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ワルターの「主題と変奏」 [音楽]

昨日に引き続いて、まるで冬に戻ったかのような寒さとなりました。
hanamizuki20100423.jpgそれでも、ハナミズキが花を咲かせていて、やはり春の足取りは確かにやってきているようですね。
花を散らせたソメイヨシノが黄緑色の若葉で装われている姿などを見ると、ますますその思いが強くなります。

所属している川柳の会の四月における宿題の中に「歴史」というお題がありました。
これはまた何とも重く難しいお題だなとちょっと途方に暮れています。

歴史は後から振り返ってみるものですから、基本的には事実の積み重ねであるはずなのですが、巷間しばしばいわれるように歴史は「作られる」性格のものでもあります。
特に、様々な情報がネットなどを通じて飛び交っている現代のような状況とはほど遠かった時代において書き残された歴史のほとんどは、時の為政者や有力者に都合良く捨象・捏造されていることが多いのではないでしょうか。
何十億という人間が、それぞれに何十年間もの間を生きてきているわけですから、歴史の数もそれに時間を乗じた数だけ存在するのは当然のことです。

そんな状況にあるわけですから、人にはそれぞれに大切にしたい歴史があり、それに対することの大小や後生への影響力の多寡など、本来であればどうでも良いことのような気もします。

しかし、「歴史」などというと、どうしても時の権力者、政治家、軍人、王侯貴族みたいな連中のなしたことどもばかりを中心に語られがちになりますね。
もちろん、戦国武将や軍人や政治家などの生涯が、講談や小説や演劇や映画や歌劇などにうってつけなほどドラマティックでおもしろいものであったであろうことに異論を申し立てるつもりは毛頭ありませんが、例えば日本という国の成り立ちを振り返りそこから未来を見つめる視点に立ったときに、彼らのなした行為がいったいどれほどの重きを以て語られるべきであるのか一考すべき部分はあるのではないでしょうか。

日本の多くの歴史教科書が古事記や日本書紀における神武東征などの神話部分だとか強国ロシアのバルチック艦隊を打ち破って当時の国際世界にセンセーションを巻き起こした東郷平八郎を取り上げていないことなどに憤慨する人々も世の中には結構いて、実際にそうした方面を強化した教科書を編纂するという事例もありましたが、そうした問題意識を持つことも重要とは思いつつ、日本という国に住んできた人々の底流に脈々と受け継がれてきた伝統のような根本的なものにもっときちんと目を向けていくべきではないか、とも思ってしまうのです。
私の思いからすれば、歴史とは、正にそうした人々が長い時間をかけて築き上げてきた文化の総体であり、それに大きく関与してきた芸術こそが普遍的な価値観を持ちうるものではないかと。

戦国武将たちが残したものでも、例えば信長や秀吉が庇護し大きく羽ばたいた茶道とか、古田織部の残した織部焼きなどは、今に至っても大いなる生命の限りに生き続けています。
足利義満が観阿弥や世阿弥の猿楽を認め庇護したことによって、それ以降の日本の詩歌や音楽、浄瑠璃から歌舞伎に至る壮大な精神文化を形作る礎となったことは間違いのないところでしょう。
藤原定家が仮名文字を整理し、平家物語が和漢混淆文の形態を確立したことによって、私たちはこうして文章を綴ることができるようになりました。
平家物語が、盲目の琵琶法師たちの口述による伝承によって形作られていったことに、私はことさら日本という国の持つ文化の深みを感じております。

歴史とは、本来、こうした普遍的な精神的構築物をこそ主体として伝えていくべきではないかと思うのです。

先に、「戦国武将や軍人や政治家などの生涯が、講談や小説や演劇や映画や歌劇などにうってつけなほどドラマティックでおもしろいものであったであろうこと」に関していえば、こうした講談や小説や演劇や映画や歌劇などがあればこそ、彼らは現在もそうした物語の中で生き続けていられる、ということではないのでしょうか。
全てのことどもを過去のものとし洗い流して消し込んでいく時間という、人力ではあらがうことのできない巨大な力に対し、こうした芸術や表現手段こそが唯一拮抗できる手段であって、仮に人がこのような手段を持たなかったのならば、彼らの生涯が如何にきらびやかなものであったとしても、時間流れの中に朽ち果て忘れ去られていく運命に逆らうことはできなかったはずです。

そんな私の思いを強固にしてくれたのは、指揮者ブルーノ・ワルターの著作「主題と変奏」でした。
私はこの本を20歳の前半の頃に読みましたが、ナチスからの迫害と逃避行、次女の不幸な死などの悲惨な事件の中にあって、どれほど誠実にその生を生きたか、ということがひしひしと胸を打ち、何度も感動の涙を流したものです(もちろん、随所にユーモアに満ちた微笑ましいエピソードも数多くちりばめられていますが)。
そして、その冒頭の部分にワルターがこの自伝を残した理由が明確に書きつけられているのですが、これこそが一番伝えたかった言葉ではないかと、私は考えます。
少し、引用してみたいと思います。
ところで、そもそもひとりの音楽家の生涯が、一般の関心を呼びおこしうるものであろうか。若い頃の私であったら、悲しい気持ちでこの問いを否定したであろう。世間の目にとって重要なのは、王侯であり政治家であり軍人であった。ところが芸術家は、おそらく人を楽しませてはくれるだろうがなくてもすませる存在で、彼らとその意義を比較するのはとんでもないことと思われていた。

ワルターは、当初このように考えつつも、次第に次のように思いを定めていきます。
歴史はアレクサンダーやナポレオンを、ビスマルクやディズレイリやメッテルニヒをとり扱った。それに反して、私の世界を意味するあの分野は、なんとわき道にそれた、なんと世間的につまらぬものに思われたことだろう。しかし、しだいに私の目は開かれてきた。アレクサンダーやナポレオンのしたことで、いまに残っているものがあるだろうか。ビスマルクの帝国、あのきわめて巨大な歴史的変革から、いったいなにが生まれただろうか。

そして、ついに次のような、自伝をしたためる決意を確立するに至るのです。
偉大な精神的業績が政治・歴史上のそれよりも、人類にとって本質的に高い意義を持っているという確信は、ついに私から離れなかった。音楽の女神とその偉大な作品とに仕える一介の使徒として、ここにあえて私の人生について報告するのもそのためである。なぜなら、私の人生は音楽の永遠の力と美に仕えたのであり、その無常も不滅のものとの結びつきによって祝福されていた。世界史的な活動はどれほど重要な人間によるものでも、やはり時間に隷属している。それに比べて、創造的精神の作品はいつまでも消えないのである。ナポレオンは死んだ――だがベートーベンは生きている。

「ナポレオンは死んだ──だがベートーベンは生きている」
なんという本質を突いた言葉でしょうか。

ワルターはこのように記すことのできる生涯を力の限り生きた。
そして、今を以て私たちに至福のときを与え続けてくれているのです。
その演奏をワルターに託した、モーツァルトやベートーベンやマーラーの音楽とともに、永久の時間をこれからも生きていくことでしょう。
時間は彼らの前に膝を折って頭を垂れています。

語り継ぐべき歴史とは、本来こうしたものではないか、そんな風に私は思い、四月の柳会の宿題に対して、次のようなつたない句を提出しました(^_^;

人殺しを偉人とする歴史物

いくさ好きばかりがなぜか人気者

現身は逝けど芭蕉の句は生きる

お粗末!m(_ _)m
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