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芸術の創造と訴求力。交響曲を巡って。 [音楽]

以前にも書いたことがありますが、音楽の中で、私はとりわけ交響曲を好んで聴く傾向があります。

haydn.jpg交響曲における、ソナタ形式-緩徐楽章-メヌエット-ソナタあるいはロンド形式、という四楽章制をハイドンが確立させ、序奏-主題提示部(第一主題、第二主題)-展開部-再現部-結尾部(Coda)というソナタ形式もハイドンによって完成されました。
ベートーヴェンが、メヌエットをスケルツォに変更してより抽象性を強め、交響曲の形式をさらに発展・強化させたのはご案内の通りです。

しかし、交響曲の歴史を詳しく見てみると、物事はそれほど単純ではなく、それまでオペラの序曲などに用いられて発展してきたシンフォニアが独立した管弦楽曲となって、18世紀の数多の作曲家がそれを発展させる形で様々な実験を試みていたようです。
その動きは欧州全土に広がり、ウィーン、マンハイム、北ドイツ、南ドイツ、イタリア、フランス、イギリスなどで様々な作品が生み出されました。
18世紀の交響曲に関するカタログは一万章にも及んでいたという事実もあり、それまでの三楽章にメヌエットを加えて四楽章にするという試みも、マンハイム楽派の創設者であるJ.シュターミッツによってなされていたようです。
そうした活動の最先端を走っていたのは、そのJ.シュターミッツ、北ドイツのC.P.E.バッハなどで、ウィーンはむしろ立ち遅れていた存在でした。
ハイドンでも、初期の交響曲などはパリで出版されていたとのことですから、今日の感覚からすれば不思議な気もしますね。

ただ、ある意味からすれば、ウィーンが立ち遅れていたことによって、余計な観念からフリーとなり、ハイドンはより自由な発想から様々な実験や試行錯誤を続け今日に伝わる交響曲の形式を確立し得た、ともいえるのではないでしょうか。
ハイドンの衣鉢を受け継いだモーツァルトの交響曲が、ウィーンに腰を落ち着けてからのハフナー以降とその前との間で大きく変わっているように受け止められるのもこうした背景があってのことかな、などと思ったりもします。

いずれにしても、18世紀当時には正に百花繚乱たる趣があったであろう当時の交響曲のほとんどが現在では演奏される機会もなく、一般の聴衆からは忘れ去られた存在になっていることに、ある種の感慨を抱かざるを得ません。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンによって確立・発展した交響曲の系譜が現在まで命脈を保ち、ロマン派の作曲家たちもベートーヴェンの交響曲をその範として拡大・充実させてきた、ということでしょう。

ブラームスやブルックナーは4楽章制というベースを頑なに守り、ドヴォルザークやチャイコフスキー(第3番は「例外」ですが)もその系列だと思われます。

一方、第9番「合唱付き」は、マーラーによって極限にまで拡大・発展化を遂げます。
マーラーによる4楽章の交響曲は、第1番・第4番・第6番・第9番ですが、第5番や第7番も、序奏の部分が巨大化して5楽章になったという見方もあります。
シベリウスの交響曲では第7番で単一楽章に至りましたが、ベートーヴェンは第5番や第6番で楽章の切れ目なしの演奏を指示していることから、その流れを汲んで純粋に高めた境地の作品ということもできましょう。

一方で、第6番「田園」は、作曲者自身が標題を付けてその意図を明確化したという点でも画期的な方向性を示す作品であり、この曲がなければベルリオーズの「幻想交響曲」もあのような形のものとして確立したかどうかわかりません。
「田園」は、ロマン派によって育まれた交響詩の出発点とも考えられますし、音楽評論家の松本勝男さんによれば、それはスメタナの「モルダウ」にまでつながっていく、とのことで、これは非常に興味深い見解ですね。

