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柳町光男監督「さらば愛しき大地」 [映画]

寒い日が続きますね。
と、お約束のような書き出しですが、週末に昔の職場の仲間たちと浜名湖に旅行に出かけ、道々で冠雪した山々を見ましたので、一層その感が強くなりました。
近鉄の蟹江や弥冨辺りから、西の方角に白く輝く伊吹山を見て、12月という季節をしみじみと自覚したところです。

泊まったホテルの最寄駅である天竜浜名湖線の浜名湖佐久米駅のホームでは、餌付されたゆりかもめがやってきて大賑わい。
ゆりかもめ.jpg
浜名湖付近にしばらく滞在した後、シベリア方面に向けて飛び立つのだそうです。
渡り鳥の生活も厳しいものがあるのですね。

気の置けない仲間たちとの飲み会はやはり大変楽しいものですが、ついつい飲みすぎるのが玉にきずですね。
電車よりも車の方が便利ではないかと思ったのですけれども、案の定、翌朝は完全な二日酔い。アルコール検査を受ければ一発でアウト状態で、昼過ぎまで体の中にお酒が残っているのではないかという危うさでした。

帰宅すると、洗濯とアイロンがけが待っています。
面倒ではありますが、ほかにやってくれる人はいませんから頑張らねばなりません。

こんな折、いつもは音楽を聴きながら作業をするのですが、何となく柳町光男監督の映画「さらば愛しき大地」(1982年)が観たくなり、久しぶりにDVDを再生しました。
itosikidaiti.png
ビデオテープやLD、DVDでリリースされたこともありましたが、現在は中古市場での入手となっているようです。
10年以上前にNHKBSで放映されたことがあり、その際にビデオに録画したものをDVDに焼き直して私は所持しておりますが、こうした力作が廃盤の憂き目を見るのは残念なことです。

夜間照明の中に不気味に浮かび上がる鹿島臨海工業地帯をバックにクレジットタイトルが現れ、ジャズフルーティスト横田年昭の音楽が、この世のものとも思えぬ異様な緊張感を持って響き渡る。
この印象的なオープニングクレジットに引き続いて、根津甚八演ずる主人公山沢幸雄が柱に縛られた姿で喚き散らしている場面に移行し、一気にこの酸鼻を極める映画の世界に連れ込まれます。
幸雄が暴れて、家族のものでは手が付けられなくなったために加勢を求められた叔父(草薙幸二郎が好演)らによって抑え込まれ柱に縛り付けられたわけですが、叔父の「そんなに僻むんでねえ」という言葉に対して、彼はこのように答えます。

「叔父さんには分んねえよ!ここの親は、この家の跡取り息子よりも、次男坊の方が可愛いんだとよ。俺は明彦みてえに、この家ば捨てねえぞ。この家のために働いてきたんだぞ!一生懸命やって来たのによぉ。犠牲になって、働いて来たんだぞぉ」

そんなやりとりがあったのかと母親に訊ねると、食事の時に嫌いな納豆を出したのが気に食わなくて暴れたとのこと。
つまり、東京にいる明彦にみんな送ってしまうから、自分には納豆みたいなものしか出さないのだ、という論拠です。
「全く話になんねえ」という叔父のつぶやきが代表するように、全く以て僻み以外の何物でもない。

この長男幸雄の、出口のない苛立ちと焦燥感。
そして、泥沼のような人格破綻へと突き進み、麻薬におぼれ、ついには愛人である順子(秋吉久美子)を刺殺して刑務所に収監される、という、正に救いのないドラマが展開されます。
しかし、そのような暗鬱たる物語の中で、実に克明に人間関係を描き出していて間然とするところがなく、柳町光男監督の並々ならぬ才能に目を見張らせられることでしょう。

幸雄の二人の息子を飲み込む沼の静かで沈鬱な水面。
その二人の息子の野辺送りの参列を照らし出す、日食による異様にさえぎられた光。
ダンプの運転席から俯瞰するパースペクティブ。
破綻していく幸雄の心象風景を表すかのような、木々や稲穂などの緑が、まるで動物のように蠢く描写。
正に、カット一つ一つをゆるがせにしない緊張感が全編を統御しているといえましょう。
また、取引先の部長に暴行を加えたことで警察にしょっ引かれた幸雄を、警察署に迎えに行った妻と愛人が、椅子に並んで腰を掛けてかわすやり取りや、順子が幸雄の弟明彦のところに金の無心に出かける場面などは、なんというかいたたまれないほどの迫真性がありました。

