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レナータ・スコットのヴィオレッタ(椿姫) [音楽]

このところ、冬の寒さが戻って来ています。
それでも日中は気温が上がっているのですが、この気温差はさすがに応えますね。
しかも、花粉も盛大に飛んでいて、辛い季節になりました。

ヴェルディのオペラ「椿姫」。
原題は「La Traviata(道を踏み外した女)」。
原作の小説・戯曲である、アレクサンドル・デュマ・フィス(小デュマ)の「La Dame aux camélias(椿の花を付けた淑女)」から、日本では「椿姫」と呼ばれていますが、内容からすれば、やはり原題の方が相応しいのではないかと思います。
原作のヒロインであるマルグリット・ゴーティエは椿の花を好み、手すりに椿の花束やボンボンを置いたり、服の胸にはいつも椿の花を挿していたのですから、こうした題名が相応しいのは言を俟ちませんが、ヴェルディのオペラの方では椿の花は全く登場しませんし、ヒロインの名前も「ヴィオレッタ」とスミレにちなんだ名前になっているのですから。

それはともかく私は、オペラは好きなのですが、劇場で観るのは意外に苦手だったりします。
というのも演劇という舞台芸術に、どうも入り込むことが出来ない部分を感じてしまうからにほかなりません。
そこで演じられている劇は、あくまでも創作の世界であるにもかかわらず、客席と同じ時間が流れていることを、折に触れて感じてしまうからです。
舞台と客席との間に、同じ時間が流れ、意識が共有される。それはそれで非常に素晴らしい世界だとは思いますが、上演されている創作の世界に完全に入り込むことはかなり難しい。少なくとも私には困難な技でありました。
それに反して映画は自在に時間を操れるので、その映像の中にいる限り、我々は時間的な制約から解き放たれて、自由にその表現世界の中に身を置くことができるわけです。

人に限らず、この世の中に「存在」するものは、すべて時間という巨大かつ絶対的・圧倒的な力によって管理・統制されています。
命あるもの形あるものは時間の経過とともに生まれそして滅びていく。
「永遠」とは、言葉としては成り立ち得ますが、現実の世界にはあり得ない概念です。それは無に等しいものなのであり、「存在」とは真っ向から対立するものなのでしょう。
人は、時間の経過によって老い肉体が滅んでいくという理を、少なくとも死をそれと明確に意識し受け入れることが必要な状況に陥ることでもない限り、己の身近で切実な現実としては考えないものなのではないかと思います。
それでも、必ずこの身に死という名の終焉がやってくることを抗うことはできない。
自分の身近にいる人間以外の生物の意識の中のことを私は知る由もないので断言はできませんが、死というものを人間のような形で意識の中においている生物は他にはいないのではないか、そのように考えます。

そうした人間が、己の死を超越する「永遠」という概念を屹立させようと足掻くことによって生み出したものの一つの形が「芸術」という世界なのかもしれません。
建造物・絵画・彫刻などの美術・建築、詩や小説などの文学、音楽、映画、演劇・舞踏その他様々な表現芸術に至るまで、人々は己の肉体を超越する創造の中において、時間という絶対権力からの統制に挑戦してきたのではないでしょうか。
詩や文学や音楽や演劇・舞踏などの表現芸術は、具体的かつ固有の実物を持たない分、さらにその永遠性は深まるものと考えます。

「古池や蛙飛びこむ水の音」

時間は、松尾芭蕉の肉体を50年という年月を以て現世から消し去りましたが、この人口に膾炙された名句は彼の没後も長らく生きつづけ、恐らく相当の後世にまで伝承されていくことでしょう。
つまり、芭蕉の肉体は滅んでも、この句(だけではありませんが)が存在することによって、永遠ともいえる時間を持続させている、ともいえるわけです。

その時間を、モンタージュなどの技法によって寸断したり引き延ばしたり様々に料理して表現したものが映画という表現形態です。
映画では、何千年もの時間の経過をたった1カットで表現することもできますし、わずか数秒の事象を幾重ものカットを積み上げて立体的に表現することも可能です。さらに空間をもフレームワークで自在に演出できるわけですから、表現芸術としては最強の部類に入るのではないでしょうか。