さて、18世紀から19世紀にかけて発展を遂げ、特に19世紀に至り、作曲家は、交響曲というジャンルで自己における最大限の表現を達成したいと願った。
ワーグナーのように、ベートーヴェンを神のごとく尊敬しつつ、交響曲というジャンルにおいては到底その域に達することができないとして、楽劇という独自の芸術の道を切り開くとか、リストのように交響詩を創設し新たな表現形式を確立しようとした人たちも、交響曲の作曲は試みているのですから、やはりその範疇に入るのでしょう(リストなどはベートーヴェンの交響曲全曲をピアノ曲に編曲しています)。

文字通り心血を注ぎこんで作品を生み出そうとするわけですから、生涯に世に送り出せる曲数にはおのずから限られます。
交響曲の創作は9曲が限界、という言い伝えも、あながち俗説とばかりはいえないのかもしれません。

ところで、演奏会のプログラムは、
  1. 序曲など短い管弦楽曲
  2. 協奏曲
  3. 交響曲

などという形になることが多いようですが、やはり締めくくりに持ってくる曲は、作曲家が心血を注ぎこんで作り上げた交響曲を、という聴衆の要望が強かったからなのではないかと思います。
私も何度かそういう演奏会に行きましたが、マーラーやブルックナーなどの場合は、交響曲1曲だけ、というメニューとなることも少なくありません。
「春の祭典」や「海」などが締めとなる演奏会もあったりしますが、楽器編成からしても曲の内容からしても交響曲と遜色ない規模の曲でありながら、「最後にドーンと聴きごたえのある交響曲がほしかった」などという聴衆の声も少なからずあるのだそうです。
私も含めて、いわゆるクラシック音楽のファンや聴衆にとって、交響曲はいまだに閑却すべからざる存在なのではないでしょうか。

しかし、以前も書きましたが、20世紀に入って交響曲の創造は徐々に終局を迎え、21世紀の現在では、わずかな例外を除いて、19世紀のように己の創作の重大なメモリアル的作品に位置付ける作曲家はほとんど存在しない状況となりました。

理由はいくつか考えられるのでしょうけれども、音楽の世界でもグローバル化が非常な勢いで進展し、それまでの西洋音楽では考えもつかなかった楽器や表現が創造者の前に開かれ、多彩な音のパレットの中から、それぞれの音の特徴を最大限に生かしたい、つまり、ドビュッシーなどが推し進めた「一音の響き」を重要視する傾向が強まっていったことがあるのかな、と個人的には考えています。
古典的な二管編成から後期ロマン派の四管・五管へと編成は拡大しても、演奏母体であるオーケストラの楽器自体は変わらず、そうした楽器の合奏によって構造的な響きを定まった形式の中で構築する。
大変失礼な言い方をあえてすれば、そうした行き方の中ではもはや新しい響きの創造は困難だと、先達たちの偉業を前にして、20世紀以降の作曲家たちは立ちすくんでしまったのかもしれません。

機能和声や厳格なポリフォニーからフリーとなり、旋律の束縛を排した無調や12音階と発展していった前衛音楽。
しかし、そうした新しい音楽が演奏会のメインに据えられることは非常に難しかったのではないでしょうか。
先ほど述べた演奏会のプログラムの雛形からも類推されるように、聴衆の好みはロマン派以前の作品に向かいます。
私自身、20世紀の音楽、シェーンベルク、ベルク、バルトーク、ウェーベルンなどからピエール・ブーレーズに至るまで、好んで聴きますし、武満徹の音楽などはほとんど「溺愛」しているといっても過言ではないほど聴きこんでいます。
でも、やはり聴いていて最も気持ちが安らいだり感動を新たにしてしまうのは、ブルックナーやブラームスやマーラーだったり、J.S.バッハだったりします。
新しい時代の音楽、特に現在の自分と同じ時間の流れの中にある音楽は、それを同時代性の中から理解しようと努めたりはしますが、真に魂を震わせるような感動を呼び起こされるものにはなりえません。

これは、決して懐古趣味的な観点からのものではないと思います。

先にも述べたように、18世紀中に1万章を超える作品が存在したとされる交響曲の中で、現在も脈々と演奏され続けている曲はほんの一握り。
これらは例外なしに、そうした聴衆の厳しい選別という熾烈な競争を勝ち抜いて残ってきたものばかりなのですから。