三世代の家族を金銭的に支えなければならないと、ダンプで砂利を運ぶ仕事に精を出していた幸雄が、何故に麻薬に手をだし人格破綻にまで至ることになったのか。
この映画では、そのきっかけの一つを二人の息子の溺死においているようにも思えますが、さらにより深いところに根本的な原因があることを、先に述べた冒頭のシーンが雄弁に語っているようにも感じます。
この環境の中で、少なくとも周囲の人間は、幸雄に対し多少疎ましくは思いつつも身内や親族なり隣人としての愛情を有しています。
子供たちや父母はいうに及ばず(特に母親は幸雄を溺愛しているようにも感じます)、兄から謂れのない非難や言いがかりや暴行を受け、それにじっと耐えている明彦も、その気持ちは恐らく同様でしょう。幸雄が家に残していった息子の俊也にそそぐ愛情表現からもそれは見て取れます。
しかし、幸雄にその思いは伝わらない。
それどころか、周りがぐるになって自分をないがしろにしている、自分を馬鹿にしている、自分を拒絶している、と思い込んでしまう。
確かに、こうした村落共同体的な仕組みが残っていた時代や場所においては、何よりも世間体や体面が重要視され、それゆえにそこからはみ出してしまう長男の行動を何とか抑えようとする気持ちが働くのは無理のないことかも知れません。こうした場合、しばしば不幸は皆で共有されてしまうからです。
従って、何とかまっとうになってほしいと願う周囲の想いは、所詮、自分たちの都合を考えての行動だと思い込んでしまうのでしょう。
その幸雄の、自分を救ってくれる最後の砦であったはずの順子を、結局、己の肥大した妄想に押しつぶされるような形で刺殺してしまう…。

幸雄の求めていた愛の形とはいったいどのようなものであったのか。
いろいろな解釈があろうかとは思いますが、私はゆがんで肥大した自尊心を満足させてくれる「信頼」と彼自身の期待する「正当な評価」ではなかったのかと考えます。

工業化の波によって次々に蚕食されていく緑溢れる故郷に痛みを感じつつも、それでもなおそこに踏みとどまって家族を守ろうとした自分の想いを、家族は全く評価もしないどころか、挙句の果てに自分の嫌いな納豆を突き出す。温和で出来は良いかもしれないが、所詮は故郷を見捨てて東京に出て行った弟を、自分よりも高く評価しているではないか。どういうつもりなんだ!
そして、自分を必要としていてくれたはずの愛人・順子でさえ、自分のことを駄目な役立たずの人間だと見下している。何様のつもりだ!ふざけるな!
という感じだったのでしょうか。
彼がダンプに乗るという仕事を選んだのも、その運転席から辺りを睥睨するという優越感を求めた故のことだったのかもしれません。
強がって粋がってはいても、彼の心は繊細なガラス細工のように儚いものであったのでしょう。
怯懦な心を、最初は酒で紛らわし、ついには麻薬に手を出してしまう。
その麻薬の見せる幻影や幻聴(この映画の描写の中で、麻薬を打つシーンや、その幻影や幻聴に悩まされるシーンは、実に恐るべきものであり、その意味では「反麻薬キャンペーン」などの活動にも大変寄与するのではないかと思われました)は、実は自分自身の怯える心から発せられているものであるにもかかわらず、それを他人のせいにすることによって、自分の心を守ろうとする。

なんという自己中心的な人間なのかと、ため息をついてしまいますが、ここまで極端ではなくても、こうしたタイプの人(自分は正当に評価されないと僻む)はかなり存在しますし、周囲は手を焼いてしまいます。
言うまでもないことですが、「評価」とは他人がするものであり、「信頼」とはそれまで累次重ねてきたその人の生き方の成果に伴ってやはり他人が寄せるものであります。
どちらも人に強要できるものではないのです。
でも、それがわからない人も存在してしまうから、周囲はもちろん当の本人も深い心の傷を負うのでしょう。
この映画において、正にその正反対のパーソナリティを備えた弟の明彦(矢吹次朗が好演)を配置した効果も大変大きかったのではないかと思います。

それから、秋吉久美子演ずる順子。
母親が自分を捨てて若い男と駆け落ちをしてしまった過去を持ち、そのトラウマゆえに家庭を守りたいと考える。
しかし、なぜか選んでしまうのは幸雄のような男(明彦が好意を寄せていたと思われるのにもかかわらず)。
「おめえもおふくろとおんなじだよ!」と幸雄が浴びせた罵声のとおり、同じ道を歩んでしまうのでしょうか。
こうした人も確かに現実に存在し、甲斐性がなかったり浮気性だったりする相手方にひどい目にあわされながらも、なかなか関係を切ることができず、やっと切れても、新しい相手方が同じような輩だったりする例を、私もいくつか見ています。
こちらがどのようなアドバイスをしても、その時には懲りてわかっているつもりになりながら、「あの人は私がいなければだめになってしまう」「私さえ我慢すればすべてうまくいく」「私がついていれば絶対に大丈夫」という根拠のない思いに突き動かされて同じ轍を踏んでしまうわけです。
共通しているのは、(決めつける様で申し訳ないのですが)自分の人生における能動的な目的意識が決定的に欠落していること。具体的な自分の目標というものを持たず、相手の思う通りに行動するといったような一種の依存体質の中でしか自己のアイデンティティを確立することができない人に、こうした傾向が多くみられるように思われます。
そのあたりを、秋吉久美子は実にリアルな演技で見せてくれました。

