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ヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集 [音楽]

今日は久しぶりに陽射しに恵まれ、それでも気温はさほど上がらず爽やかな梅雨の晴れ間となりました。
絶好の山登り日和なのですが、残念ながら出勤で、空に広がる夏の雲と太陽の光を恨めしく見つめるばかり。
新しい職場の土曜日は交代勤務となっており、隔週で出勤しなければなりません。
20年近く週休二日でありましたから、このペースに慣れるのはちょっと骨ですね。しかも半日ではないので、やはり一週間が長く感じます(というより日曜日が速く過ぎ去る)。
家内の治療のこともあり、山登りもお預け。その上、なかなかゆっくり音楽を聴くこともできません。
あと少しの辛抱かな、と思ってはいますが。
それでも今は携帯オーディオがありますから、通勤途上で聴いたりもできます。ありがたいことですね。

音楽の趣味というものは、それこそ人それぞれで、百人いれば百の好みがあると思います。
もちろん大掴みに好みの傾向が似ているということはあるのでしょうが、同じ曲を聴いて全く同じように感ずるなどということは、やはりちょっとあり得ないことかな、と感じています。
それに、その個々人の好みそのものが、聴くときの気分や年齢・環境などによって変わっていくのですが、何をかいわんやですね。
私自身、それこそ聴く音楽の好みは転々と変わってきました。
そんな中で、比較的長期にわたって好んで聞いているジャンルは、やはり交響曲ということになるのかなと思います。
私の個人的な好みの変遷を記せば、ベートーヴェンから始まり、シューベルトやモーツァルトやハイドンを行き来し、ブラームスにはまり、チャイコフスキーに胸を締め付けられ、ドヴォルザークに心を慰められながら、ブルックナーとマーラーという巨大な山脈に行きついた。思い切ってデフォルメすれば、そんな感じでしょうか。

交響曲という表現形態は、古より数多くの作曲家の創造意欲を刺激してきました。
現役の作曲家でも、例えば池辺晋一郎さんが2013年に交響曲第9番を生み出されていますし、いわくつきとは言えども新垣隆さんが「HIROSHIMA」を含む三曲の交響曲を書いています。
フィンランドのレイフ・セーゲルスタム氏のように、285曲も書いている方もおられます。
しかし、20世紀初頭のavant-garde(前衛的)な芸術家・作曲家からは、交響曲という形式の限界を指摘する声もきかれました。
ベートーヴェン以来、交響曲の無用性は証明されているように思われる。交響曲は、シューマンにおいても、メンデルスゾーンにおいても、すでに力の衰えている同じ形式の恭しい繰り返しに過ぎない。…若いロシア楽派は、「民族的な主題」に楽想を借用することで交響曲を若返らせようとした。ロシア楽派はきらめく宝石をつみとることには成功したが、しかしその主題と、主題を展開するために強制されるものとの間には、厄介な不均衡はなかったのであろうか。…しかしながらほどなく、民族的な主題の流行は音楽の世界に広まった。作曲家たちは、東から西へと田舎の片隅まで歩き回り、年老いた農夫の口から素朴な歌を奪い取る。そしてそれらの歌は、妙なるレースをまとったわが身に狼狽するのである。…様々な変容が試みられたにもかかわらず、交響曲は、その直線的な優雅さや様式ばった配列やうわべだけの哲学的な聴衆などのすべてからいって、過去に属するものだと結論付けなければならないのであろうか。