さらにいえば、そのようにして現在まで残った名曲ですら、生み出された同時代に、今のような至高の存在になり得ていたわけではありません。
これはおそらく、芸術という、人の内面に働きかけ感動を呼び起こす表現全般に当てはまるものなのでしょう。

例えば絵画の世界においても、ルネサンスから古典主義、ロマン主義、印象派といったあたりの作品を私は好みます。
ラファエロ、グレコ、ルーベンス、フェルメール、ドラクロワ、ミレー、ゴーギャン、セザンヌなどなど。
キュビスムやシュールレアリスムへと時代が進む中で、ピカソやダリやマグリットの作品に胸は打たれつつも、先に挙げた画家のような全幅的な感動にまでは至りません。
20世紀以降では、フランシス・ベーコンとかグスタフ・クリムトなどの例外を除いて、心を激しく揺さぶられるような絵を思い浮かべることがなかなかできません。
現在開催される美術展の中で多くの観客を呼び込む力のあるのは、誤解を恐れずに云えば、やはり印象派以前のものが大半を占めるのではないでしょうか。
進歩派を気取ってはいても、人の心の奥底は相当に保守的なものなのでしょうね。

「芸術は未来において完結する」

芸術家は、いつの時代もそうした重い十字架を背負い続けて、作品を生み出そうとしているのかもしれません。
奥深くも厳しい世界だなとつくづく思います。



締めくくりとして、矢代秋雄さんの交響曲のCDをご紹介します。
20世紀に至って交響曲を世に送り出した日本人作曲家はたくさんおられますが、その中で矢代さんの交響曲こそが本来の形を失わずに屹立した孤高の作品の一つと、私は考えるからです。
欧州に大幅な遅れを取った日本人による交響曲が、このような形で生み出された奇跡に感謝しつつ。
機会がございましたら、是非ともお聴き下さい。

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サンフランシスコ人

「演奏会のプログラムは、序曲など短い管弦楽曲+協奏曲+交響曲」

グスタフ・マーラーの演奏会が極端に増加し、この組み合わせが破壊された???

by サンフランシスコ人 (2018-09-11 02:11) 

のら人

クラッシックに疎い為、よくわからなくてすいません。^^;
でもシンフォニーは好きです。
by のら人 (2018-09-11 09:24) 

tochimochi

すみません、私も理解できませんでした ^^;
伊閣蝶さんの音楽に対する造詣の深さに驚くばかりです。
いや音楽だけではないですね、芸術に対するですね。
by tochimochi (2018-09-11 21:21) 

謎のじじい

ご無沙汰しております。
交響曲ではないのですが、1975年に開催された三重国体の式典の音楽を矢代先生に委嘱しました。
「ファンファーレ」、「式典序曲」、「賛歌」、「式典終曲」からなる吹奏楽作品集でしたが、序曲と終曲、特に終曲は美しく親しみやすい旋律とチャーミングな和声、そして格調をも併せ持つ印象的な曲で、国体が終わってからも 県内のいろんな吹奏楽団が演奏会などで演奏していました。
国体には、自分もファンファーレ隊として参加しましたので、当時の光景がファンファーレのメロディとともに鮮明によみがえります。
by 謎のじじい (2018-09-12 07:48) 

伊閣蝶

サンフランシスコ人さん、こんばんは。
いつも、コメントをありがとうございます。
by 伊閣蝶 (2018-09-12 21:29) 

伊閣蝶

のら人さん、こんばんは。
以前も、ドボルザークの新世界よりを好んで聴かれる、といわれましたね。
交響曲は、何といいますが、すうっと心の中に入っていく音楽であるように思います。

by 伊閣蝶 (2018-09-12 21:32) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんばんは。
交響曲について以前から思っていたことをまとめてみようと思って書いたのですが、やはりまとまりのない文章になってしまいました。
わかりづらい表現ですみません。
しかし、こういうことを改めて整理しようとすると、私のような凡人には芸術家の想い描く世界は全くの別物ということを改めて痛感させられます。

by 伊閣蝶 (2018-09-12 21:36) 

