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ブルックナー交響曲第9番補筆完成版(2011年改訂版)ラトル&BPO [音楽]

昨夜半から天気が崩れだし、今朝は小雨。昼くらいから雨脚が強くなり、夕方には晴れ間が広がる、といったずいぶん忙しい天気となりました。
職場の玄関に金木犀の樹があったことに、いまさらながらに気づき、その香りに接しながら秋を感ずる毎日です。
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ブルックナーの交響曲第9番。
その前の第8番は皇帝に献上されましたが、ブルックナーはこの曲を「愛する神(Dem lieben Gott)」に捧げたのでした。
私にとってこの曲は殊のほか愛するもののひとつで、高校生時代、ブルックナーに初めて触れた記念すべき作品でもあります。
1887年に着手されたあと、1896年10月11日にブルックナーが死去する寸前まで書き続けられてきましたが、残念ながら4楽章の交響曲としての完成を見ることなく未完に終わりました。
そのような背景から、ほとんどの演奏は第3楽章までとなっており、通常「ブルックナー交響曲第9番の演奏」といえば、この未完のバージョンによるものを指します。

しかし、たびたびこのブログでも取り上げてきましたように、第4楽章の復元、すなわち研究者や学者による資料収集と分析に基づいた補筆完成版の活動も盛んに行われてきました。
因みに、これまで私がCDで所持していたのは以下のものです。

ブルックナーの交響曲第9番(第4楽章補筆完成版)
交響曲第9番(2007年校訂フィナーレ付)ボッシュ指揮アーヘン響
ブルックナーの交響曲第9番「4楽章完成版(キャラガン版1983年/2006年9月補完)」

終楽章の補筆完成版として最も良質なバージョンとされてきたのは「サマーレ、マッツーカ、フィリップス、コールス」の4学者によるいわゆるSMPC完成版(1996年)です。
その後、2004年にコールスが8ページに渡るフーガの内容を復元し、サマーレとともに更なる改訂を施して、2011年改訂版に至ります。
その意味では、正にこの終楽章補筆完成版の現在におけるクリティカルバージョンと位置づけられてもよろしいのではないかと思います。
このバージョンでの終楽章は計647小節に及んでいますが、そのうち208小節はブルックナー自らの手によってスコアが完成されています。
そのほかの部分は草稿を元に個々の弦楽パートや管楽器のスケッチなどからの復元が試みられてきました。研究者たちによる「純粋な」創作は37小節分のみであるとのこと。

この最新版を用いた演奏が、サイモン・ラトル指揮BPOによって2012年2月にベルリンで実現し、そのライブ録音がCD化されました。

あのベルリン・フィルが、とうとうこの補筆完成版の演奏に取り組んだのかと思うと、なんだか大変感慨深いものがあります。
ベルリン・フィルは、カラヤンはもちろんのこと、バレンボイムやヨッフムなど著名な指揮者のもとでこの曲を数多く演奏しており、その中でもジュリーニとヴァントの指揮による演奏が私の記憶には鮮明に残っております。
殊にヴァントとの共演はその中でも白眉のものといえるのではないでしょうか。

ラトルは、2002年、アバドの後任としてベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術監督に就任しました。
以来10年間その地位にあり、若年層の聴衆や演奏家開拓などの方面で着実に実績を上げつつあります。
ラトルは1955年1月の生まれですから、私とほとんど同世代。1980年代にロス・フィルと組んで演奏したレコードなどでセンセーションを巻き起こしました。
私も当時、彼の演奏によるダイレクトカッティングのLPなどをいくつか購入しております。
ただ、どうも肌が合わないというのか、正直に言って、オーディオ装置や音響チェック用に聴いていたという感が強く、好んで聴こうと思う指揮者ではありませんでした。

そんな私が何故にこのCDを購入したのか、というと、一も二もなく「あのBPOがブルックナー9番の補筆完成版の演奏に取り組んだ」という点につきます。
ウィーン・フィルがアーノンクールと組んだときの演奏(2002年ザルツブルク音楽祭)では、基本的にブルックナーの手による部分の断片(フラグメント)にとどまっていましたし、やはり独墺の看板オケではこうした「キワモノ(失礼!)」の演奏には二の足を踏むのだろうな、と思っていましたので。

