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山茶花 [日記]

201001101614000.jpg鹿児島の友人が山茶花の花の写真を送ってくれました。
時ならぬ大雪で見舞われた鹿児島ですが、既に椿の花も咲いていて、そんな中に山茶花の花も残っていたことが印象的だったとのことです。
確かに山茶花というと初冬の頃の花という感じが強いので、椿の花の時期にも残っているんだなと、私もちょっと感慨深くなりました。

尤も、山茶花の花は、10月の終わりから2月の始めくらいまで楽しめますから、そんなに驚くようなことではないのでしょうけれども。

もう7〜8年も前のことになりますが、11月の終わりの木枯らしが吹く頃、たまたま仕事で外出する事案があって、関係者うちそろって歩いているときに垣根の山茶花が見事な花を咲かせている風景に出会いました。

その花を見てとっさにある曲が頭に浮かんだので、傍らを歩いていた同僚に話しかけました。

「おお、山茶花の花だ。もうそんな時期か。♪〜さざんーかのぉぉやぁぁど〜♪、ってかんじだな」

すると、たまたま私の高校の5年下の後輩でしかも吹奏楽部の後輩でもある彼は、

「ええ!そりゃないでしょう。♪〜さざんかさざんか咲いた道〜♪、じゃないんですか」

と応えたのです。

そうか、巽聖歌の「たきび」があったじゃないか、どうしてそれが念頭になかったのだろう、と、先に頭に浮かんだ歌が大川栄策の方であったことに自分ながらおかしく、思わず笑ってしまいました。

というのも、私はどうも「演歌」というジャンルが苦手で(J-POPとかいうのも同じくらい苦手ですが)、そのことは後輩である彼もよく知っていたからに他なりません。
そんな私が、「さざんかの宿」の話題を振ったのですから、はあ?何をいっているんですか、という感じだったのでしょうね。

苦手といいつつもなぜか記憶に残ってしまい、ついつい口ずさんでしまう。演歌はそんな力を有している歌なのかもしれません。

そんなこともあってか、演歌を念頭に置いているのでしょうが、「歌は人生だ」といった物言いも結構聞きます(もちろん私はそれを否定しようとは思いません)。

音楽は、基本的に人生などというものとは積極的な関わりを持たないものではないかと私は思います。
バッハやベートーベンといった人々が様々な思索の中から普遍的な響きを紡ぎ出し、それが聴くものの心を共鳴させる。
その共鳴は、無論、作曲者や演奏者との間での精神的・哲学的な共感に基づくものであるはずです。
矮小化された個々人の事情とか人生などというものとはおよそ関係のないものなのではないでしょうか。
それ故にこそ、これほどまでに長い間ずっと演奏され、多くの人々を感動させつつ、さらに新たなる感動や発見を私たちに与え続けてくれるのです。

一方、演歌などの世界では、そうした個々人の人生だとか男と女の恋愛や未練などというものが声高にセンチメンタルに表現されます。
その意味ではこれほど人生と深く関わりを持った「音楽」もありますまい。

同じように「音楽」という名称で語られながら、それはなんという違いなのでしょうか。
どちらがいいとか悪いとかいうような問題ではなく、一方の価値観で他方を量ることなど到底無理な話なのでしょうね。

送ってもらった山茶花の写真を見ながら、ふとそんなことを思い起こしております。
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