どうも話が変な方向に進んでしまいとっ散らかってしまいましたが、私がオペラを(舞台芸術であるのにもかかわらず)好むのは、音楽という極めて抽象性の高いツールを用いて全体を構成することにより、時間や空間を自由に演出しているからにほかなりません。
バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンなどはいうに及ばず、グレゴリオ聖歌やデュファイやモンテヴェルディそして雅楽に至るまで、今日聴いても全く古びた印象を与えることなく新たなる感動を私たちに与えてくれるのは、それを演奏する人々の感性によって、その時代にマッチした表現を導き出すことが可能だからなのではないかと、私は思っています。
つまり音楽は時間や空間の隔たりを一瞬にして飛び越える力を備えているということです。

同じことが、例えば能にも言えるのかもしれません。
能のストーリーでは、旅の僧(ワキ)が、化身(井筒など)や現在の姿(卒塔婆小町など)のシテと出会い、話を聞くうちに、過去の事象を霊となったシテが演ずる、という形をとることが多いように思われます。
様式的に時間や空間を超越して表現するわけで、具象的なものを極力排することにより抽象性を高めている。さらに、そこにつけられている音楽(囃子)は、能の「一期一会」を体現するかのように、演能の度毎に変化していくのですから、ますます抽象性が高くなってくるのではないでしょうか。
それゆえに私たちは、その時間と空間を自在に操る能の世界の中で、自由に思考の羽を伸ばせるような気がするのです。

オペラは、音楽をその表現の主軸に置くことで、ある意味では映画のような時間・空間の超越を味わわせてくれる。
そこに私は無限の聴く喜びを見出すのです。

前置きが長くなり、大変失礼いたしました。

ヴェルディのオペラ「椿姫(La Traviata)」は、同時代に生きる女性を題材として取り上げており、ヴィオレッタは、恐らくオペラ史上初の、血の通った女性主人公ともいえるのではないかと思います。
娼婦という境遇にありながらも誇りを失わず、自らの選び取った愛を貫きつつも愛する男の妹の幸せのために身を引く決断をし、そしてこの世を去っていく。
なんだか浪花節みたいな話ではありますが、こうしたストーリーであるからこそ、150年以上経た現在においても今日性を失わず、変わらぬ感動を与え続けてくれるのでしょう。
ヴェルディがこのオペラを作曲したいきさつについては、wikiを始め、よく知られた話ですからここでは敢えて触れませんが、当時のイタリアが、ナポレオンの侵攻と失脚によってずたずたにされた後、周辺国などにより分割統治され、ミラノはオーストリアの支配下にあったことも、この曲の成立に当たって念頭に置いておくべきではないかと思います。
つまり、当時のミラノ・スカラ座の観客は、そうしたオーストリアの支配階級やそれに近い勢力の人々で占められていたということです。
主人公のヴィオレッタに同情の涙を流したであろう観客たちも、畢竟、彼女を拒み死なせた側の階級に属していたわけですね。
椿姫初演の失敗は、ヴィオレッタ役の歌手の肥満と拙演が原因などといわれていますが、こうした観客たちの階層に鑑みれば、むしろそうした観客の不興を買った可能性もあり、無理からぬ結果ではなかったかと思います。
「ネブカドネザル(ナブッコ)」「トロバトーレ」などを世に問うほどに愛国心の強かったヴェルディが、こうした客層に対して一種の挑戦状を投げつけようとした。私はそんなふうに感じているのですが、いかがでしょうか。
しかし、台本を担当したピアーヴェは、ヴェルディよりもよほど「大人」で世情にたけた苦労人であったそうですから、それを万人が共感するような大メロドラマに仕立て上げます。
そのヴィオレッタを、ヴェルディが望んだであろう地点にまで引き上げたのは、恐らくマリア・カラスが初めてではなかったかと思われます。
次の演奏は、当時新進気鋭の指揮者であったジュリーにの指揮による1955年スカラ座ライヴです。


youtubeで聴くことができるとは、実にいい世の中になったものですね。
http://www.youtube.com/watch?v=FvpvCYaMgIE

さて、私としては、さらにその7年後、レナータ・スコットがヴィオレッタを歌い、ライモンディがアルフレードを歌った演奏が一番のお気に入りです。

 レナータ・スコット(ヴィオレッタ・ヴァレリー)
 ジャンニ・ライモンディ(アルフレード・ジェルモン)
 エットーレ・バスティアニーニ(ジョルジオ・ジェルモン)
 ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団
 アントニーノ・ヴォットー(指揮)
 録音:1962年7月(ステレオ)