そんな「失礼」な思惑から購入したのですが、これは本当に失礼でしたね。
極めて精緻にコントロールされたベルリン・フィルの演奏に、改めてこのオケの威力を思い知らされ、それをなしとげたラトルの才能に感服した次第です。
音楽表現は、畢竟、音の響きです。
その音響を楽譜に基づいて再現する、それも演奏者の勝手な思い込みを排して、ひたすら不偏的な演奏を目指す、そういう行き方こそが、実は最も誠実な演奏家の態度といえるのかもしれません。
ラトルとベルリン・フィルの演奏は正にそうなのではないかと思われました。
ベルリン・フィルの演奏、殊に金管のアンサンブルから導きだされる輝かしくも厚みを持った和音には心と体が痺れてしまいます。
恐らくラトルは、その和音を響かせるために相当精緻に各楽器の音量をコントロールしたのでしょう。
そして、さすがにベルリン・フィル、その要求に完璧に応えています。

これまでの第3楽章までの演奏スタイルに固執する人は(私も多分にそうなのですが)、第3楽章のアダージョに深みが足りないような印象を受けるかもしれません。
しかし、このことについては、以前の記事にも書きましたが、第3楽章において終了する演奏表現と、第4楽章までの展開を念頭においたそれとの、演奏設計上の違いに因るものではないかと考えます。
この曲をブルックナーが構想した第4楽章までの形で演奏しようとするのであれば、第3楽章はあくまでも経過楽章なのですから。
そうした観点から聴けば、ラトルが追い求めたこの曲の全体像は、相当に強固なものとして構築されているのではないでしょうか。
ラトルは、この演奏に対する考え方、特に第4楽章について、次のように述べています。

サイモン・ラトル『ブルックナー:交響曲第9番(第4楽章­付)』特別映像

これはなかなか興味深い見解ですし、第4楽章のエッセンス(特にコーダ以降)に触れられますので、よろしければご覧下さい。

というわけで、この演奏、ブルックナー交響曲第9番の補筆完成版に興味を抱いておられる方にとっては、聴いて損のないものだと思います。
しかし、やはり、1〜3楽章までと、補筆完成された第4楽章との間には、相当に深い「溝」があるのではないか。例えばホルンやワーグナーチューバが作り出す和音の響きなども、第3楽章までのそれと第4楽章とでは全く違う印象を受けてしまいます。
もちろん650小節になんなんとする第4楽章のほとんどすべてをブルックナーが実際に構想し譜面に起こしたことは間違いのないところでしょう。
けれども、(このことも以前書きましたが)その残された楽譜とスケッチが、本当にブルックナーの目指したこの曲のフィナーレの最終型であったのかどうかは疑問の残るところです。
あれほどの時間をかけながら遂に完成をみなかったのは、それまでの三つの楽章で作り出した世界を受け止めることの出来るレベルの音楽に仕上げることが出来なかったからではなかったのか。
いや、補筆完成版の第4楽章を聴けば、ブルックナーがどのような全体像を構想していたのかは概ね分かるような気がします。がしかし、現存するスケッチやスコアはそこまで達し得ていないように思われてなりません。
ラトルは先の特別映像の中で、「(ジュースマイヤーが補完した)モーツァルトのレクイエムも定着した。この曲もいずれそうなるだろう」と述べています。
確かに、モーツァルトのレクイエムはもちろん、デリック・クックが補完したマーラーの交響曲第10番も、現在では立派に一定の地位を固めました。
しかし、これらの曲は、未完に終わったとはいうものの、全編を通じて作曲者の意図がある程度明確であり、構想自体の形は整っていたと思われますので、不満はありますが、作曲者の描いた最終形に近いものであった可能性は高かったのではないでしょうか(モーツァルトのレクイエムは妥協の産物かもしれませんが)。
それに比して、ブルックナーの第9番の終楽章は、作者自身が作りあぐねていたような気がしてならないのです。
その意味では、第2楽章までであまりに深遠な世界を作りすぎてしまったため、それ以降の作曲を断念したシューベルトの「未完成」と同じなのではないか、と

いろいろと支離滅裂なことを書いてきましたが、それでも私はこの第4楽章を気に入っています。
この楽章のことを知るまでは、私にとってブルックナー交響曲第9番は、殊のほか愛する曲でありながら、何ともいえない重さと厭世観を感じさせる音楽でありました。
第3楽章の終盤で、天国的な旋律が展開されても、それまでの深刻な重さを払拭することは到底出来ず、大好きでありながらも聴くたびに疲労感をもまた感じてしまうのです。
しかし、この第4楽章のコーダからあと、1〜3楽章までの主要な旋律が同時に出現(第2楽章のスケルツォはティンパニの音型で現れる)し、それがテ・デウム(Te Deum )の音型に収斂して輝かしくも希望に満ちあふれて鳴り響き、そこに第3楽章の最後に出てくる天国的な旋律が重なりながら大団円を迎える結びに至ると、何だか心が解放されるような安らぎが満ちあふれてくる。
もしかすれば、これこそがブルックナーの目指した世界であり、それ故にこそこの曲を「愛する神に捧ぐ」とされた意図ではなかったかと。