伊閣蝶

謎のじじいさん、こんばんは。
大変ご無沙汰致しておりますが、おかわりございませんか?
三重国体の式典音楽を矢代秋雄さんが作曲されていたとは初耳でした。
それも、心不全で亡くなる一年前のことだったのですね。
トランペットの名手であられた謎のじじいさんのことですから、格別の想いがおありと存じます。
一度是非とも聴いてみたいと思いました。
今度お会いしたおりにはお話をお聞かせ下さい。
by 伊閣蝶 (2018-09-12 21:40) 

Jetstream

クラシックの世界をよく御存じですね。(@_@;)
音楽を聴くのは好きですが、情けないことにクラシックは疎いです。(笑) 私はEasy Listeningの域からは出られません、東京FMのJSを思い出すように聞いてます。
秋の夜長に音楽をを聴き入って楽しむのも良さそうですね。!(^^)!

by Jetstream (2018-09-12 23:07) 

伊閣蝶

Jetstreamさん、こんばんは。
私はあまり音楽のジャンル分けをしないたちで、できるだけ先入観を持たずに様々な音楽を聴きたいと思っています。
そんな中でも、やはり好き嫌いはあり、結果として交響曲を好んでしまうというところがあるのでしょう。
好みの音楽を聴きながら秋の夜長を過ごす。
最高の時間ですね\(^o^)/
by 伊閣蝶 (2018-09-13 22:16) 

ヒロノミン

 僕にとっては本当に面白く、読みごたえのある記事でした。これだけの内容を文章にするだけでも大変な労力だったのでは、と思います。
 コンサートは、序曲+協奏曲+交響曲、という形式よりも交響曲2曲の方が僕は好きですが、客の入りは協奏曲付きの方が良い傾向にありますね。

 矢代秋雄はピアノ協奏曲を実演で聴いて、「これほどの傑作だったんだ」という感銘を受けました。交響曲は、まだ腰を据えて聴けていないです。たぶん、自分の場合は実演を聴いて開眼するタイプのようで、実演で聴ける機会を待っているのですけれど。

 実演で聴いて開眼した20世紀後半の管弦楽曲は。ジョン・アダムスの「ハルモニーレーレ」です。いわゆるミニマルミュージックですが、そこかしこにハリウッド映画の音楽のような響きが聴こえ、三楽章目は(80年代の作曲なのに)ギガビット時代を予見した0と1の羅列が世界中を飛び交う様なビジョンが見えるようで、アメリカという巨大国家と、そのアメリカの文化を浴びてきた自分たちが生きた「この時代を代表する音楽になるだろうな」と直感しました。
https://youtu.be/MB4aJVdEpzI?list=PLD31E2899CF66F016
by ヒロノミン (2018-09-13 22:23) 

伊閣蝶

ヒロノミンVさん、こんにちは。
とっても嬉しいコメントを頂き、感激です。
交響曲のことについて、いつも断片的に思い浮かべていたことを、何らかの形で一度整理してみたいとおもい書き始めたのですが、なかなか思うような文章にはなりませんでした。
まだまだ書き足りないところもありますので、もう少し整理してみようかなと改めて思いました。
ありがとうございました。

矢代秋雄さんのピアノ協奏曲も畢生の名曲だと思います。私は残念ながら実演では聴いていないので、機会を見つけて聴いてみたいものですね。

ところで、ジョン・アダムスの「ハルモニーレーレ」、早速聴いてみました。
凄い曲です。
これだけの規模の大曲を80年代に生み出したアダムスの才能に感服です。
こんなことをいっては不謹慎かもしれませんが、前衛でもこうした響きは着実に観客の心をつかむと思います。
機能和声やポリフォニーを無理矢理殺した「現代音楽」では、こうした音楽は生まれなかったのではないでしょうか。
これもできれば実演で聴きたいと思いました
by 伊閣蝶 (2018-09-15 12:12) 

