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イシュトヴァーン・サボー監督「メフィスト」 [映画]

台風12号は、西日本と東海地方に深刻な被害を齎し、やっと日本列島を抜けました。
死者27名行方不明52名。何というひどい被害であることか。和歌山県や奈良県では大規模な土砂災害が起き、多くの家屋や幹線道路も破壊されているとのこと。
また、日本列島を抜けて温帯低気圧に変わったとはいっても雨雲は依然として活発で、今後とも各地に影響を及ぼす可能性があるようです。
全く何ということかと悄然としてしまいます。

人にはそれぞれ忘れられない本、忘れられない音楽、忘れられない映画などがあるのではないかと思いますが、今から30年前、それこそ年間100本近く映画を観ていたときに出会った標題の「メフィスト」のことは、未だに脳裏から離れません。
とりわけラストシーンの光の演出は、映画館という閉鎖的な暗闇の中で、一瞬、自分のいる場所を忘れさせるほど強烈な印象を残したものでした。

その後、この映画は二度ほどテレビで放映されましたが、ビデオもDVDも発売されず仕舞いでした。
そんなわけで、他の同じような作品とともに備忘のため書きためたものを、次に再掲するものです。

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メフィスト「MEPHISTO」
公開年等 1981年西独・ハンガリー、OBJEKTIV FILMSTUDIO メフィストの一場面
原 作 KLAUS MANN
監 督 ISTVÁN SZABÓ
脚 本 PÉTER DOBAI、ISTVÁN SZABÓ
撮 影 LAJOS KOLTAI
音 楽 ZDENKO TARNÁSSY
美 術 JÓZSEF ROMVÁRI
出 演 KLAUS MARIA BRANDAUER、ILDIKÓ BÁNSÁGI、KRYSTYNA JANDA、ROLF HOPPE

極私的感想−仮面の虚構が蝕むもの…

1920年代のドイツを舞台にナチスの庇護のもとで名優としての栄光の座を得た一人の役者の姿を描く。監督はイシュトヴァーン・サボー。
実在の役者グスタフ・グリュンドゲンスをモデルに、トーマス・マンの息子である作家のクラウス・マンが1936年に書いた小説「メフィスト - 出世物語(Mephisto, Roman einer Karriere,)」を基に、監督のサボーとペーター・ドバイが脚色した。
この映画を観て真っ先に感ずるのは、真の意味で「映画らしい映画」ということである。映画でなければなしえない表現、それが秀逸な映像と音楽表現の中に凝縮されている。
そしてこの映画の持つ苦みが観るものを興奮させる。
ここに描かれている人々に、例えば転向・非転向などといった形での一元的な区別のつく者は一人としていない。結果としてどちらか一方にいくことになったとしても、それは様々な逡巡(たとえそれが打算に基づくものであれ)と葛藤の中での選択であることが、その苦みをさらに深めていく。

