表現の手段 [雑感(過去に書いたもの)]
朝のうちは青空も覗いていましたが、昼ごろからところどころに怪しい雲が張り出してきました。
日本海側を中心とした集中豪雨は、さらに深刻の度合いを増してきています。
しかし、都心当たりでは、あまりひどい雨が降っていたような印象が薄く、恐らく昼間の降雨量がそれほど多くなかったことによるのかもしれません。
それでも、ところどころでゲリラ豪雨の被害が出ているので、梅雨の終盤を迎えているとはいえ、気を抜けない日々が続きそうです。
ここのところ、作曲や詩作のような創造的な活動からかなり遠ざかっていて、ちょっと寂しいものがありますが、以前、かなりそうしたことに血道をあげていた時期があって、その頃に書いた文章を載せたいと思います。
慌てて付け加えるのですが、「創造的な活動」などといっても所詮は素人の手慰み、稚拙極まりないものばかりなのは言うまでもありません。
にもかかわらず、当時はこんなふうに肩に力が入っていんだなと、今、懐かしく思い出している、という感じです。
******** ここから ********
易経「繋辞上伝」の第12章に「書不盡言。言不盡意。」という一文がある。これは中庸の中で孔子が伝えた言葉でもある。
「書は言を盡さず、言は意を盡さず」
書、つまり文字でいくら細かく書こうとも、その人の言葉を余すところ無く伝えることは出来ず、言葉をいくら用いようとも、その人の意とするところつまり想いを完全に伝えることは出来ない、大要このような意味になるだろうか。
20年近く前に初めて易経を読んだとき、この一節は実に心に染みた。
考えてみれば至極当然のことで、人それぞれが心の中に持つ精神世界という小宇宙は、果てしもなく深遠なものなのだから。
これは音楽において一層顕著だろう。
作曲家の思い描く音楽を完璧に具現化する記譜法は無く、恐らく自分の思うところのすべてを音楽によって表現できる人もいはしない。
では、言葉や音楽は無力なのであろうか。そうではない、と私は思いたい。
人それぞれの想いは、確かに複雑で奥深いものである。
しかし、それがその人の心の中にとどまっている限り実体も何もない単なる観念にすぎない。それを自分の思想なり表現として形作るためには、書や言や音符に頼らざるを得ないのだ。
恐らくそれらのもの一つ一つには、それらのものが生まれてこの方、様々人々に使われててきた歴史の中の様々な思いが打ち込まれているに相違ない。
例えば「山」という言葉一つにしても、
かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
と詠んだ石川啄木と、
山へ行け!君のその憂鬱のすべてをばルックザックに入れて。そしてこのあおあおとした大気のながれる、あかるい巌の頂きにのぼり来よ。
と書いた大島亮吉の「思い」が同じであるはずはないのだ。
音楽にしても、一つの調、一つの和音、一つの音、一つの休符に至るまで、そこにどれほどの歴史が刻み込まれていることか。それは全く以て想像を絶する世界である。
共通するツールであるからこそ、単純に見えながらも複雑で、それこそ無限大の表現を引き出す可能性を秘めている。そのことが私にまた新たな感慨を抱かせる。それをどのように使いこなすことが出来るのか…。課題は大きく深い。
******** ここまで ********
何かを創る、何かを書く、という行為は、やはり創りだしたい!という強烈な想いがあってこそのもので、それがあれば、たとえ手法は稚拙であっても何らかの具体的な形にはなるものだと、私は考えます。
それを彫琢していくために必要な技術をどうやって会得していくのか、恐らくは不断の努力といった頑張りがものをいう世界なのでしょう。
それが欠けているから稚拙なものしか生み出せないし、向上心も養われないのかな、などと自分のこれまでのありようを振り返って、ちょっとブルーになってしまいました。
日本海側を中心とした集中豪雨は、さらに深刻の度合いを増してきています。
しかし、都心当たりでは、あまりひどい雨が降っていたような印象が薄く、恐らく昼間の降雨量がそれほど多くなかったことによるのかもしれません。
