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弓張月の夜に [雑感(過去に書いたもの)]

今夜、やっとの思いで、日没直後のお月様の姿を見ることができました。
そのとき、待望の梅の花の香りにも出会え、満足です。

月の光というものは誠に不思議な気分にさせてくれるもので、つまりそれは、太陽光線の反射という間接的な光であることによるところが大きいのではないかと、私は勝手にそう感じています。
月を眺めていると様々な想いが頭をよぎるのですが、やはり月を眺めながら書いた以前の文章があるので、ここに再掲します(2005年の秋頃のもの)。

****** ここから

創造とはどのような形をもってなされるのか。
誰も試みたことのない地平をこの世の中に創出することがその目的といえばいえなくもないとは思うが、恐らく、その創造的活動を行っている者にとってみれば、それは結果論でしかないようにも思える。彼の心の中に創造への限りない胎動があり、それを生み出すこと、そして、何よりもそれを他者に訴えかけたい、という思いが全ての源なのだから。
藝術が、それに接する人々の心に訴えかけて成り立つものである限り、そのそれぞれの人々の心の中に持つ文法に沿うものでなければならないはずだ。そうでなければ単なる独りよがりに終わってしまうことだろう。

溝口健二畢生の名作ともいうべき映画「雨月物語」。この脚本を書いた依田義賢が、著書「溝口健二の人と芸術」の中で次のようなことを書いている。
この映画が出てからある学者の方から映画の『雨月物語』は古典をけがすものであると、きついお叱りをうけましたが、秋成が中国の原典から、まったく別の彼のものをたてたように、わたしたちが、秋成から彼のイメージをもとにして、別のものを作ったとしても秋成の作は、少しも汚したことにはならないと思います。次々とたくさんなイメージを持たせるものが凝集しているということで、雨月物語は、古典として絶品だといえるのではないでしょうか。原典と秋成との間のディスタンスこそが、彼の偉大さを意味するわけで、この場合原典は触媒に過ぎないでしょう。同様に、わたしたちがアダプトすることは原典におもねる事ではないと思います。適応した時には既に別のものが生まれて創られてゆくのです。
シナリオライターはいつもそんな立場に立たされますが、現代にも強い共感と豊富なイメージを与えて生きてこそ、古典といわれる所以であり、これが歴史の生命だとさえ思っています。

当たり前のことではないか、と誰しもが思うことだろう、と私は考える。だが、この「学者」のような手合いが意外に多いのもまた事実。
しかし、この学者が日本の古典・国文学を専攻する者であるとすれば、これは実に恥ずべき発言といわざるを得ない。
日本文学における金字塔の一つでもある源氏物語も、唐詩を始めとする中国古典があればこそあれほど深い精神世界が描けたのではないか。須磨の中で白居易の長恨歌を引用する下りなど長安の都で江陵に流された親友を想って詠う白居易の姿が光源氏とダブって重層的な情景を見事に表している。
謡曲も当然にこうした中国古典などの影響を色濃く受け、浄瑠璃などもその謡曲の引用によって鮮やかな情景描写を実現している。
近代文学も全く同じ状況にあり、芥川龍之介などその殆どの著作が今昔物語や宇治拾遺物語あるいは中国古典を元に書かれているのである。
古典の持つ世界と力に魅せられたその時々の表現者は、それを己の創造力の中で再構築して世に出そうと試みた。それは単なる剽窃などというものではなく、むしろ窯変というべきものなのではないか。

映画でも、映画的引用という言葉があるように、篠田正浩やビクトール・エリセが「鑓の権三」や「エル・スール」で見せた引用の見事さは、引用元の価値を高めこそすれ、「汚す」などという場違いな批判からは完全に対立するものであった。況や、溝口の雨月物語に於いてをや…。

音楽の世界でも全く同じことだ。

バッハが様々な通俗曲を収集し、そのエッセンスを自作に生かしたことは論を俟たない。あのシュメッリ讃歌の美しさを見よ!さらにその巨大な成果がマタイ受難曲のコラールという形で結実している。
ブラームスのハンガリー舞曲集、ハイドンやヘンデルの主題による変奏曲もまた然り。
モーツァルトのピアノ協奏曲K488の美しい二楽章を聴くとき、私はバッハのゴルトベルク変奏曲を思い起こす。
ブルックナーの9番の中に、ワーグナーのパルシファルのこだまを聴くとき、ブルックナーのワーグナーに対する敬愛の情を思い、胸を突かれてしまう。
カール・パーマーが、バッハのインヴェンションをパーカッションを中心とするプログレッシブ・ロックに移し変えるとき、そこからは正に敬虔としかいいようのないバッハへの想いがつむぎだされてくる。
このような枚挙の暇もない実例は、創造の場にある者が先人の残した遺産に心揺さぶられたが故の果実なのであろう。
そして、それを聴く者は、その先人の遺産にも想いを馳せることによって、ただそれのみには終わらない襞の複雑に重なり合った音の流転に立ち会うことが出来るのだ。

巨大な先人の足跡を見るとき、我々はその圧倒的かつ絶望的な高さに打ちのめされる。だが、その遺産がある限り、我々の創造の源もまた永遠に尽きることはないのかもしれない。
絵画・建築・音楽・文学・映画・演劇、その他の芸術はもちろんのこと、偉大なる自然を生み出した地球の大きさ、そして宇宙の無限の広がりに想いを馳せれば、眇たるこの身であってすら、創造への希望は果てしない。

「人生を積極的に肯定する情熱がない限り、歌は生まれないだろうと思う」武満徹さんのこの言葉の持つ意味に、また思いをめぐらせた。

弓張月の美しい夜のことである。

****** ここまで
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