主人公であるヘンドリック・ヘーフゲン。
1920年代、混乱期にあったドイツのハンブルグ劇場を足場に、思想的にはコミュニストの立場を取り、民衆劇や革命劇に熱を入れる。
しかし彼は、しばしば俳優の大多数がそうであるように自己顕示欲が強く、さらに名誉と地位に対する執着も人一倍大きかった。
ハンブルグ劇場で喝采を浴びる女優に激しい嫉妬心を燃やし、黒人ダンサーの恋人ジュリエットがありながら、リベラリストのブルックナー教授の娘バーバラと結婚し、義父の後ろ盾を以てベルリン国立劇場の舞台に立つ。
ここで演じたメフィストの役が大評判を呼び、州首相に取り入って、遂には国立劇場の総監督の地位に上り詰める…。
コミュニストとしての思想を捨て、ナチスに同調しながら第三帝国を賛美するヘーフゲン。
ハンブルグ時代に、反ユダヤ主義としてヘーフゲンに劇場を追われた役者仲間のミクラスは、その後ナチス党員となりながら、長ずるに及んでその思想に反発して離党し、反ナチの立場をとって、結果としてゲシュタポによって捕縛・処刑されるが、彼とヘーフゲンとの対照的な描き方も大変興味深い。
しかし彼は、己の紡ぎ出す役者としての表現は全て己の信念と良心に基づいたものであり、それゆえにどのような時代であってもそれを観る人々の心を打つはずだと信じていた。
やがて、思想的にはヘーフゲンなど足元にも及ばないほど堅固なコミュニストであった同僚のオットーがゲシュタポに拘束されると、ヘーフゲンは州首相のもとに駆け付け、彼の延命を願う。
州首相は、「そんな用件できたのか。貴様にはうんざりだ。役者は役者らしく舞台のことだけ考えていればいい。他のことに首を突っ込むな!出ていけ!」と一蹴される。
反駁するすべもなく、悄然と立ち去るヘーフゲン。
オットーが処刑されたことを知ったのは、それからしばらくしてからのこと。
彼の中に、今の自分のありように対する疑念と葛藤が湧きあがってくるが、己の権力を誇示する州知事によって作られた壮大なオリンピックスタジアムの中央に曳き出され、四方八方から強烈なスポットライトを浴びせかけられる。
「ヘンドリック・ヘーフゲン!どうだ、ライトを浴びて嬉しいか。これこそライトだろ?」
州首相の喚声がスタジアムにこだまする。
浴びせかけられる強烈なスポットライトの光に狼狽えつつヘーフゲンが呟く。
「奴らは僕にいったい何を望んでいるんだ。僕はただの役者なのに」

このラストシーンは実に強烈で、暗闇の中から放たれるスポットライトの光は、まるで弓矢や弾丸のようにヘーフゲンを追いかけ貫いているかのようであった。
先に触れたミクラスの処刑は、白樺林の中に連行されたミクラスに「さあ、散歩でもしろ」とゲシュタポが声をかけ、自らの運命を知り怯えながら歩き出す彼の背中に向けて複数の拳銃が火を噴くという形で執行されている。
オリンピックスタジアムでのヘーフゲンへのスポットライトの照射は、もちろんこれと対をなすものとして描かれたものだろう。
ナチス党員から反ナチへ、コミュニストからナチ協力者へ、逆方向ではあれども転向者に対する描写としてのコントラストが秀逸である。

この映画は、誠に映画らしい映画として随所に印象的なショットがちりばめられているが、殊に、劇場の桟敷席におけるヘーフゲンと州首相とのやりとりの描き方がすばらしかった。
メフィスト役で大喝采を浴びたヘーフゲンが、その白塗りのメフィストの紛争そのままに桟敷席の州首相のもとを訪れ、芝居がかった上っ面なおべんちゃらやひけらかしを互いに演じ合う。それがいかに茶番であるかは観ている我々以上に演じている本人たち(役柄上)ももちろん承知の上であり、そのやり取りの中で私たちは、州首相こそがメフィストであり、舞台でメフィストを演じているヘーフゲンは己の欲望を実現するために魂を売り渡すファウストそのものであることに気づき愕然とする。
いつしかこのショットは遠景となり全ての音が消される。それによって一層グロテスクにこの茶番劇が描き出されていくのである。

この映画における「音」の処理は特筆すべきもので、この桟敷席で音を消しさる演出を始め、現実の音を伴わない音の演出も含めて、深く感じ入ってしまった。
もともと演劇や舞台をメインにおいた物語であり、またそれに付随するいくつかのパーティが重要なファクターになっていることもあり、こうした場面では既存のものを含め盛大に音楽が鳴らされるわけであるが、そのほかのシーンにおいては極めて抑制的に用いられている。
ヘーフゲンが、愛人であるジュリエッタをパリに訪ねるシーンで流れる音楽、あれ?どこかの店から流れてきているものなのだろうか、というような俗なメロディなのだが、具体的に店が出てくるわけでもなく、その肩すかしも大変に面白く感じた。
しかし、繰り返し言うのだが、具体的に音楽が流れていなくても、この映画からは様々な音を感ずる。無音の中から聴こえる音は、恐らく観客個々に持つ感性に訴えかける演出の力によって奏でられるものなのだろう。
先に書いた、ミクラスの処刑シーンとラストのオリンピックスタジアムのシーンの風の音の演出は身震いがするほど恐るべきものであった。