先ほど、ヴェルディの望んだ地点に到達したのはマリア・カラスが初めて、と書きましたが、スコットは、それをさらに人間的に深めた表現を聴かせてくれています。
いわば、カラスがヴィオレッタに命を吹き込み、スコットがそれに普遍性を与えた、という感じなのでしょうか。
第2幕第5景の、ヴィオレッタとジョルジオ・ジェルモン(アルフレードの父)とのやりとりは、正にこのオペラの白眉でありますが、「美しく清らかなお嬢様にお伝え下さい。不幸な犠牲者がひとりおりまして、その者に残されたただ一筋の幸福の光をあなたのために差し出します、と」と歌う下り。
類型的なお涙頂戴のようにもとれる台詞の中から、彼我の間に横たわる階層の深い亀裂に落ち込んでいく女の絶望的な悲しみがひしひしと伝わってきます。
当初は、自分の息子をたぶらかした娼婦風情と蔑みの眼で見ていた父ジェルモンも、ヴィオレッタの穢れのない純粋で献身的な愛情を知り、心は千々に乱れていく。
この父ジェルモンは、どうも性格が不鮮明で分かりにくい人物のように思われがちですが、当時の時代背景と、彼が属したであろう階級の中にあって、自らの善意と真実が大いなる矛盾の中で崩壊していく苦しみを味わうという点では、当時のヨーロッパ社会の批判にまで到達する極めてリアリスティックな役柄ではないかと、私は思います。
彼は、ヴィオレッタの人間的な高潔さに胸を打たれながらも、息子アルフレードとは別れさせようとする。容姿はもちろん分別もあり心根も清らかで優しさも兼ね備えるヴィオレッタ。恐らく人格面では何の問題もないと考えたことでしょう。
ただ一つ、彼女が「娼婦」であった、という一点を除いて。
この一点だけは、どうしても譲れない障壁であり、結果としてそれゆえに、アルフレードを諦めてくれと無情な懇願をするわけです。
そして、ヴィオレッタを説得するために用いたのが「神」でありました。
男女の愛は神の祝福のもとに成立するものであり、天の祝福がない結びつきは年とともに倦怠の度が増して行き遂には破滅に陥る、と。
つまり、この一見無慈悲に聞こえる言葉は、神が私(父ジェルモン)にいわせているのです、その点を良く考えて欲しいというわけです。
さらに、この父ジェルモンの言葉をヴィオレッタは「本当にその通りです」と受け入れてしまうのです。
彼女は何よりも神を頼みとし、神にもたれていくことで自分が救われると信じすがっていたのですから、これはまた無理からぬことでした。
ここから前に述べた「美しく清らかなお嬢さんにお伝え下さい」の二重唱になるのですが、Durであるのにもかかわらず身を引き裂かれるような悲痛なヴィオレッタの悲しみを伝え、それに父ジェルモンは「piangi(泣き叫べ)」と応ずるわけで、何という無慈悲な親父なんだ!、と腹立たしく思いつつ、父ジェルモンもまた、どうしようもない矛盾の中に落ち込み胸を引き裂かれているのではないかと忖度もするわけです。

この、男女の愛には天の祝福が必要、という概念はカトリック由来のものなのではないかと思います。
ヴェルディは、レクイエムの作曲を手がけるなど、神に対しては敬虔な信仰心を抱いていたと思われますが、カトリック教会や神職などに対しては根強い不信感を抱いていたようです。
その辺りのことを、ヴェルディのレクイエムに関する考察として以前書いたことがありました
ヴェルディがこのオペラを以て、当時の(オーストリア支配下での)観客たちに挑戦状を叩き付けたのではないかという想いを私が強くするのは、こうした描写にも拠っています。

第2幕第15景において、ヴィオレッタの前に金を投げつけるアルフレードの行為に対し、周囲にいる侯爵だの子爵だの男爵だのその連れ合いだのが「女性を侮辱する忌まわしき行為だ」などと、お前らよくいうぜ的な罵声を浴びせる中で、その要因を作った当事者である父ジェルモンが息子を嘆いて歌う「私の息子はどこに行った。彼はもう見えない。もはやお前の中にアルフレードは見ることはできない」は、誠に痛切な叫び声でありました。
だからこそ、最終章の、ヴィオレッタの今わの際に駆けつけた折に発する言葉、「貴女を娘として胸に抱きしめるために参りました」が、ひときわ胸に迫るのでしょう。
このオペラの中では、ジェルモンの娘の婚姻の行方について特に言及はなされていませんので、父ジェルモンの一番の屈託が解決されたかどうかは不明です(個人的な感想を述べれば、兄貴が愛している女性の素性を詮索して、それが故に婚約を破棄するような男が、娘と「相思相愛」だなど、全くのお笑い草だと思いますが)。
しかし、いずれにしても、ヴィオレッタに対して度し難い犠牲を払わせようとした己の無情な仕打ちに対して悔恨の念にのた打ち回る姿から、人として真にあるべき姿を見出そうとし、それをなし得た苦悩が伝わってきます。