この映画では、横田年昭の音楽がとりわけ優れていました。
横田年昭は、17歳でデビューを果たしたという天才的なジャズ・フルーティストで、彼の残したアルバムは伝説的な人気を博し、海外にも多くの信奉者がいると聞きます。
ウードやリュートといった中東系の弦楽器をインドの打楽器タブラが支え、その上を自在に蠢くフルートの音色が田村正毅の硬質で精緻な映像にかぶさっていくとき、私は何やら地獄の釜の蓋が開いてその中の深淵を覗き込むような恐怖に感じました。
その音楽は極めて抑制的で、全編を通じて「ここぞ」というピンポイントに現れますから、いやがうえにも映像の緊張感は高まっていきます。
例えば、この映画の中でも極めて重要な意味を持つ「緑」の映像。木々や稲穂や草原が風に揺れて波のように撓う映像に接すると、その多くの場合、見ている人々それぞれの心の中にそれぞれの音楽が流れるのではないかと思われるがゆえに、そうした箇所には敢えて音楽をつけていない。
しかし、わずかに音楽がつけられている「緑」のシーンもありました。そのシーンにつけられた数少ない音は、正に必然的表現というべきで、固唾をのむ思いで画面に引き付けられたものです。

また、いわゆる「BGM」的な音楽を極端に排除する一方、この映画では出演者の歌う歌が意外な効果を生んでいます。
神経痛に悩む母親のところに近所の小母さんたちが集まって愚痴を言い合う中で、三人が声をそろえて歌う「もずが枯れ木で」。
水難事故で亡くした二人の子供の名前と観音様を背中に彫った幸雄が、助手席に順子を乗せたダンプの運転席の上から辺りを睥睨しつつ歌う「唐獅子牡丹」。

義理と人情を 秤に かけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中で 吠えてる 唐獅子牡丹

幸雄の家を追い出され、スナックで働くようになった順子が、そのスナックに来た幸雄の前で泣きながら歌う「一人上手」。

とりわけ、台湾から出てきたという設定で「夜来香」を歌う岡本麗の存在感は白眉で、後年「はぐれ刑事純情派」などに出演していた頃の彼女からは想像もつかない独特のオーラを発揮していました。

この、幸雄と順子が歌う歌は、それぞれのこれまでに通ってきてこれからも通るであろう宿命の道を表すものなのかもしれません。

それから田村正毅のカメラ。
田村正毅は、「解放戦線 三里塚」や「ニッポン国古屋敷村」などのドキュメンタリーのカメラマンとして勇名を馳せましたが、柳町光男監督の元、次回作の「火まつり」でも圧倒的な映像美を見せてくれました。
先に述べた、この映画の重要なファクターとなる「緑」の映像もさることながら、私がとりわけ感嘆したのは、そのパンフォーカスの見事さです。
順子を刺殺した後、その順子との間の一粒種である娘のまり子とともに、今は動かなくなってしまったダンプカーを前にしてパンと牛乳を食べている。そこに二人の警官がやってきて、それに気づいた幸雄がまり子を抱きかかえて田んぼの中を逃げ、ついには捕まってしまうシーンを、パンフォーカスのワンシーンでとらえたカメラワーク。
私がこの映画を初めて劇場で観たときに、シネスコサイズの中にあったすべての被写体にきちんとピントが合い正確かつ的確に芝居をとらえていたことに驚きを禁じえませんでした。
宮川一夫が「雨月物語」でみせたパンフォーカスの映像に勝るとも劣らないものと思われたほどです。

主人公幸雄の人格的破綻を描きながら、このような重く救いのない題材を最後まで破綻なく描き切った柳町光男監督の手腕。
それは恐らく、柳町監督の持つ強固な問題意識に基づくものなのでしょう。

この作品の後、さらに難解で映像美と構成力にあふれた傑作「火まつり」が作られることになります。
撮影はこの作品と同じく田村正毅。そして音楽は武満徹という顔触れでありました。



