SSブログ

福永武彦「告別」 [音楽]

寒い日が続いていましたが、ここ数日はかなり気温が上がり、20度を超す場面もありました。
陽が落ちても気温はさほど下がらず、コートを着込んで電車に乗ると大汗をかいてしまいます。
しかし予報によれば、来週はまたまた気温が下がるようで、油断はなりません。
花粉も盛大に飛んでいて、個人的には厳しい季節でもあります。

それでも、陽が長くなり花々が咲き始めるこの時期から5月にかけては、一年の内で最も好ましいとき。命の躍動を感じさせてくれますね。

先日、ふと思いついて本棚から古い文庫本を取り出し、主に通勤中の読み物にしました。
福永武彦の中・短編集「告別」です(講談社文庫)。


最初に手に取った本にしようと思っておりましたので、もとより積極的に選んだわけではありません。
それでも「昭和51年6月5日第4版発行」などという奥付をみて、この本を買ったのは19歳の頃だったのか、とちょっと遠い目をしながら思い返してしまいました。
文庫の表題にもなっている「告別」は、その名も示す通り、マーラーの「大地の歌」がモチーフとなっています。
内容は、福永武彦本人を連想させる「私」の目を通してみた、彼の友人・上条慎吾の最期を描いたものといえるのでしょうか。
孟浩然の五言律詩「告別」と王維の自然詩「送別」を題材にして作られた、「大地の歌」第6楽章「告別」の歌詞がリフレインされながら、この小説は静かに閉じられます。
音楽家になる望みを遂に叶えることができずに、教育者や翻訳者・批評家として、その音楽の周辺を巡ることのみで終わってしまった不毛な人生。この長大な楽章の痛切な響きも相俟って、久しぶりに胸を締め付けられるような想いにさせられました。

福永武彦氏は音楽や絵画にも造詣が深く、いくつかの作品において、それらを有機的に絡ませています。
処女長編作である「風土」では、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」とゴーギャンの絵。
「草の花」では、ショパンのピアノ協奏曲第1番。
「死の島」では、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」を中心とするレミンカイネン組曲。
そして、この「告別」です。

福永武彦氏は小説家でありますが、極めて鋭敏かつ実験的な詩作を試みた詩人でもありました。
彼の芸術的なものへの傾倒は、詩人としての感性によるところもまた大きいのかもしれません。
その意味で福永武彦氏は、日本では珍しい芸術家的志向を持った小説家といえましょう。「藝術家には俗人が対立する」とは、その福永武彦氏の言ですが、正に至言です。

それゆえに、音楽家としての資質を花開かせることなく失意のうちに若くして逝った上条慎吾の心中を描いて間然としないこの小説は、小品ながらも痛切に心に響くのでしょう。
上条慎吾は、教師としては良心的な授業をなし得ただろう(しかし教師としての本分に彼が満足していたとは思われない)、学者としては多少の業績があったろう(しかし彼はまだ彼自身の作品と呼ぶに足りるだけの研究を発表していなかった)、確かに世に識られた翻訳や啓蒙書を出した(「子孫のために美田を買うということもあるからね、」と彼は言った)、自らピアノを弾き、作曲の真似事のようなことをした(「もしも僕が自分の思い通りに生きられたとしたなら、僕は作曲家か、でなければせめてピアニストになりたかった、」と彼は言った)、そして結局は中途半端な文化人というにすぎなかった彼、

多少なりとも創造的な活動を夢見たことのある人であれば、このくだりの痛ましさはお分かりのことと思います。

そして、福永武彦氏と思しき「私」は、小説の持ち得る芸術性について様々な想いを巡らせます。
しかし絵や音楽には本質的に人を慰めるという要素がある。純粋な感動によって直接こちらの魂に訴えて来る。君だってたびたびそういう経験があるだろう。しかし小説ではなかなかそうはいかん。これは感動的な、身の上相談的な材料を用いたから、それで人が感動するといったことじゃない。偉大な小説には固有のリズムがあり、そのリズムに合わせて我々の見る現実よりも一層現実的な人生が、展開する筈だ。しかしそれは結局作者自身の幻影にすぎない。幻影というのはつまり嘘さ。しかしそれは誠実な嘘であり、実在する幻影でなくちゃならないのだ。

これはその中のほんの一部ですが、小説が壮大な虚構であることを鑑みれば、小説家にとって、読む人の心を動かす作品を生み出すことがどれほどの難事であるかがわかります。
それは誠実であろうとすればするほど厳しいものであり、福永武彦氏は正に極めつけの誠実な小説家でありましたから、その苦悩は推して知るべしといえることでしょう。