サンフランシスコ人

「大曲を80年代に生み出したアダムスの才能に感服...」

アダムスを「作曲家・イン・レジデンス」として迎えたサンフランシスコ交響楽団にも感服....

by サンフランシスコ人 (2018-09-17 04:30) 

ムース

矢代秋雄さんの交響曲、残念ながら廃盤で入手できず。邦人作曲家では、原博の交響曲が超名作ですが、これも入手できず。佐村河内騒動以前に、交響曲の歴史が連綿と受け継がれてきていて、邦人でもこんなにすごい曲があるんだーというのは残念ながら一部のマニアにしか知られていない現実です。是非演奏会などで取り上げたり復刻CDを販売したりして、再ムーブメントを期待したいところです。
by ムース (2018-10-01 17:16) 

伊閣蝶

ムースさん、こんばんは。
廃盤になっていましたか…。
私が邦人作曲家の交響曲作品を集中的に購入していたのは20年近く前でしたから、確かに現在では入手しづらくなっているのかもしれません。
残念です。
本名徹次さんとオーケストラ・ニッポニカの活動に期待したいところですね。
by 伊閣蝶 (2018-10-01 21:39) 

なっぱマン

1990年代以降、これらの作曲家の交響曲、演奏の機会が増えています。
とくに、ラフマニノフの二番やエルガーの一番はかなりポピュラーになり、ラフマニノフの二番はベスト100に入ることもあります。
しかし、1980年代には、例えばラフマニノフは交響曲も書いていた、と紹介されるぐらい、知る人ぞ知る、という雰囲気でした。
もちろん、ラフマニノフはプレヴィン、エルガーはショルティといった、当時のスター指揮者が70年代に録音していましたが、確かプレヴィンのラフマニノフの二番以外は、早々に国内盤は廃盤になっていたと思います。
それが90年代に入ると、ラフマニノフの二番の三楽章がドラマで使われるなどして、次第にポピュラー名曲になって行きます。
また、エルガーの一番も、札幌交響楽団の東京公演が話題になったり、ロンドンフィルの来日公演のチケットが完売になるなど、人気が高まります。
最近では、HMVの通販サイトで、スヴェトラーノフのグラズノフ交響曲全集が、短期間で300セット売れるという現象が起きました。その影響でしょうか、弟の母校の大学オーケストラが今年の定期演奏会ではグラズノフの交響曲第5番をメインでやるそうです。
また近年、グラズノフやシベリウスと同じ1865年に生まれたカール・ニールセンの交響曲も演奏の機会が増えています。
これら、かつては知る人ぞ知る、という位置づけだった交響曲が次々と「発掘」されるのは、現役作曲家による交響曲不作が、少なからず影響しているのではないでしょうか。
もちろん、ジョン・コリリアーノの交響曲第一番や、アルボ・ペルトの交響曲など、この30年間、散発的に注目を集める交響曲は発表されています。
しかし、1893年という同じ年に「新世界」と「悲愴」が発表されたような交響曲全盛時代は、恐らく二度とないでしょう。
だからこそ、かつてはあまり有名でなかった過去の交響曲の「発掘」が行われ、多くの人がそれらの魅力に気づくことに、複雑な気持ちを覚えます。
by なっぱマン (2019-06-14 12:42) 

伊閣蝶

なっぱマンさん、こんばんは。
今回も大変興味深い御見解をありがとうございました。
20世紀の音楽シーンは、ある意味、試行錯誤の連続であったように思います。
ドビュッシーが交響曲に見切りをつけた論文を発表したのは20世紀初頭で、正に「新世界」や「悲愴」が発表された直後のことです。
無調性にしても12音階にしても、結局、作曲家の頭の中の概念に止まっていたようにも思います。
一般聴衆が音楽に求めるものと、先進的な作曲家が前衛的な見地から作ろうとした作品との間には、非常に大きな深淵が横たわっていたのではないかと、私などは思いました。
それでも、仰る通り、この時代になって多くの交響曲が発掘されてきていることh嬉しい限りです。
今後に期待ですね。
by 伊閣蝶 (2019-06-17 23:31) 

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