ヘーフゲンに対し、愛人であるジュリエッタは、
「あなたは自分しか愛さない男よ」
といい、妻であったバーバラは、
「あなたは相変わらず自己欺瞞の人ね。戦うか亡命か、どちらかよ」
という。
ナルシストと自己欺瞞。
それを役者としての仮面で覆い隠している男。それがヘーフゲンなのだろうか。
だが、恐らくもっと本質的な部分で、彼には欠落したものがあったのかもしれない。
ジュリエッタは、彼を評して、表情を作ることだけを考えている、といい、それに応えてヘーフゲンは、それが役者だ、いくつもの仮面を付け替え異なる者を演ずる、しかしそれはその仮面の下に真実の自分があるからできることなのだと反駁する。
しかし、ナチの後ろ盾によって地位と名誉を手に入れたヘーフゲンが、それを「勝ち取る」きっかけとなったメフィストの化粧を落とすとき、そこには彼のいう「真実の自分」の姿はなかった。
熱っぽくハムレットの意義を説き、ハムレットを国民劇的英雄になぞらえることで第三帝国的な成功と喝采を浴びるとき、カーテンコールに応える彼の内部には虚ろな風が吹き抜けていく。
ナルシストであれ自己欺瞞であれ、あるいはコミュニストから転向したナチスの賛美者であれ、彼の中に思想の断片でも残っていればまだしも救われたであろう。
しかし、役者として優れた才能を発揮した彼の仮面の下に、彼自身の姿はなかった。
仮面という虚構以外に彼の存在はなく、彼の真の存在は既に仮面によって蝕まれていた。いや、最初からそのようなものは存在しなかったということかもしれない
あのラストシーンで「僕はただの役者にすぎないのに」と呟いてしまったとき、彼はそのことを絶望的に悟ったのではなかろうか。

この映画において、主演のクラウス・マリア・ブランダウアーのすばらしい熱演はいうに及ばず、州首相を演じたロルフ・ホッペの存在感が出色であった。
州首相、ベルリンが舞台となっていることからして、当然プロイセン州首相であろうから、これは恐らくゲーリングをモデルにしているのであろう。
写真などでよく見るゲーリングにあまりによく似ていて驚くほどだった。
様々な有力者に取り入って、ベルリン国立劇場に進出してきたヘーフゲンは、ホッペ演ずるこの州首相を利用して、さらなる上を目指そうとしたわけであるし、最初のうちは実際そのように推移していったかにみえる。
しかしいつしか主客は逆転し、ヘーフゲンは州首相の張り巡らす網の中に捕えられ第三帝国のために徹底的に利用されていく。いやむしろ、最初から勝負は決まっていたのかもしれない。
その恫喝と懐柔の巧みな使い分け。彼(州首相)こそがこの映画における真の意味での「メフィストフェレス」なのであり、「メフィスト」を演じていたヘーフゲンは、最初からファウストそのものであったのである。

******************** ここまで ********************

何とも肩に力の入った文章かと、読み返して恥ずかしくなる想いですが、今回このブログでアップするためにDVDに焼いたビデオを観返してみて、本質的な感想はあまり変わっていないことを確認しました。

時代に翻弄されたヘーフゲンを哀れに思う気持ちとともに、しかし反面、これは役者としては仕方がないことではなかったか、とも感じています。
役者に限らず、音楽家や演出家などの表現芸術に携わる人々は、名が売れて観客が観てくれなければ即座に生活に困窮してしまいます。
それゆえにこうした芸術家にはスポンサーの存在が必要となるわけで、その最大のものが国家、ということになりましょう。
身過ぎ世過ぎのために役者稼業に精を出す、という程度に割り切れていれば、あまり深い葛藤に苛まれることもなかったのでしょうが、厄介なことに人にはそれぞれに自我というものがあります。自分の存在意義をそろばんずくで考えたくはない、というのも当然の想いであろうか、と。
しかるに、そこまでいう「自分の存在意義」とは一体何なのでしょうか。
この映画において、ヘーフゲン自身は確固としたそれがあると考えますが、結局のところ何もなかった。その絶望の深さに、いまさらながらに震撼とする思いです。