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hirochiki

この映画は、自分が住んでいる世界とはかなりかけ離れていますが
確かに、ここまでは極端でなくても幸雄や順子のようなタイプの方はいらっしゃいますね。
伊閣蝶さんは、この映画をご覧になりながらアイロンがけをされたのでしょうか。
途中で何度もアイロンがけの手が止まってしまったのではないかと思ってしまいました。

by hirochiki (2012-12-04 19:28) 

夏炉冬扇

今晩は。
昔網走番外地、よく見ました。刺青だ…
by 夏炉冬扇 (2012-12-04 21:55) 

伊閣蝶

hirochikiさん、こんばんは。
仰る通り、何度もアイロンをかける手が止まりました。
何回も観ていたはずなのに、やはり大きなインパクトがありましたね。
私自身、果たして麻薬に逃げるほどのことが本当にあるのか、全く疑問に思います。
自分の身の丈にあった生き方でどうしてダメなのか、その辺りに回答があるのかもしれませんね。
by 伊閣蝶 (2012-12-04 23:13) 

tochimochi

心情描写の的確さに読んでいるだけで映像が頭に広がってきました。
まだ激しい生き方が共感されていた時代ですね。
今は保守的で、暗い時代になってしまったような気がします。
by tochimochi (2012-12-04 23:15) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんばんは。
この歌は「昭和残侠伝」の方ですね。
網走番外地は「春に春に追われし花一つ」という感じだったと思います。
by 伊閣蝶 (2012-12-04 23:16) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんばんは。
仰る通り、激しい生き方の表現が、まだ残っていた頃の映画です。
突き詰めたところまで表現することが忌避されてしまう、という意味では、確かに暗い時代になったのかもしれません。
だからこそ、こうした映画の存在を知って欲しいと思ってしまいます。
by 伊閣蝶 (2012-12-04 23:19) 

のら人

浜名湖ですか? 著名なあの舘山寺温泉? ^^
昔の仲間と温泉旅行は楽しいですよね。
この映画は鮮明に覚えておりますが、なんと言っても秋吉さんのこのシーンですね。これを濡れ場、と書くだけで、また発言するだけで「エロおやじ」との烙印を押される世知辛い世の中。 難しいです。 ^^;
by のら人 (2012-12-05 20:14) 

伊閣蝶

のら人さん、こんばんは。
いやいや、そんな有名なところではありません。
浜名湖レイクホテルという湖畔の宿でした。
ところで、のら人さんもこの映画をご覧になっておられましたか。
秋吉久美子のこのシーン。「濡れ場」という表現が正にしっくりきますね。
しかし、これはこの映画にとって、やはり非常に大切なシーンだと思います。
男と女が、腐れ縁だと思いつつも離れられない理由を描く上で、不可欠だったのではないか、という意味で。

by 伊閣蝶 (2012-12-05 22:09) 

Cecilia

伊閣蝶さんの記事からどれほど力作なのかがよく伝わってきます。
幸雄という人物の描き方に興味があります。また根津甚八はこういう役が似合っていましたよね。母校の先輩が出演しているということもあり、これは是非観てみなければならない映画だと思いました。
音楽の扱い方やカメラワークも興味深いです。
by Cecilia (2012-12-07 08:25) 

伊閣蝶

Ceciliaさん、こんばんは。
秋吉久美子さんはCeciliaさんの母校の先輩なのですね。
大変難しい役を実にリアルに演じておられ、感動してしまいます。
また、根津甚八さんは、この頃やはり一番脂がのっていたのではないかと思います。
現在は鬱病で、俳優もお辞めになった由。
残念な限りです。
このお二人以外の出演者も素晴らしい力演です。
また、音楽とカメラ、実に素晴らしいと思います。機会がございましたら是非ご覧下さい。
by 伊閣蝶 (2012-12-07 22:53) 

通りすがり

> その麻薬の見せる幻影や幻聴は、実は自分自身の怯える心から発せられているものであるにもかかわらず、それを他人のせいにすることによって、自分の心を守ろうとする。

被害妄想・猜疑心・幻聴・幻覚等は覚醒剤の症状であって「心」「意思」「性格」は関係ありません。だから覚醒剤は怖いのです。
by 通りすがり (2013-09-15 15:02) 

伊閣蝶

通りすがりさん、こんばんは。
真摯なコメント、誠にありがとうございました。
by 伊閣蝶 (2013-09-15 17:45) 

サンフランシスコ人

柳町光男監督 『火まつり』...

http://www.clevelandart.org/events/films/fire-festival-himatsuri

6/5 クリーブランド美術館で上映...
by サンフランシスコ人 (2019-06-04 03:23) 

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