これは、1901年3月に発表された、ドビュッシーの評論集「ムッシュー・クロッシュ・アンチディレッタント」の中の一節です。
1901年という20世紀初頭、直前に、チャイコフスキーの「悲愴」やドヴォルザークの「新世界より」が発表され、マーラーは第4番を、シベリウスは第2番を生み出していました。
マーラーやシベリウスが、さらに奥深い交響曲を発表するのは正にそれ以降であり、プロコフィエフやショスタコーヴィチがそのあとに控えていることを思うと、何とも厳しく寂寞とした見方ではないかと感じてしまいます。
とりわけ、農夫の口から奪った素朴な歌が、作曲家によって飾り立てられたわが身に狼狽する、という下りは痛烈な皮肉でもありましょう。
機能和声やソナタ形式に縛られオーケストラ全体が響かせる音の塊として表現されてきたそれまでの管弦楽曲のあり方に疑問を呈し、楽器そのものの持つ音に如何に意味を持たせるかを腐心したドビュッシーならではの見解だなとも思います。
恐らく、形式の上での絶頂期を過ぎて既に爛熟期に入っている古典的な管弦楽的手法は、少なくとも新たな芸術的表現を目指す前衛作家の目からすれば死期を間近に控えた存在と見えたのでしょう。
事実、20世紀の前衛的な作曲家は、機能和声やソナタ形式などの形式や旋律的な音の流れからフリーになるために、様々な試行錯誤を重ねていくのですから。

また、この傾向は、現場の作曲家よりも音楽評論家・批評家の方に、より強く働いた、ようにも思えます。
ラフマニノフの作品に対する「前衛に背を向けた保守的で没個性的作品」といった批評などが示すように、芸術家は前衛的な地平を目指すべきで、大衆迎合的な意味でのポピュリズムに堕すべきではない、といった具合です。
言いたいことはわかるのですが、こうした批評家の奥底にある大衆蔑視や自己顕示欲・選民意識には辟易とさせられますね。
たとえば二十世紀の進歩的なすぐれた作曲家のなかで、交響曲作曲家とよびうるような人は一人も存在しない…(中略)…二十世紀には、交響曲を自己の創作の一里塚にするような交響曲作家は存在しないといいきってもよいだろう。D・ショスタコーヴィチの例をもちだして反論されるかもしれないが、社会主義リアリズムの作家は20世紀の作曲家とは考えないことにしよう。

名前は敢えて記しませんが、ある著名な前衛音楽批評家先生のお言葉です。
ショスタコーヴィチのファンである私からすれば、かなり腹立たしい文章でありました。

前置きが長くなりましたが、イギリスの生んだ偉大なる「20世紀の交響曲作曲家」であるレイフ・ヴォーン・ウィリアムズの交響曲全集のご紹介です。


彼と親交篤く、その作品の初演にも何度も携わっているエイドリアン・ボールトの指揮によるもので、CD5枚に収められ、この価格で出るとは思ってもみませんでした。
どの曲も、ヴォーン・ウィリアムズへの深い共感が感ぜられ、実に素晴らしいのですが、とりわけ
ヴォーン・ウィリアムズの白鳥の歌ともいうべき第9番の演奏は白眉です。
84歳という高齢で作曲された、彼の最後の曲ですから、どうしてもそこに死の影を見てしまいがちであり、実際、実に奥深く永遠の世界を見つめるような音楽が展開されます。
夫人によれば、既に次の交響曲の準備に取り掛かっていたとのことですから、これは聴く者の単なる深読みなのでしょうが、事実として最後の曲となったわけですし、恐らく指揮者のボールト自身もそうした想いを込めて曲の解釈を行ったのでしょう。
最終楽章で、最後まで残るアルト・サックスの音の印象的な消え方がとりわけ心に残ります。
とはいえ、決して死をイメージさせるような暗い曲ではありません。
永遠の平安への希求という想いの満ちた、ある意味では希望も感じさせる曲だと思います。

ヴォーン・ウィリアムズの交響曲では、「海の交響曲(第1番)」「ロンドン交響曲(第2番)」「田園交響曲(第3番)」の三曲が有名で、事実、大変親しみやすい曲となっています。
ロンドン交響曲で聴かれるビッグ・ベンの鐘の音、これは私たち日本人にとっても、学校の登下校のチャイムに転用されるほど有名な調べですが、思わず頬が緩んでしまうような形で取り入れられています。
また、イングランドの、どちらかといえば寂寞とした感のある田園風景が眼交に浮かぶ田園交響曲を聴いていると、ヴォーン・ウィリアムズの祖国に対する深い愛情がひしひしと感ぜられ、聴くたびに心が満たされる想いがするのです。
その一方で、第4番や第6番のように、極めて実験的な作品もあります。
これらの中で展開される複雑な対位法や不協和音、攻撃的なフォルテなどは、やはり彼がまぎれもなく20世紀に生きた作曲家であることを示しているのではないでしょうか。
私個人としては、この第4番、第6番、そして先に述べた第9番などが好みです。