バリトンのバスティアニーニは、その父ジェルモンの苦悩を余すところなく表現していました。
彼の素晴らしいバリトンをステレオで聴くことできるだけでも感激です。

ヴィオレッタと父ジェルモンに比べれば、アルフレードは如何にも天真爛漫・直情径行で深みのない人物に見えますが、この物語の中の役回りに鑑みれば、むしろ敢えてそういう設定をした、とも考えられます。
彼のまっすぐな愛が、天性の美貌と才覚ゆえ多くのパトロンに傅かれ贅沢三昧かつ享楽に身を任せる「高級娼婦」の暮らしに浸りきっていたヴィオレッタの目を真実の愛に向けて開かせ、因習に毒された価値観とメンツに囚われていた父ジェルモンに己のそれまでの欺瞞と偽善を気づかせることになるわけですから。
そのアルフレードを、若き日のライモンディが艶やかに歌い上げています。

この演奏を聴いていると、随所でぐっと胸にこみ上げるものがあり、第3幕のヴィオレッタの「さようなら、過ぎし日々の美しく楽しい夢よ」の次の下り(原題である「トラヴィアータ」という言葉が出てくるのはこの箇所のみです)、

「Ah,della tiraviata sorridi al desio;(ああ、道を踏み外した女の願いに微笑みを下さい)
A lei,deh,perdona; tu accoglila o Dio.(彼女に、お願いです、お許しを。おお神よ、彼女をお受け入れ下さい。)」

で、ついに滂沱の涙が溢れてしまうのです。
音楽だけであるのにもかかわらず、そのあまりに真に迫った表現は、私の眼前にその折の情景を鮮やかな映像でまざまざと見せてくれるのでした。

DVDでは、ゲオルギューがヴィオレッタを歌う、ショルティ指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団のものが定番です。

上演は1994年。
私もこのDVDは所持していますが、ゲオルギューの美しさは特筆もの。
それ以上に、当時82歳だったショルティの、年齢を全く感じさせない硬質で一糸の乱れも見せない演奏が聴きものです。
ショルティがこの曲を演奏したのは、これが初めてであったことにも驚きました。
ゲオルギューがヴィオレッタを演じたのも、これが最初。
相当なリスクもあったものと思いますが、それに見合う素晴らしい映像記録が残されたことは、誠に嬉しい限りです。

さて、ヴェルディのオペラでは、父ジェルモンは「改心」をして、ヴィオレッタに許しを請い、娘として(つまり息子の伴侶として)その胸に抱くため彼女の元を訪れるのですが、当時の時代背景を鑑みれば、それはあまりに「おとぎ話」的な展開ではなかったか。
そういう疑問も頭をもたげます。
その意味で、ゼフィレッリ監督の映画版(邦題「トラヴィアータ/1985・椿姫」)はかなり辛口な演出となっています。

この映画は、全てをヴィオレッタの回想という形で構成されており、その最期の時にアルフレードと父ジェルモンが訪ねてくるシーンは幻想であるかのように扱われています。
その死の瞬間にカメラが引いていくと、そこにはヴィオレッタが独りきりで横たわっているという結末で、これは何とも悲痛なものでありました。

ところで、デュマ・フィスの「La Dame aux camélias(椿の花を付けた淑女)」における主人公のモデルであるマリーの胸に挿された椿の花。ひと月のうち28日間は白い椿の花で、あとの3日間は赤い椿の花でした。
赤い椿の花が胸を飾っていた時には、彼女に恋慕する「上流階級の紳士」共は心安らかに眠りにつくことができたといいます。
赤い椿の花を挿していたマリーに激烈な愛の告白をするデュマに対し、マリーはその赤い椿を彼の胸のボタンに挿しながら、「これが白い花に変わったときに訪ねてきて」と伝えました。
これが何を意味するのかを、ここでは敢えて書きませんが、何とも娼婦らしい逢引の示唆だなと、ある意味感心したことを思い出します。