この曲の本来の意味での完成版を聴くことは不可能ですが、ブルックナーの目指した世界のほんの一部にだけでも触れることができるのであれば、やはり補筆完成版の存在は極めて意義深いものではないかと考えます。
この、ラトル&ベルリン・フィルの演奏は、それを十分に実感させてくれました。
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hirochiki

キンモクセイの香りに触れると、今年もまたこの季節がやってきたのだなあと思いますね。
そして、素晴らしいブルックナーの世界にも浸られて
お忙しい中にも充実した日々を送られているようで何よりです。
今朝は、昨日の雨で気温が下がったせいかかなり冷え込んでいます。
くれぐれも風邪を引かれませんようご自愛下さいね。
by hirochiki (2012-10-24 05:23) 

夏炉冬扇

お早うごさいます。
知人の家に行くとクラシックがかかっているときがあります。
いいなぁと思います。
朝晩冷え込みます。

by 夏炉冬扇 (2012-10-24 07:40) 

のら人

雨の翌日の今日の朝は冷え込みましたね。油断すると風邪をひきそうです。^^;
金木犀の匂い、確かに秋を感じさせますね。
by のら人 (2012-10-24 08:01) 

tochimochi

職場に金木犀があるとはうらやましいですね。
あの香りをかぐと秋の気配を感じると同時に得した気分になります。
いつもながら音楽に対する素晴らしい感性に感じ入ってしまいました。
by tochimochi (2012-10-24 20:17) 

伊閣蝶

hirochikiさん、こんにちは。
今日も、お天気は良かったものの風が冷たく寒い日になりました。
私の職場でも風邪を引いている人が何人も出ています。
気温の変化が著しいので、hirochikiさんもどうぞくれぐれもご自愛下さい。
金木犀の香り、この香りに接すると、だんだん陽が短くなってくるんだなと少し寂しい気持にさせられます。
なかなか時間が思うように取れず、ご訪問やコメントが間遠になってしまい、本当に申し訳なく思っております。
もう少し余裕が欲しいなと痛感しています。

by 伊閣蝶 (2012-10-24 21:37) 

伊閣蝶

夏炉冬扇さん、こんにちは。
御地でも冷え込んで来ているのですね。
音楽を聴く喜びは、私にとってやはり大変大きなもののようです。
それで少し気持も楽になるようですね。

by 伊閣蝶 (2012-10-24 21:37) 

伊閣蝶

のら人さん、こんにちは。
今日は陽射しは十分でしたが、冷たい風の吹く寒い一日になりました。
しかし、考えてみれば、もうそんな時期なのですね。
金木犀は、それをことさらに感じさせてくれます。

by 伊閣蝶 (2012-10-24 21:38) 

伊閣蝶

tochimochiさん、こんにちは。
私も、事務所の前庭に金木犀の樹のあることを、その香りに接して初めて知りました。
それだけに大変感慨深いものがあります。
音楽は目に見えるものではありませんから、きっと人それぞれに感じ方が異なるものなのでしょう。
それ故に私にとっては魅力に溢れた対象となっているようです。

by 伊閣蝶 (2012-10-24 21:39) 

Cecilia

例年なら金木犀の香りで長女の誕生日が近づいたと実感するのですが、今年は花が咲くのが非常に遅く、誕生日の後になってしまいました。
本物の金木犀の香りは嫌味のない甘く上品な香りですよね。芳香剤もだいぶ質が高くなってきましたが、この香りはとうてい出せないのでは、と思います。
by Cecilia (2012-10-26 15:52) 

伊閣蝶

Ceciliaさん、こんばんは。
今年は10月になっても30度超などという異常な暑さだったため、金木犀の花も贈れていたようです。
金木犀の香りというと、少し前は手洗いなどの芳香剤を想起する人が多かったようですが、近頃は脱臭機能が向上したせいか、無臭のものが多く、そうした感想を聞かなくなりました。
もちろん、金木犀の香りとそれに似せた芳香剤とでは比べ物になりませんが。
by 伊閣蝶 (2012-10-26 21:45) 

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