それでも、ところどころでゲリラ豪雨の被害が出ているので、梅雨の終盤を迎えているとはいえ、気を抜けない日々が続きそうです。
ここのところ、作曲や詩作のような創造的な活動からかなり遠ざかっていて、ちょっと寂しいものがありますが、以前、かなりそうしたことに血道をあげていた時期があって、その頃に書いた文章を載せたいと思います。
慌てて付け加えるのですが、「創造的な活動」などといっても所詮は素人の手慰み、稚拙極まりないものばかりなのは言うまでもありません。
にもかかわらず、当時はこんなふうに肩に力が入っていんだなと、今、懐かしく思い出している、という感じです。
******** ここから ********
易経「繋辞上伝」の第12章に「書不盡言。言不盡意。」という一文がある。これは中庸の中で孔子が伝えた言葉でもある。
「書は言を盡さず、言は意を盡さず」
書、つまり文字でいくら細かく書こうとも、その人の言葉を余すところ無く伝えることは出来ず、言葉をいくら用いようとも、その人の意とするところつまり想いを完全に伝えることは出来ない、大要このような意味になるだろうか。
20年近く前に初めて易経を読んだとき、この一節は実に心に染みた。
考えてみれば至極当然のことで、人それぞれが心の中に持つ精神世界という小宇宙は、果てしもなく深遠なものなのだから。
これは音楽において一層顕著だろう。
作曲家の思い描く音楽を完璧に具現化する記譜法は無く、恐らく自分の思うところのすべてを音楽によって表現できる人もいはしない。
では、言葉や音楽は無力なのであろうか。そうではない、と私は思いたい。
人それぞれの想いは、確かに複雑で奥深いものである。
しかし、それがその人の心の中にとどまっている限り実体も何もない単なる観念にすぎない。それを自分の思想なり表現として形作るためには、書や言や音符に頼らざるを得ないのだ。
恐らくそれらのもの一つ一つには、それらのものが生まれてこの方、様々人々に使われててきた歴史の中の様々な思いが打ち込まれているに相違ない。
例えば「山」という言葉一つにしても、
かにかくに渋民村(しぶたみむら)は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
と詠んだ石川啄木と、
山へ行け!君のその憂鬱のすべてをばルックザックに入れて。そしてこのあおあおとした大気のながれる、あかるい巌の頂きにのぼり来よ。
と書いた大島亮吉の「思い」が同じであるはずはないのだ。
音楽にしても、一つの調、一つの和音、一つの音、一つの休符に至るまで、そこにどれほどの歴史が刻み込まれていることか。それは全く以て想像を絶する世界である。
共通するツールであるからこそ、単純に見えながらも複雑で、それこそ無限大の表現を引き出す可能性を秘めている。そのことが私にまた新たな感慨を抱かせる。それをどのように使いこなすことが出来るのか…。課題は大きく深い。
******** ここまで ********
何かを創る、何かを書く、という行為は、やはり創りだしたい!という強烈な想いがあってこそのもので、それがあれば、たとえ手法は稚拙であっても何らかの具体的な形にはなるものだと、私は考えます。
それを彫琢していくために必要な技術をどうやって会得していくのか、恐らくは不断の努力といった頑張りがものをいう世界なのでしょう。
それが欠けているから稚拙なものしか生み出せないし、向上心も養われないのかな、などと自分のこれまでのありようを振り返って、ちょっとブルーになってしまいました。
『不断の努力といった頑張り・・・それが欠けているから稚拙なものしか生み出せないし、向上心も養われない』
全く同感です。
そしてワタシもちょっとブルーになってしまいました・・・(苦笑)
by かずっちゃ (2010-07-15 14:17)
かずっちゃさん、おはようございます。
実感しているところを書いたのですが、ブルーな気持を伝染させてしまってすみません_(^^;_
昨日、作曲家の三木稔先生と久しぶりに飲んだのですが、改めてそのことを痛感しました。
by 伊閣蝶 (2010-07-16 07:45)