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コメント 14

hirochiki

「椿姫」は一度も拝見したことがありません。
伊閣蝶さんがオペラを劇場で観ることが苦手な理由は、記事を読ませていただきなるほどと思いました。
82歳のショルティさんがどのような素晴らしい演奏をされたのかも聴いてみたい気がします。

このところ、暖かくなったり寒くなったりを繰り返していますね。
なるべく睡眠と栄養をしっかりと取って体調管理に気をつけたいと思います。
by hirochiki (2013-03-13 06:45) 

Cecilia

伊閣蝶さんならではの考察の入った素晴らしい長文、さすがだなあと思いながら拝読させていただきました。
それと比較して誠にお恥ずかしい稚拙な文章ですが、「椿姫」の思い出について書いたことがあります。
http://santa-cecilia.blog.so-net.ne.jp/2005-10-17-1
(文章を訂正したいところもあるのですが、かなり前の文章で管理画面に入るのも難しいです。内容はこのとおりですが。)
白い椿と赤い椿・・・なるほどですね。
私はてっきり赤い椿の時は「清らかに真面目に生活したい期間」なのだと思っていました。娼婦らしい事情があるということですね。
「椿姫」の椿に関してはこんな記事を書いたこともあります。
http://santa-cecilia.blog.so-net.ne.jp/2006-04-12-1

ヴェルディとカトリックについてはよくわかりませんが、原作のマルグリットは臨終前に神父を呼んで最後の秘蹟を受けたいと希望していましたよね。マルグリットとアルマンの父親(原作の名前を忘れました。)のやり取りがオペラと同じだったか確認しないとわかりませんが、神を持ち出されたら言われる通りにせざるを得ない気がします。この父親も印象ではオペラのほうが人間的に優れた人物という気がします。
by Cecilia (2013-03-13 09:09) 

夏炉冬扇

今日は。
今日はコンテンツが…
by 夏炉冬扇 (2013-03-13 12:19) 

のら人

すいません ・・・ クラッシックでもついて行けないのに、オペラまでとは ・・・。 「学」の無い自分を恥じ入るばかりです。 ^^;
今日も風が強くて電車のダイヤに影響を及ぼした東京です。もう、花粉なのかホコリなのか分からない状況ですね。自分は、なんとかまだ凌いでいますが。
by のら人 (2013-03-13 21:12) 

伊閣蝶

hirochikiさん、こんばんは。
「椿姫」は、私個人としては比較的日本人好みのオペラではないかと思います。
もしも機会がございましたら、是非とも一度ご覧下さい。
ショルティ版は、字幕も入っていますから洋画を観る感覚でご覧になれると思います。
今日は夕方からまとまった雨となりました。
明日からまた少し気温が下がるようですね。
やはり睡眠と栄養をしっかりと取って体をケアすることが大切だなと、改めて思いました。
by 伊閣蝶 (2013-03-13 22:49) 

伊閣蝶

Ceciliaさん、こんばんは。
この記事、書き始めてから結構時間がかかってしまったので、徒に長文となってしまい恥ずかしい限りです。
Ceciliaさんの過去の記事、早速拝読させて頂きました。
小六で、デュマ・フィスの原作をお読みになったとは驚きです。
私は、中学校の時、吹奏楽曲に編曲された「椿姫」を演奏し、あの「プロヴァンスの海と台地」のアリアをユーフォニュームで吹いたことから興味を持ち、聴いたのが初めてでした。
原作を読んだのは高校生になってからで、さすがにかなりの刺激を受けましたね。
マルグリットが終油の秘蹟を願ったいきさつ、仰る通り、やはり神の存在は大変大きく、それゆえに何とも切ない想いがしました。
それから、アルマン(アルフレード)の父親は、これも仰る通り、オペラにおいてヴェルディとピアーヴェにより、より明確な性格付けがなされたという印象が致します。

by 伊閣蝶 (2013-03-13 22:49) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんばんは。
かなり私の嗜好に偏った記事でありますのに、コメントを頂き、それだけで感謝感激です。
ありがとうございました。

by 伊閣蝶 (2013-03-13 22:51) 

伊閣蝶

のら人さん、こんばんは。
私も実はそれほど頻繁にオペラを聴く(観る)わけではないのですが、あまり難しく考えずに楽しめればと思っています。
「学」という意味では私もさっぱりで、結局牽強付会の感想文程度のものになってしまいました。
今日の東京はかなりの強風であったとのこと。
20mを超す風はさすがに大変だったことと存じます。
こちらの黄砂はかなりひどい状況ですが、花粉も厳しく、毎日が憂鬱です。

by 伊閣蝶 (2013-03-13 22:51) 

tochimochi

同上です(^^;;
コメントできない自分がもどかしいです。
今日は暑いくらいで明日は10度ダウン、体調もおかしくなりますね。

by tochimochi (2013-03-13 22:52) 