音楽と文学のことについて、以前、このブログで次のような記事を書いたことがあります。
音楽と文学

生硬な文章だったため、案の定、一つの「nice!」もつきませんでした。

話を「大地の歌」に戻しますと、この曲の中心は、長さや規模そして深さからいっても第6楽章「告別」ということになりましょうが、私は第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」の次の有名な一節に心惹かれます。
Dunkel ist das Leben, ist der Tod.
生は暗く、死もまた暗い。

李白の「悲歌行」には存在しないフレーズですので、これは恐らくマーラーの想いのこもった下りなのではないかと考えます(ベートゲの訳詩に存在していたとも思われません)。
生きとし生けるものにとって死が恐怖であるのは当然です。己の存在の喪失に直接つながることでありますから。
しかし生を暗いと思う心は、恐らく高度な知能を有する人間にしか存在しないものでしょう。
死が必ずわが身に訪れるものであることを、人はもちろん理解しているはずです。
しかし、人は平穏な暮らしの中で具体的に死を意識することはないのではないか。
死はそうした人々のもとに、ある日突然、それこそ有無を言わさぬ形で訪れます。逆にいえばそれまでの間、人は死を自分とは無縁なところにある概念であるとして、それを忘却しながら暮らしている。

マーラーが、自身がユダヤ人であるという出自から、様々な苦労を重ね挫折や怒りを感じ続けたことは否めません。
しかし、マーラーが生きた時代は、ホロコーストを行ったヒトラーもおらず第1次世界大戦も第2次世界大戦勃発してはいなかったわけですから、他律的な意味での「死」という概念は薄かったのではないでしょうか。
強迫神経症や心臓の不調は、彼に死の恐怖を呼び起こす因子にはなったかもしれませんが、戦争や殺戮といった恐怖が目睫に迫っている、といった環境になかったものと思われます。
同じ人間でも、当時のマーラーのように高度で文化的な生活を送れない人々や、戦争や紛争や弾圧などによる命の危機を常に感じている人々(現在のパレスチナ人など)にとって、生は正しく自らの存在の具体的な証なわけですから、「生は暗く、死もまた暗い。」といったふうなペシミスティックなアフォリズムの入り込む余地はないのではないでしょうか。

この曲の作曲に取り掛かる前に、長女のマリア・アンナを亡くしたり、自身の心臓病が明らかになったことなどから、ある意味では彼岸の世界を想起し、それが作品の根底に横たわっていたということもあるのでしょうけれども。

「大地の歌」は、マーラーの作品の中でもとりわけ人気の高い曲ですので、数多くのCDが発売されています。
私の好みとしては、なんといってもその初演を指揮したブルーノ・ワルターによるものが一番のお気に入りです。


そのほかでは、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管、レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルなどでしょうか。


特に、バースタイン&ウィーン・フィル盤では、通常アルトで歌われることの多い2・4・6楽章の独唱を、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのバリトンとしていて、これが何ともいえない素晴らしい演奏となっていました。


nice!(22)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 22

コメント 6

夏炉冬扇

そろそろいささかある書籍、始末しないとなぁ…などと思っております。
こちら雨です。
お勤めご苦労さま。
by 夏炉冬扇 (2015-03-19 08:19) 

tochimochi

小説を読むにもこれだけのことを創造できる・・・いろんな分野の知識をお持ちがゆえのことと敬服いたします。
私はといえば、今は通勤中に青春の門『挑戦編』を読んでいます。
『再起編』までは大分前に読んでしまっていたのですが、本編はブックオフにも当分出そうにないので、書店で購入してしまいました。
やはり私にはこの手の本があっているようです ^^;

by tochimochi (2015-03-19 22:36) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんばんは。
書籍の整理、なかなか悩ましいものです。
かなり処分したりもしましたが、一冊一冊に、それを買った時の想いが込められていますので、それを振り払うのが難しい。
by 伊閣蝶 (2015-03-20 00:12) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんばんは。
過分なお言葉を頂戴し、汗顔の至りです(^^;
「青春の門」、私もかなり前に読んでおり、やはりそのまま本箱の中のどこかにあるはずです。
tochimochiさんのコメントを拝読し、また読み返してみたくなりました。
しかし、文庫本、随分発行作品数が少なくなってきましたね。
by 伊閣蝶 (2015-03-20 00:18) 

サンフランシスコ人

ブルーノ・ワルター&ニューヨーク・フィルによる「大地の歌」の演奏会に行きたかったなぁ!

by サンフランシスコ人 (2016-04-30 03:14) 

サンフランシスコ人

以前、ニューヨーク・フィルの楽団員が私に語った話によると、「大地の歌」の演奏終了後にブルーノ・ワルターが大感激してカーネギー・ホールの楽屋で泣いていたらしいです...
by サンフランシスコ人 (2016-05-06 07:22) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0