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大植英次指揮NDRのマーラー「交響曲第9番」 [音楽]

気持ちのいい晴天となりましたが、朝からかなり冷え込みが厳しく、西日本でも時ならぬ大雪に見舞われているそうです。
先日は水仙の話などを書きましたが、春はまだまだ遠い空の彼方に待機しているようですね。

私はマーラーが大好きで、特に交響曲の6番と9番に大きな魅力を感じています。

マーラーの9番については、初演者であるブルーノ・ワルターの有名な言葉があります。
「フィナーレでマーラーはこの世に別れを告げる。それは、あたかも青い空にとけていく白い雲のように閉じられる」

あの終楽章のアダージョは正にそのように閉じられていきますから、このワルターの言葉は、さすがにマーラーの愛弟子であったことを彷彿とさせてくれますね。

しかし私は、この終楽章でマーラーがこの世に別れを告げている、とはあまり思えないのです。
むしろこの終楽章は、彼が追い求めてきた魂の安らぎと生への憧れを具現化したものではないかと思われてならないのです。
その意味では、ラファエル・クーベリックの次の言葉の方に、私は満腔の賛意を感じます。
例えば交響曲第二番「復活」にはっきりしているように、彼は全生涯を通じて救世主の問題に拠りつつ生きていました。彼が、それをどう捉えていたかは彼の個人的理由にもよるのですが、とにかく彼は自分自身の問題をめぐって死ぬまでそのことを考えていました。そして、私たちは彼が浄化されてゆくのを、その音楽を通じて聴くことができるわけです。 人間の精神的意味での終末に臨んで、彼は音楽のなかにそれを持ち込むことができたのであり、その意味で第九の終章は奇跡です。この終章を通じて、マーラーは永遠の生に達していますし、また永遠の生がそこに在るのです。もっとも、それを感じ取れない人には仕方がありませんが、もし感じ取れるなら、第九は「死」を媒介として、その人を永遠の生へと導いてゆくことができるはずです。

マーラーの9番の終楽章は、よくブルックナーの9番の3楽章と比較されたりします。
冒頭の弦の9度の跳躍などは非常に似た印象を受けますし、再現部などの現れ方にもブルックナーからの相当な影響が見られるように感ぜられますから。
ご存じの通り、ブルックナーの9番は神に捧げられました。
マーラーもこの曲を書くことによって、恐らく魂の浄化を成し遂げることが出来、そこに救世主・神の存在をみたのではないでしょうか。そんなふうにも思われます。

さて、昨年の6月、大植英次さんは11年間苦楽を共にしてきた手兵ハノーファー北ドイツ放送響(NDR)を率いて、NDRの首席指揮者としては最後となる日本公演を行い、マーラーの9番を演奏しました。
その実況録音を元にした限定版がEXTONのSACDとして昨年の10月に発売されたのです。
私は残念なことにこの公演を聴くことが出来なかったので、このCDの発売は全く以てありがたい限りのことでありました。

本当になんという大きな演奏なのでしょうか。
1楽章の冒頭からその巨大さに圧倒され、終楽章では身震いが止まりませんでした。

私はマーラーの9番のCDやレコードを少なくとも10枚以上は聴いてきましたが、これは恐らくその中でも一・二を争う存在です。

HMVオンラインで購入したのですが、自宅に届いたその日、立て続けに3回聴いてしまいました。
演奏時間は96分ですから半日を費やしたことになりますが、ことに終楽章がひときわ胸にしみて、涙をとどめることが出来ませんでした。

同じNDRでも、テンシュテットやヴァントやブロムシュテットなどが主席指揮者を務めブルックナーやマーラーを十八番としてきたハンブルクとは異なって、どちらかというと小編成の楽曲演奏を主にこなしてきたハノーファーが、大植さんの薫陶を受けてこれほどまでのマーラーを聴かせてくれるオケに成長した。
私は決して国粋主義者ではありませんが、このことについては素直に誇らしく思います。

ところで、このCDに関しては、川柳仲間の藪山澤好さんがご自身のサイトの「身辺雑記」に詳しい感想などを書かれていますのでご参考までにどうぞ。
東京公演の時の観客の態度が最悪だったことなどを知り愕然としましたが、このCDではそれらのノイズについてもかなりきれいに処理されているようでした。

力強く「お薦め」します。
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