本文の中でも書いてありますが、改めて見直しても、実に映画的な映画であると感じています。
2時間30分近くにも及ぶ長尺の映画ですが、いったん観はじめると、ぐいぐいと引き込まれるように最後までいってしまう、実に魅力にあふれた作品だと思います。
堅牢な脚本に、美術・カメラ・照明など、一分の隙もないほどに計算された構成力、そしてなんといっても音楽・音響のすばらしさは特筆ものです。
ハリウッド映画のように、のべつ幕なし音楽が流れ続けて緊張感のかけらも感じられないような類の使い方とは隔絶した世界を描き出していました。

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hirochiki

時を経てDVDで観返しても同じように感じられたとのことですので、
やはり素晴らしい映画なのだと思います。
「音楽が流れていないのに音を感じる」というのは、スゴイですね。
これでは、2時間半はあっという間に過ぎてしまうと思います。

ところで、台風12号は日本列島を抜けてからも豪雨をもたらし多大な被害を及ぼしていますね。
今日は、北海道で大雨が降るようです。
大きな被害が出ないことをお祈りいたします。
by hirochiki (2011-09-06 05:45) 

伊閣蝶

hirochikiさん、おはようございます。
台風12号がやっと抜けたと思ったら、13号が北上し、今は北海道が大変な豪雨に襲われているようです。
大震災を始め、今年はなんという過酷な自然の猛威に晒される年かと、なすすべもなくため息をつきたくなる気分です。
どうかこれ以上の被害が出ませんようにと、祈るばかりです。
ところでこの映画、本文にも書きましたが、名画座などで再上映でもない限り、目にすることが大変難しく、残念に思います。
ストーリーを詳しく書くのは反則かと思いましたが、せめてあらすじだけでもと紹介させて頂きました。
音楽は、絵画や映画、そして風景などと、本来分かちがたく結びつきお互いに呼応しあうものなのかもしれません。
絵画を観いっているときに頭の中に音楽が鳴り響く体験などは、その典型なのではないでしょうか。
by 伊閣蝶 (2011-09-06 09:30) 

Cecilia

この映画はまったく知りませんでした。
ナチスが絡む映画で気になっている作品があります。”レーベンスボルン”に関するチェコの映画なのですが、YouTubeで見かけ通して観たいと思っています。
http://www.youtube.com/watch?v=VFzcSfzIrb8&feature=related

>ハリウッド映画のように、のべつ幕なし音楽が流れ続けて緊張感のかけらも感じられないような類の使い方とは隔絶した世界を描き出していました。

ディズニー映画などをはじめ、アメリカの映画の多くは常に音や台詞が氾濫していると感じます。
昔観た「テレーズ」という映画は舞台が修道院ということもあるのですが、生活の音とひそやかな会話だけを出しているという点で徹底しています。
http://www.youtube.com/watch?v=-ORClYzL8b0&feature=related
by Cecilia (2011-09-06 09:52) 

伊閣蝶

Ceciliaさん、こんにちは。
ご紹介のあったチェコの映画、全くの未見です。
「レーベンスボルン」という重い題材をどのように描いているのか、私も是非とも通してみたいと思いました。
「テレーズ」は1986年のフランス映画でしたね。
欧州の映画は、ハリウッドとは違い、そうした音楽の使い方などにも大変神経を注いでいるのではないかと思います。
以前に紹介した「シベールの日曜日」のモーリス・ジャールも、ハリウッドのときと欧州の映画(他に「ブリキの太鼓」など)とでは意気込みそのものが違っているように感じました。
因みに、この「テレーズ」もDVD化されていないようです。残念ですね。

by 伊閣蝶 (2011-09-06 12:04) 

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