伊閣蝶

tochimochiさん、おはようございます。
どうも私の嗜好が前面に出てしまうような拙文になってしまいましたが、コメントをお寄せ頂き、心より御礼申し上げます。
昨日は、東京で27mを超す強風が吹いたとのことですが、こちらでも今朝はかなりの強風が吹き荒れています。
気温もぐっと下がるようで、本当に体調もおかしくなりますね。
気をつけなければ、と思います。
by 伊閣蝶 (2013-03-14 07:20) 

木曽のあばら屋

こんにちは。
デュマ・フィスの原作ではヒロイン(マルグリット)は恋人(アルマン)に再会することなく
孤独に死んでゆきますから、
ゼフィレッリ監督の映画版はそれを踏まえての演出なのかもしれません。
ヴィオレッタかわいそすぎますけど。
とにかくこの映画版は、溢れんばかりの映像美に魅了されます(音楽的にはちょっと・・・ですが)。

スコット/ライモンディの録音は知らなかったのですが、俄然興味が湧きました。
ライモンディ好きなんですよ。

カラスのライヴはギオーネ指揮の1958年リスボンでの録音が
先年良い音でリリースされ(Pearl レーベル)、ありがたく拝聴しています。
by 木曽のあばら屋 (2013-03-14 23:16) 

伊閣蝶

木曽のあばら屋さん、こんにちは。
ゼフィレッリの映画版、仰る通りと思います。
そちらの方が、当時の時代背景を鑑みると自然な展開といえましょうし。
ヴィオレッタはあまりにかわいそすぎますが、映画版の映像美は、さすがにゼフィレッリならではのものですね。
ただし、音楽的にはちょっと…、という点も同意です。

ライモンディ、この頃は40代前ですから、声の艶も張りも素晴らしいものがあります。
機会がございましたら是非ともお聴き下さい。
千円ちょっとで購入できるのは信じられないくらいです。

それから、カラス&ギオーネによる1958年の録音がリリースされているとのこと。これは私も早速入手しようと思います。
貴重な情報をありがとうございました。
by 伊閣蝶 (2013-03-16 10:48) 

九子

伊閣蝶さん、こんばんわ。
なかなかコメント書けずにおりました。
やっと決心して書いてみようと思います。

>そうした人間が、己の死を超越する「永遠」という概念を屹立させようと足掻くことによって生み出したものの一つの形が「芸術」という世界なのかもしれません。

確かにその通りだと思います。そして、「永遠」が言葉だけで実態が無いというのも、「生」「死」がそうであるごとく、正しいと思います。
このあたりは池田晶子さんの受け売りです。(^^;;

ところで、「古池や」の句ですが、あれは俳句としてはそんなに良いものではないと思ってしまうのですが、有名なのは何か特別な意味があるのでしょうか?(読後の心象風景があんまり広がらない感じで・・。)

椿姫、身を引くなんて日本人だけかと思っていましたが、そういう時代があったのですね。時代というより人に蔑まれる娼婦だからでしょうか?

喩えは悪いかもしれませんが、階級社会のイギリスで、身分違いの恋愛とか進学とかは最初から諦めてしまうように・・・。
by 九子 (2013-03-27 22:43) 

伊閣蝶

九子さん、こんばんは。
大変ご丁寧なコメントを頂戴し、感謝致します。
私個人としては、「生」や「死」は存在を証明するものでありますから、やはり実態はあるのではないかと思っています。
「永遠」はそれとは完全に相反する概念なのではないでしょうか。

「古池や」の句、仰る通り、私も芭蕉の中ではそれほど優れた句ではないと思います。
ただ、恐らく人口に膾炙されている、という点で芭蕉の存在を未来に渡って保証する可能性の高い句ではないかと思い、敢えて選びました。

イギリスのように王制が残っている国においては、やはりその制度を維持するためにもそうした身分の違いを明らかにする必要があるのかもしれません。
そうした制度が残るのは、畢竟、その制度に拠って恩恵を受ける階層が存在するからなのでしょうね。
椿姫は、その階層の深淵を覗き込んだ作品ともいえるのではないでしょうか。

by 伊閣蝶 (2013-03-27 23:36) 

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