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音楽と文学 [雑感(過去に書いたもの)]

私は本を読むのが大好きで、それも余りジャンルを選ばず乱読する傾向があります(尤も、いわゆるハウツーものとかアイドル本とかカツマーのサクセスストーリーみたいなシロモノには全く触手が動きませんが)。

そんな乱読本の中でも、やっぱり音楽関係の本を読むことは結構多く、先日もワルターの「主題と変奏」を四半世紀ぶりくらいに読み返し、改めてワルターの深い思索と人柄に圧倒されたところです。
表現芸術を目指す人間が生み出す創作物として、音楽と文学は非常に深い接点があるのでしょうね。

過去にもそんなことを漠然と考えていたことがあり、そのときの文章を再掲します。
これを書いたのは2003年の晩秋の頃でした(読書の秋、ですかね)。

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先日、小倉朗の「自伝 北風と太陽」を読み返し、音楽家には名文家が多いということに改めて気づかされた。
芥川也寸志・團伊玖磨・林光・三善晃・岩城宏之その他、文筆を良くする音楽家は枚挙のいとまもない。武満徹に至っては、詩・随筆・推理小説から映画の脚本まで手がける多才ぶりで、しかも音楽同様ため息が出るほど美しい文章を残している。高橋悠治の「音楽の反方法論序説」や「カフカ/夜の時間」などに見る緻密な構成もまた瞠目すべきものだった。
歴史上を見ても、自分で壮大な物語を構築したワグナーを筆頭に、「作曲の基礎技法」「和声の構造的諸機能」「対位法入門」などを著したシェーンベルク、美しい書簡集を残したメンデルスゾーン、これまた枚挙のいとまがない。

思うにこれは、音楽も文章も基本的にはリズム感が重要なポイントであることと無縁ではなかろう。
文学の上でも「耳がいい」とか「悪い」という評価がある。言葉の選び方、句読点の打ち方、文間の調整、全体の響きの調和、こうした要素が文章の質を大きく左右する。

音楽にも同じことがいえるだろう。改めて述べることさえおこがましいが、旋律とは音の高低だけでは成り立ち得ない。そこにダイナミズムを備えたリズムがあってこそ音は生き生きと流れていくのである。
極端な例を挙げれば、ブラームスの交響曲4番の4楽章(シャコンヌ)における4分音符のみで作られた基本旋律、あれは正にあれでしかなし得ない世界を築いているのだ。決して単なる音の高低のみではない、ブラームス独自の文法が存在する。あの壮大な変奏曲が一見単純に見える音の積み重ねから紡ぎ出されていくとき、私はそこに一つの物語を感ずるのである。

藝術家には俗人が対立すると言った福永武彦氏は、その著作の中で、しばしば音楽的な手法を積極的に取り入れた。これは彼が詩人であったことと無縁ではなかろう。
詩と音楽は極めて近いところにある。従って、詩人の書く散文が音楽的な愉悦を与えてくれるのは理の当然と言うべきかもしれない。

音楽と文学、この間の橋渡しは、あるいは藝術家にとって危険な賭に等しいか…。しかし、自分の求める表現世界を音楽のみで実現することに限界を感ずるとき、音楽家が文章によってそれを補完しようと試みる。これは藝術家として極めて自然な行き方ではなかろうか。それ故にこそ、彼らの残した文章には、しばしば本職をも陵駕する美しさと力が漲っている。私はそう思う。

****** ここまで ******

ブラームスは私の大好きな作曲家の一人であり、中でも交響曲第4番は特別に思い入れが強い曲の一つです。
話題となったクライバー指揮ウィーン・フィルを始め、ザンデルリンク指揮ドレスデン・シュターツカペレあるいはベルリン・フィルなどなど、正にキラ星のごときレコード(CD)が存在し、選択に迷うほど。
また、1986年にミュンヘン・フィルを率いて来日したチェリビダッケの東京文化会館での演奏(10月15日)、私も聴きに行ったのですが、これは正しく「とてつもない」名演でありました(同じ日に演奏されたロッシーニの歌劇『どろぼうかささぎ』序曲 もすごかった)。

因みに、私が初めてこの曲のレコードを買ったのは高校二年生の頃で、もう40年近く前のことです。
アーベントロート指揮のライプツィヒ放送響のスタジオ録音版のモノラルでしたが深く感動したことを懐かしく思い出します。

当時はレコードを買うために、土木工事の現場にバイトに出かけたりしていたものだったなあ、と余計なことまで思い出しました。
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