭に置かねばなりませんが、ウィーン・フィル独特の柔らかな弦の音色なども明瞭に聴き取れます。

演奏そのものは、というと……。

異様に遅い印象のレチタティーボ、顕著なテンポの動き、ポルタメントやルバートの多用、曲の終わりの結構鼻につくリタルダンドとフェルマータ、全体的なレガート感など、これまで聴いてきた中ではメンゲルベルクに近いスタイルを彷彿とさせます。
コラールに記譜されているフェルマータをそのままパウゼにしていたりと、ある意味では一昔前のロマン的な演奏といえましょうか。
しかし、メンゲルベルクに比べればはるかに抑制的で、その点では私の先入観を裏切るものではありましたが。
注目すべきはイエスを歌ったフィッシャー・ディースカウで、この演奏当時、まだ20代の若者であったはずですが、実に堂々としていて、しかも瑞々しい表現です。
後年の、あの円熟した、まるで絹かビロードのような歌声ではなく、むしろ溌剌として強い意志の力を感じさせる歌声です。
ウィーン・フィルの弦による光背の音楽をバックに歌われるディースカウのイエス。
このCDの中でも聴きものの一つと強く思いました。
ソプラノのグリュンマーとアルトのヘーフゲンも素晴らしく、「Blute nu, du liebes Herz!(血を流せ、愛しき御心)」や「Erbarme dich, mein Gott.(憐れみ給へ、我が神よ)」などは畢生の名演奏といえましょう。
その割に、福音史家を担当したデルモータは数等落ちる感覚でした。
合唱はウィーン・ジングアカデミーですが、何か、人数の割には突き詰めた感じが不足しており、こちらは伴奏の陰に隠れてしまった感があります。
マタイ受難曲の中でも最も有名かつ感動的なコラール「O Haupt voll Bult und Wunden,(おお、血と傷にまみれし御頭)」も、あれれ?という間に終わってしまい、これはかなり落胆しました。
ただし、導入合唱と終曲合唱は別物の感があります。
特に終曲の方は、この大曲に相応しい深い祈りを感じさせ、思わず聴き惚れてしまいました。
最晩年、かつ、かなり体調の面でも不安のあったフルトヴェングラーが、それでもこの大曲をライブでやりとおした、その最後を飾るにふさわしい演奏だと思います。

ただ、この当時の演奏としては仕方がなかったのでしょうけれども、あまりにカットが多すぎます。
コラールもかなり割り引かれ、アリアの相当数カットされていました。
楽譜を読みながら聴いたわけではありませんから確かとはわかりませんが、私の思い入れの深い「我がイエスを返せ」や「わが心われを清めよ」などがカットされていたのはいかにも残念でした。

いろいろと散発的な感想を書いてしまいましたが、私にとっては、この演奏からわずか4年後にカール・リヒターが録音した全曲完全版のステレオ演奏が一つの大きな指標となっており、どうしてもそれと比べてしまいます。


云い方は悪いのですが、このフルトヴェングラーの録音を聴いて、リヒター版の真摯さ凄さを改めて感じているところです。
特に福音史家のヘフリガーと合唱。
これは正に段違いのレベルにありました。
恐らく人数からすればはるかに少ないはずの合唱団の、あの突き詰めたような表現はどうでしょう。
「おお、血と傷にまみれし御頭」のコラールでは、正に荊冠に苛まれて血を流すイエスの姿が目の当たりに浮かんできます。

フルトヴェングラーとリヒター。

恐らく、バッハに対する想いや尊敬の念は双方とも大変強いものがあったと思われますが、フルトヴェングラーにとってのバッハはドイツ音楽における孤高の芸術家としてのそれであったのに対して、リヒターにとってはその宗教観や生き方を含めバッハという人間そのものこそが全ての源であったのではないでしょうか。
その突き詰めた想いの差が、そのままそれぞれの演奏に出てしまっているように思えてなりません。

これはあくまでも私の牽強付会な印象に過ぎないのですが、フルトヴェングラーにとってバッハという存在はドイツ音楽という至高の芸術の体現者・創造者としてのそれであり、リヒターはそこからさらに深掘りをしてバッハの精神の根幹を占めていた信仰のありように迫っていたのではないか、と考えるのです。
つまり、バッハのマタイ受難曲を、フルトヴェングラーはあくまでも至高の芸術作品として見、リヒターはバッハの信仰告白として受け止めようとした。
それ故に、そこから導き出された世界もおのずと違ってきたのではないか。

どちらがより優れているか、という問題ではありません。
これは恐らく聴く人の感性にその回答を求められるべきものなのでしょう。

私自身のことを敢えて書けば、やはりリヒターの演奏に強く惹かれます。しかし、このフルトヴェングラーの演奏からは、そうした一方向からの偏った見方を修正する力があると感ぜられました。
このフルトヴェングラー版。もう少しきちんと付き合ってみたいなと改めて思っております。

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