ヴォーン・ウィリアムズに限らず、イギリスの作曲家の作品に対する日本での人気は今ひとつという感があります。
エルガーの「威風堂々」やホルストの「惑星」などを例外とすれば、コンサートでもあまり取り上げてこられなかったのではないでしょうか。
ヴォーン・ウィリアムズの交響曲でいえば、第5番は比較的取り上げられることがあるようですが、ほかはあまり聞きません。
しかし、イギリス本国はもちろん、欧米では盛んに演奏され、CDもかなりの枚数が出ています。
バルビローリ、プレヴィンなどの指揮による名演奏も広く知られていますし、ハイティンクも積極的に取り上げてきました。
つまり、多くの聴衆はヴォーン・ウィリアムズの交響曲を認め受け入れてきたわけで、先の前衛音楽評論家などが振りまく言説が、如何に一般の感覚からかけ離れたものであるか、ということが端無くも証明されたということではないでしょうか。

もしも機会がございましたら、この「偉大なる凡人(大ファンを自認する三浦淳史氏の評)」の悠揚迫らざる交響曲に是非とも触れてみて下さい。
仕事や生活などに疲れてささくれ立った心を癒してくれること、請け合いです。
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夏炉冬扇

なかなかリラックスできませんね。
by 夏炉冬扇 (2015-06-21 18:28) 

のら人

シンフォニー、も好きですが、ドンドン忘れていき、お恥ずかしい限りです。
威風堂々は流石に忘れませんが、このような名曲はクラッシック、ポップス、ロック問わず、末永く聞き込んで行きたいものです。^^
by のら人 (2015-06-21 21:31) 

tochimochi

新しい職場は隔週休2日ですか。
それは辛いですね。
奥様のこともあり、山どころではないでしょう。
じっくり計画を練る時間と考えてください。

by tochimochi (2015-06-21 21:59) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんばんは。
何だか「貧乏暇なし」を地で行っているようです。

by 伊閣蝶 (2015-06-23 22:40) 

伊閣蝶

のら人さん、こんばんは。
ジャンルを問わず、良い音楽は聴き込むほどに新たな発見があります。
そういう音楽が、結果として長く残って行くのでしょうね。
テレビのCMのBGMに半世紀も前の曲が流れていても、決して古さを感じさせない。
そういう音楽もあるのだなと改めて気づかされることがありますから。
by 伊閣蝶 (2015-06-23 22:42) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんばんは。
隔週の土曜日出勤、さすがになかなか体がついて行きません。
それでも、60歳間近の転職車がフルタイムで働けることには感謝しなければなりませんね。
家内のこともあって山には行けませんが、仰る通りいろいろと計画を練っています。それも結構楽しいものだと思っています。

by 伊閣蝶 (2015-06-23 22:48) 

ねじまき鳥

クラッシックはときどき聞きます。
ショパンが好きです。
by ねじまき鳥 (2015-06-24 00:03) 

伊閣蝶

ねじまき鳥さん、こんばんは。
コメントの返しが遅れてすみません。
ショパンは私も大好きです。
辛い通勤時間にiPodなどでショパンのピアノ曲を聴いていると、不思議に落ち着きます。
by 伊閣蝶 (2015-06-29 21:28) 

ムース

お久しぶりです。

交響曲を片っ端から聴いている関係上、偶然にも同BOXを保有しています。イギリスのVWを巨匠ボールトが指揮しているのですから、悪かろうはずがありません。個人的に一番印象的なのは4番で、それには完全にシビレました!!。
by ムース (2015-07-11 10:58) 

伊閣蝶

ムースさん、こんにちは。
やはり4番ですか!
記事でも書きましたが、私が一番心を打たれたのも、この曲の演奏でした。
ボールトのボーン・ウィリアムズに対する真摯な愛が、刺激的に展開されているような気がします。

by 伊閣蝶 (2015-07-11 15:43) 

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